もしもの世界線

沙織目線での乗馬

 私の目に焼き付いて離れない記憶がある。それは鮮明で色あせることはなく、深く心に刻まれている。とても大きくて力強くて圧倒的な存在感。そんな生き物を間近で見るだけでもすごい体験なのに、その上に人が乗って走っているところを見られるなんて想像もしていなかった。土や砂を蹴りあげながら走る姿は、まさに圧巻だ。


「よし、今日はこれ跳んでみな」

「はいっ!」


 先生に指示された子は、力強い返事をして馬を走らせる。これと示した先には、ハードル走とか走り高跳びの時に使う道具のような障害物が置いてある。「跳んでみな」ということは、やはりあれを跳ぶのだろうか。でも、大人の身長くらい高い位置に設定されている。そんなものを跳び超えるなんていくらなんでも……


 私のドキドキハラハラした心境なんてそっちのけで、どんどんその障害物に近づいていく。そして、その結果は……


「わぁ……っ!」


 心配していたのがバカらしくなるくらいの綺麗な跳躍を見せてくれた。私もあんなふうに跳んでみたい。見ている人を惹き付けて離さない、そんな競技ができたらと。そんなことを考えながら、いつまでも魅入っていた。


 ☆ ☆ ☆


 あの日から私はあの人みたいになりたいと思って、必死に馬を乗りこなそうと努力した。でも、現実はそう上手くいくはずもなく……


「う、わ……あわわ……」


 ようやく一人で馬を操らせてもらえるようになったけど、馬が全然言うことを聞いてくれない。脚を使って「走れ」と指示しても動かなかったり、手綱を引いて「止まれ」と指示しても走り続けたり。完全に馬にナメられていた。先生も、ここまで馬が言うこと聞かないなんてはじめてだって言ってビックリしていたし。もしかしたら、私には才能がないのかもしれない。


「わひゃあっ!?」


 そんなことを考えているうちに、馬に振り落とされて地面に激突した。馬場が柔らかいからそこまで痛くないけど、心がズキズキと痛む。なんで私は上手くできないんだろう。なんで馬にナメられるんだろう。なんで……


「よしよし、大丈夫よ」


 なにかをなだめるような声が聞こえてきたけど、これは私に向けて言っているわけではないことがわかった。身体を起こして、辺りを見渡す。すると、私を振り落とした馬をあこがれの人があやしている姿が見えた。落馬して騎手を失った馬は馬場を暴れまわってしまうことも多い。そうなると、他の馬とぶつかってどっちかがケガをしちゃったり……というのは見たことはないけど、もしそうなったら大変だろうということは簡単に想像できる。


 だけど、ほんの少しさみしい気持ちがするのはなんでだろう。と、そう思った時にその人がこっちを見た。迷惑そうな表情で。


「……沙織ちゃん、いつまで私に手綱を持たせるの?」

「ひゃっ、ひゃいっ! い、今すぐ私がもちますぅ!」

「え、そんなに急いだら……」


 砂ぼこりをはらって急いで馬の方に近づくと、「ヒヒーン」と馬が立ち上がってしまった。そうだ。馬は怖がりな生き物だったっけ。私が走ったことに驚いて、目の前に人がいたから逃げられなくて立ち上がるしかなくなっちゃった……んだと思う。


「ご、ごめんなさ……」

「いいから」


 私の動きを止めて、馬の動きをも必死で止めようとしているところを見て、やっぱりかっこいいなと改めてくぎづけになるのだった。


 ☆ ☆ ☆


 それからしばらく経ったあと、私はあることについて考えていた。とても重要なことをだ。


『私は渡島嫩。よろしくね。それと、ここの代表者ってわけでもないけど……ようこそ、花園乗馬クラブへ』


 はじめてここの乗馬クラブに来た時に、憧れの人……嫩さんに言われたことを思い返していた。その言葉か嬉しくて、ふとした時にいつも思い出しては笑顔になっていた。「よろしく」と言われたのだから、仲良くなってもいいと勝手に思っている。だけど、どうすればいいかがわからない。


 自慢じゃないけど、私は友だちを作るのは得意な方だと思う。暗くなくて人見知りしないし。学校ではいつも友だちに囲まれている。だけど、こういうタイプの人とはあまり関わってきたことがない。友だちも私と同じタイプの子が多いから。


 あこがれという感情も、ここに来てはじめて知った。テレビとか見ていて「すごいな」と思う人はいたけど、ここまで目が離せないのははじめてだ。この人みたいになりたいと思ったのは、生まれてはじめてかもしれない。だからこそ、そんな人に少しでも近づきたいと思う。でも、どうすれば近づけるんだろう?


