第2話 私の足長おじさん
身体の拘束が解かれた。
不自然に足の長い後ろ姿を見送っていたが,我に返り声を漏らした。
「足長おじさん……」
「おじさんじゃねぇよ!」銀髪の男が振り返る。
粗野な言葉と結びつかない,物静かで綺麗な顔だちをしていた。長い睫毛が重そうで目をあけているのも気怠そうだ。
立ちあがり近づこうとすれば,白いTシャツを脱いで投げて寄越す。透明な肌につつまれるしなやかな細身に息をのみ,釘づけになった。
「オヤジ
よれよれに着古しているが,石鹼の香りのする綿のTシャツに頭を突っこみ両腕を通すうちに男の背中が遠ざかっていく。
慌てて追いかければ,石を投げられる。「早く帰んな,じき浮浪者どもが戻ってくんぞ」
「自分だって浮浪者のくせして――」
焦点の定まらない目が俄かに芯を宿し正面を見据えた。まばたきの次の瞬間,男は既に眼前に立っていて大きな掌を振りおろそうとしている。
また
二重の薄い両眼が次第に眦をさげ,やがて膜のかかったみたいに感情を濁した。「そんなだから,いじめられんのさ。そんだけ痣こさえてて親は見て見ぬ振りかよ」頭上から落ちる手の影とその実体とが重なって滅茶苦茶に切られた髪を撫でた。
「本当の親じゃないもん!――母さんは死んだ!」
「新しい母さんからも虐待されてっか? 父さんはどうした? 本当の父さんは継母の言いなりかぃ?」
鼻孔が湿った。啜るのも腹がたち,外方をむく。
「ひっでぇな……」呼気だけの声で笑って人の肩を軽く突く。「けど帰んな。ここにいたら,もっとひでぇ目に遭うからよ」そう言うなり男は小走りに駆け出した。
雨がまた降りはじめた。
木々や雑草に隠れながら追跡を試みた。わくわくしていた。男の姿が忽然と消えたとき,視界がひらけて町を貫く国道へと出た。
国道を見渡せば,大小の車が疾走するばかりで人影はない。左手には両脇から樹木の押し迫るのぼり道がのびているが,倒木が放置されたままになっていて通行が危ぶまれた。
「行っちゃいけん」背後から声がかかる。手拭いを首に巻いた作業服の男がにこにこしながら寄ってきた。「この道は立入り禁止じゃけん。行ったら底なし沼にはまってしまうぞよ」
人を祟る神の棲む山があるという。そこへ繫がる樹海に底なし沼が広がり,無縁仏を投げこむ墓所になっているとか――そんな地元所縁の伝承を耳にしたことがある。
「男の人を見ませんでしたか? 足が長くて銀髪の30歳ぐらいの人――」
「知っとる,知っとる。おじちゃんが連れてってあげよぅわい」
いきなり口を塞がれた。担ぎあげられる。林のなかへ連れこまれながら生臭い体臭を嗅いでいた。
渾身の力を振り絞り手足をばたつかせた。地面に叩きつけられ泥濘に顔を埋める。背後にのしかかる体を押しのけ,泥水を吐き出してから,傍らに男が倒れているのに気づく。流血する頭部を押さえて呻吟している――
岩塊を掌中に弄ぶ足長の人影を認めた。彼のもとに走り寄った。手をひかれて林道を駆け抜け,すぐさま森の出口まで戻った。
バイバイと呟く彼を見つめたまま,その場に座りこむ。表情の険しさを増し,即刻立ち去るようにと強い口調で命じるが,動かないでいると,ナイフをちらつかせ汚い言葉を浴びせかける。
視界を白く煙らせる雨が私たちを打ちつけていた。濡れてきらきら輝く上半身は水晶体みたいだ。泥に汚れたはずのTシャツもすっかり洗い流され純白に返っている。
「さっさと行かなきゃ,ぶっ殺すぞ!」水滴を散らしながら指先でナイフを回転させる。
吸引されるように彼にしがみついた。
稲妻が走った。轟く雷鳴に搔き消される声は優しかった。
「……さっきは運がよかっただけだ。束になってこられたら逃げられるもんか。ここにいると襤褸ぼろになっちまうぜ」人の頭をぽんぽんと叩く。「――おまえの父さんだって真剣に話せば分かってくれるさ。継母について相談してみなよ」
「帰っても襤褸ぼろになる! 一番ひどいことするのは父さんだから!」贅肉のない背中に爪を突き立てていた。
平坦だが滑らかな曲線を描く胸と腹とが微かな溜息と同時にゆっくりうねった。
先導されて脇道に入る。倒木の下を潜り抜け,樹木の枝葉を搔き分け,急傾斜の坂道をのぼっていく。傾斜が緩やかになったころ,道幅が広がって至る場所に直径30センチぐらいの水溜まりができていた。
「獲物の気配を察知すると牙を剝くのさ。落っこちんなよ――生きて這いあがれねぇから」
手と手をぎゅっと握り締め,忍び足で泥水の溜まる天然地雷を回避していく。無数の溜まり場に,異様に腹の膨らんだ小動物や白骨が見え隠れしつつ浮かんでいる。
後方でバタバタと音がした。汚泥に捕まった烏がもがいているのだ。烏のはまった溜まり場が粘った泡を吹く。拡張しながら泥塊を巻き散らし,目まぐるしくほかの溜まり場と接合を繰り返す。
蹠を押しあげられた直後に全身の浮くような感覚があった。足もとが急激に陥没する――
彼に抱かれて宙を舞った。
私の下敷きになって落ちた彼の腕がざっくりさけている。石ころの混じりはじめた地面が鮮血に染まる。何かしら焦燥を覚え,血塗れの腕をなめた。
密生する樹木が疎らになって緑葉を落とし,やがては枯木ばかりが点在し,ついにはそれさえない赤茶けた岩盤におおわれる台地に踏みこんだ。
背後で,汚泥の結びあい拡張を続ける沼がくぐもってはいるが高い音を発し表面張力を起こした。獲物を諦めるのが口惜しく悪態をついたのだ――もう沼は微動だにしない。
視界の下に雲の浮かぶ台地の果てに,南米か何処かの滅びた古都を想わせる遺跡が聳えている。
気持ちが昂って駆け出そうとすれば腕を摑まれる。放射線が漏れているから近寄ってはならないと言う。そして少し苛ついた調子で片足を踏み鳴らすなり,岩盤の一画に空洞が出現した。地下へとのびる石段をおりていくと,大小のコンピューターに囲まれる部屋へ行きついた。
彼が誰で,何者であるかを尋ねようとは思わない。ただ生きる喜びを与えてくれた彼を,ペンドルトンと呼ぶことに決めた。ペンドルトンは私の足長おじさんだ。
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