「……よし、ここは友だちにはじめて話しかけた時の感じでいこう!」


 そう意気込んで、いざ嫩さんの元へ!


「あのっ、嫩さん! 私と友だちになってくれませんか!?」

「……え?」

「私、嫩さんともっと仲良くなりたいんです!」

「なんか、そうやってストレートに言われるのはじめてかもしれないわね」


 嫩さんは悩む素振りを見せたあと、「断ってもしつこく迫ってきそうだし……」とつぶやいた。私のことをなんだと思っているんだろう。嫌がられたらさすがの私もあきらめ……る……かな?


 なんだか自分でもよくわからなくなってきてしまった。嫌がられてあきらめる私ではない気がする。うん、きっとそうだ。というわけで、もう一回「友だちになってください」と言うために口を開こうとすると、嫩さんはふっとやわらかい笑みを浮かべた。


「いいわよ。ただし、あんまりしつこく話しかけないって約束できたらね」

「え、それじゃあ友だちの意味がなくないですか……?」


 友だちというものは、たくさん話せば話すだけ仲良くなるものだと思っていた。嫩さんは、そうは思っていないのかな。

 そんな私の疑問を察したのか、嫩さんは大きなため息をついて答える。


「しつこく、って言ったでしょう。集中乱されるのいやだから。話しかけるだけならそこまで目くじら立てないわよ……」

「なるほど……! わかりました!」

「なんかその返事からして不安ね……あ、それと敬語じゃなくていいわよ。ここでは年上も年下も関係ないから」


 敬語なしでいいなんて、一気に距離が近づいた気がする。これでどんどん距離をつめていけば、親友にもなれるかもしれない。そういう想像をするだけで、自然と笑顔になってしまう。その笑顔が気持ち悪かったのか、嫩さんはおぞましいものを見た時のような顔になっていたけど。あ、そういえば大事なことを忘れていた。


「でも、嫩さんって中学生ですよね……私、まだ小六なんですけど……」


 小学生の私にとっては、中学生は立派な年上の人だ。小学校では先輩後輩みたいな上下関係はほとんど意識したことがない。だけど、それは小学校だけでの話だ。実際、私も年上の友だちはいたけど、その人が中学生になった途端に急に大人びて見えてそれからは会話がぎこちないものになってしまったことがある。嫩さんのことも、小学校の友だちと同じように接することなんてできっこない。


「まあ、みんなそうしてるってだけだから、沙織ちゃんも無理に合わせることはないけどね。でも、私に友だちとして接してほしいならお互いタメ口の方が自然だとは思うけど……」


 言われてみて、たしかにと目が丸くなった。そうだ。距離を縮めるなら、敬語よりもタメ口の方がいいに決まっている。あんまり馴れ馴れしいのは最初はダメだと思うけど。


「わ、わかりました! じゃなくてっ、わかった! わたし、嫩さんと仲良くなりたいからこれからはタメ口でっ!」


 そうやってしゃべっている時、自分でも頬がゆるんでいることがわかった。きっとだらしなく笑っていただろう。でも、これはしょうがない。だって、めちゃくちゃ嬉しいんだもん!


「と、とにかく、そういうことだから」


 嫩さんは顔を赤くさせながらそう言うと、すぐにどこかへ走り去ってしまった。どこへ行くんだろう。まだ自分の仕事残ってるのに……帰るのかな?


 それはともかく、嫩さんにそう言ってもらえてすごく嬉しかった。尊敬する嫩さんと友だちになれたなんて信じられない。夢じゃないと信じたくて、軽く頬をつねってみる。痛くてじんじんするから、これは夢じゃない。よかった。当初の目的は果たせたから、それで満足しそうになった。


「いけないいけない。私の目標は憧れの嫩さんに追いつくこと。そしていつか……」


 ……いつか必ず、嫩さんを追い抜くこと。私が抱いている一方的なあこがれから、一緒に競い合えるライバルになれるように。

 高くて青く澄み渡った空を見上げながら、嫩さんのことを想う。私の果てしない夢が、今まさに始まろうとしていた。


 ☆ ☆ ☆


 それから一ヶ月の間は、特になにも起きなかった。わたしの乗馬スキルは全然上達しないし、相変わらず嫩さんは口数が少ないし、今はなぜか年下の子に馬について教わっている。この状況はなんなんだろう。


「……と、いうわけだ。わかったか?」

「わ、わかりました!」

「わかってなさそうな返事だな……」


 今私と話しているこの人は、夕陽っていうらしい。決して自分から名乗ってくれなくて、他の子にそう呼ばれているのを聞いただけだから確信が持てない。多分その名前で合っていると思うけど。どうもこの人のことはよくわからない。年齢は嫩さんと同じくらいだったはずだけど。


 それにしても、いくら夕陽さんが先輩だからといって態度が大きすぎる気がする。まあ、先輩でしかも年上だから仕方ないと思うけど。それにしても、なんだか見下されている感じがするのはなんでだろう。どこか嫩さんと違う大人っぽさを感じるような……


「おい、沙織?」

「ぶぴゃあっ!?」

「うわ、めっちゃ変な声」


 めちゃくちゃ恥ずかしい。ちょっと気を抜いていたとはいえ、年上の人の前で自分でもはじめて聞くような声を出すなんて。っていうか、私こういう声出せるんだ。


「つか、今日めっちゃ寒いよな。一気に冬が来た感じっていうか……」


 夕陽さんなりに気を使っているのか、わかりやすく話をそらしてくれた。その気遣いがありがた迷惑というかちょっとズレてる気がするというか。でも、この人は気遣いなんてできないと思っていたから、ちょっと意外だ。こういう人もいるんだなぁ。


「まあ、たしかに寒いけどまだ秋だよ?」

「それはわかってんだけどさ」

「じゃあなんで冬が来たって言ったの?」

「それはただの例えだ!」


 夕陽さんの反応を見て楽しんだあと、夕陽さんの反撃から逃げるようにしてとある馬の寝床の中に入り込んだ。


 その馬の名前は、ムーンフラワー。嫩さんがいつも乗っているフラワーシャワーという馬のことがお気に入りで、フラワーシャワーと放牧されるといつも一方的に追いかけ回している。フラワーシャワーの体は真っ白だけど、ムーンフラワーの体は真っ黒。正反対だ。そんなムーンフラワーは、先生が言うにはフラワーシャワーのことをお姉さんとして慕っているらしい。ちなみに、ふたりとも牝馬(女の子)だ。フラワーシャワーの方が年上だから、もしかしたらそういうことなんじゃないかと言っていた。

 好きな人を追いかけ回すだなんて、なんだか私とそっくりだ。フラワーシャワーは追いかけ回されるのがいやで逃げるけど、ムーンフラワーのことはそこまできらいではないらしい。……私も、嫩さんからきらわれていないといいな。きらわれてないよね。なんか急に不安になってきた。


「ムーちゃん……」


 このまま一人で考えていたらいやなことを想像してしまいそうだったから、か細い声でムーンフラワーを愛称で呼んだ。フーちゃんとムーちゃん……なんかいい。うまく説明できないけど、姉妹っぽいというか、仲がいい感じがする。


 でも、ムーちゃんは私のことなんて眼中にないみたいで、ずっと向かい側にいるフーちゃんのことを見つめている。そんなにフーちゃんのことが好きなのか。それとも、私に興味ないだけ?


 またネガティブな気持ちになってきたから、ムーちゃんの部屋からさっさと出ようとした。するとその時、フーちゃんがこっちを……ムーちゃんを見つめていた。まるで可愛い妹を眺めるかのような優しいまなざし。あ、そっか。ムーちゃんと私は違うのか。ムーちゃんはちゃんと、フーちゃんに認められている。


「私は、嫩さんに認められているのかな……」


 認められていると思いたいけど、それは私の願望でしかない。実際はどうかなんて、本人に聞かないとわからない。私は嫩さんと、ムーちゃんとフーちゃんみたいな関係になりたい。まあ、ムーちゃんとフーちゃんの関係がどんなものなのか本当のところはわからないけど。それでも、いいなと思った。やっぱり私は、嫩さんを『ただのあこがれの人』で片付けたくない。もっともっと、すみれさんに近づきたい。心の距離も、乗馬のスキルも、近づけていきたい。

 私は気づいたら、ムーちゃんの顔をつかんで叫んでいた。


「わたしとっ、ペアを組みませんかっ!?」


 当然、返事はなかった。


 ☆ ☆ ☆


「信じらんないっ! ムーちゃんが私を無視するなんてっ!」

「いや、そもそも馬はしゃべらないわよ……」


 私はやり切れない気持ちになって、嫩さんに相談した。相談というか、ほぼグチみたいになっているけど。


「え……? あ、そっか」

「え、本気で無視してるって思ってたの?」

「いやー、動物も人間みたいに思えちゃう時があるから忘れてたよ」

「気持ちはわからなくもないけど……忘れちゃうくらいひどいのね……」


 前々から思ってたけど、嫩さんって言葉を選ばないというか毒舌というか……冷たい気がする。言葉の選び方がアレってだけのような気もすることもなくはないけど。きっと、心は優しいんだ。たぶん。


 嫩さんは私にどう思われているかなんてわからないだろうなと思っていたら、タイミングよく嫩さんが口を開いた。一瞬、心を見透かされたかと思った。


「ところで、なんでそんなことをあたしに言うの?」

「なんでって……友だちでしょ?」


 友だちなら、相談しあったりするものなんじゃないかと思う。私と嫩さんの間では、友だちというものの認識が食い違っているのかな。もしそうだとしたら、私と嫩さんは決定的に合わないことになるのでは。


「いや、そうじゃなくて。あなたが言うには、私とはライバルになりたいんでしょう? それなら私にわざわざそういうこと言わない方がいいんじゃ……」

「そういうことって?」

「いや、私と勝負するためにムーンフラワーに目をつけたってことよ」


 んーと、つまり宣戦布告みたいなことはしないでほしいってことかな。ちゃんと宣言したわけじゃないけど。もしかしたら、ちゃんとした宣戦布告が聞きたかったって線もある。嫩さん、そういうのきっちりしてそうだし。そう思うと、嫩さんの顔が『宣戦布告してほしそうな顔』に見えてきた。よし、さっそく言おう。


「ちなみに面と向かって宣戦布告してもらわなくて結構よ」

「え、嫩さんって人の心読めるの?」

「違うわよ。あなたがわかりやすいだけ」


 嫩さんはそう言うけど、考えていることを当てられたのははじめてだ。学校の友だちにもわかりやすいと言われたことはあるけど、考えていること当てられたことはない。そういう機会がなかっただけかもしれないけどね。それでも、私は嬉しかった。嫩さんと通じ合えたような気がして。


 それと同時に、より一層この人に近づきたいと思った。時間が経つにつれて、その想いはどんどんふくらんでいく。だけど、ふくらんでいくからこそ、はやく上手くなりたいとあせってしまう。すぐ追いつかなきゃと思ってしまう。私はまだ一向に上達していないから。追いつくどころか、スタートラインにすら立てていない。私は、このまま嫩さんの友だちでいられるのだろうか。


「わたし……がんばるから!」

「え? さっき宣戦布告しなくていいって言ったばかりだけど?」


 それでも、下を向いていられない。嫩さんは私と友だちになってもいいと言ってくれたんだから。その想いに答えるために、時間をかけてでも嫩さんに釣り合うライバルになりたい。それが、私にできる……かもしれないことだから。


 私は決してあきらめない。馬にも、ちゃんと向き合おうと思う。まずはムーちゃんのことだけど……


「お、ここにいたのか。って、二人とも仲良いんだなー」

「えへへー、そうでしょー」

「わかりやすいほどにデレデレしてるわね……」


 ここにいたのかって言われたけど、なんの用だろう。私は仲良いって言葉にすぐ反応しちゃった。てへへ。


「あ、それよりも、先生がムーンフラワーを相棒にしていいってさ」

「ほんと!?」

「ああ。その方がやる気も出るだろうって」

「やったー!」


 めちゃくちゃ嬉しい。先生がそういうこと言ってくれたんだってわかったら、ドキドキが止まらない。心臓が異常に仕事をしている。

 これで一歩、夢に近づいた気がする。私はなにも変わっていないけど、馬との相性があるということを聞いたことがある。もしかしたら、今まで乗った子たちとの相性がよくなかっただけってこともあるかもしれない。ムーちゃんと私は似ているところがあるから、気が合ってすぐに乗りこなせるかもしれない。


「見てて、嫩さん。私はムーちゃんに乗って大会に出て勝ってみせるから!」

「そう。じゃあまずはちゃんと乗りこなせるようにならないとね」

「うん!」


 なんとしても乗りこなしてみせる。私は、ムーちゃんと一緒に天下を取るんだ!

 そう決めたところで、ぐぎゅる〜とお腹がなった。その音は花園乗馬クラブに大きく響き渡ったのだった。


 ☆ ☆ ☆


 そんな忘れたい出来事は記憶の彼方に追いやって、わたしはムーちゃんに乗っている。ムーちゃんの乗り心地は最高……といかないまでも、他の子に比べたらずいぶん乗りやすく感じた。やっぱり、私の目に狂いはなかったみたい。よかったよかった。


 前みたいに、嫩さんの前で落馬するという無様な姿を見せなくて済んだ。それだけでもじゅうぶん成長してると言えるだろう。


「ムーちゃん! いくよ!」


 私のかけ声に合わせ、軽やかにダッシュを決める。ちなみに馬の走り方には名前があって、普通に歩いている時は常歩、ぴょんぴょんとジャンプするように走る時は速歩、本気で走る時は駈歩と決まっている。他にも競馬での走り方にも名前があると聞いたことがあるけど、私は競馬にはくわしくないからなんていうのか覚えていない。知らないと不便ってことでもないしね。


 あ、そうそう。今私がムーちゃんにさせている走り方は一番速い駈歩だ。


「よーし、このままどこまでも走れー!」


 私はテンションが上がってそう叫んだ。ムーちゃんと一緒ならこのままどこまでも行けそうな気がする。気持ちが軽くて、楽しくて、空だって飛べちゃいそうだ。

 ……と思っていたら、本当に飛んだ。というより跳んだ。80センチくらいのバーを。


「……へ?」


 バーというのは、障害物の名前だ。嫩さんをはじめて見た時にあったものと似ている。そして、これは『障害馬術』という競技に使うものでもある。正式な競技で、オリンピックの種目としても存在する。オリンピックにもあるなんて本当にすごいと思う。


 なんてことを考えている場合ではない。勢いあまってバーを跳び越えてしまった。先生の指示がある時じゃなきゃ、そういうことはできないのに。どうしようどうしよう。軽い気持ちから一気に重たくなった。


「ひぇぇ……」


 先生にバレたら怒られるよね。やっとスタートラインに立てたのに、罰としてしばらく馬に乗っちゃダメとか言われたら困る。生徒や馬の安全のために絶対馬場は見ているだろうから、ごまかしようがない。いや、でも、跳んでるところを見られていなければわたしから言わなきゃいいだけ……


「さくらさん。ちょっと来なさい」

「アッ、ハイ」


 そんな期待は、先生の威圧感あふれる笑顔であっけなく砕け散った。


 まあ、わたしが思っていた通りこっぴどく怒られたけど、「落馬しなくてよかった」とか「よくあれ跳べたね」とか優しい言葉をかけてくれたから、思わず泣きそうになった。先生って優しいんだなぁ。馬が好きな人に悪い人はいないってことだ。たぶん。

 でも、今度から調子に乗らないでおこう。怒られるのは本当にこわかった。今後はそういうことがないようにしたい。


「お前、やっぱり見ていて飽きないな」

「夕陽さん!」


 見ていて……ってことは、さっき跳んだところを見られたのかな。それとも、先生に怒られているところか。あるいはどっちもということもある。


「み、見てたの……?」

「そりゃ僕も馬に乗ってたからな」

「あぁぁ……そっかぁ……もしかして先生に怒られてるとこも?」

「そうだけど」


 なんてことだ。最悪すぎる。両方見られていたなんて……これは今すぐ地面に穴を掘ってそこに埋まらなければ!

 私が早まっていると、ここに近づいてくる足音が聞こえてきた。


「あなたらしいっちゃらしいけど、ヒヤヒヤするから今度からやめてほしいわね」

「ふ、嫩さん……!」


 なんてことだ。嫩さんにも見られていたなんて。嫩さんも多分、両方見てたんだろうな。夕陽さんが見ていたなら、嫩さんも見ていただろう。


「あ、あの、あれはわざとじゃ……」

「わかってるわよ。わかってるから言ってるんじゃない」

「そ、そうだよね。えっと……」


 なにを話せばいいのかわからなくなってしまった。そこまで恥ずかしい失敗ってわけでもないけど、先生に怒られているところを見られていたのが恥ずかしい。

 若干気まずくなって息苦しさを感じたけど、そんなことは勘違いだったみたい。夕陽さんと嫩さんは、なんだか目がキラキラしているように見えるから。


「お前すげーじゃんか。ちょっと前まで落馬しまくってたのに」

「……へ?」

「そうよ。低い位置ならまだしも、初心者で80センチはそうそう挑める高さじゃないわ」

「え、え?」


 なんだか妙に胸騒ぎがする。褒められることは嬉しいはずなのに、あまり嬉しいと思えなかった。それどころか、軽い恐怖を覚えた。自分でもなんでかわからない。


 本来なら「あこがれの嫩さんに認めてもらえたやったー!」と叫びたいところなんだけど、それは口から出なかった。というか、どんな言葉も口から出るのを恐れているみたいで、本当に不気味に感じた。だけど、その理由はすぐにわかることになる。


「よしっ、今度の大会一緒の競技に出ようぜ。ま、お前はまだ追いつけねーだろうけど」

「そうね。沙織ちゃんにその気があるのなら……私を倒す気があるのなら、全力でかかってきなさい」


 宣戦布告をされた。というよりも、私が二人に挑戦状をたたきつけて二人がそれに応じた……という感じになっている。どうしてこうなった。私にはわけがわからないまま、はじめての戦いが幕を開けようとしていた。


 ☆ ☆ ☆


 涼しい秋がすぎ、冬真っ盛りになった。そのせいなのか、はたまた別の理由があるのか……とにかく私は震えがとまらなかった。


「うぅぅ……なんでこんなことにぃ……」


 いやまあ、確かにこの時を待っていた。嫩さんと直接対決できる日を。でも、なんだか急すぎて私の心がついていけない。なにがなんでも勝たないといけないわけではないけど、直接戦うのははじめてなんだ。だから、それにふさわしいパフォーマンスをしなくてはいけないと思ってしまう。嫩さんを追い越すことはできずとも、嫩さんの二番手くらいは求められる気がする。気がしているだけで、気のせいかもしれないけど。うん、きっと気のせいだ。


 そうやって現実逃避を決め込んでいると、タイミングがいいのか悪いのか、嫩さんと夕陽さんが近づいてきてこう言った。


「今日、あなたがどこまでやれるか楽しみにしているわ」

「沙織、全力でぶつかり合おうぜ!」


 ……これは、現実逃避している場合ではない。全力で立ち向かわないとやられてしまう。だけど、今はまだ立ち向かう心の準備ができているはずもなく……


「あ、えと、ちょっと腹ごしらえしてくるっ!」


 お昼時なのをいいことに、ちょうどいい理由を見つけて二人から逃げた。やっぱり私にはまだ無理だよ。ずっと嫩さんに追いつきたいと思っていてその気持ちにウソはないけど、いざとなると色々なことを考えてしまってこわくなる。私はまだ思っていたよりも覚悟が足りなかったようだ。


 厩舎から少し離れたところに、屋台を見つけた。お昼時なのにもかかわらず、屋台の周りは人気がなくて静かだった。私はここで心を落ち着けようと思った。人気がなくて静かな場所は嫩さんが好きそうだなと思う。ふと気づくと、私は嫩さんのことばかり考えている。その自覚はあった。でもそれは、向き合うこととは少し違う。


「わたしはただ、嫩さんを〝遠いあこがれの人〟としか見ていなかったんだなぁ……」


 あこがれているのは本当だ。だけど、追いつきたいとも思っている。その追いつきたいという想いが予想以上に小さいものだったと気づいたから、私は二人から逃げたのだ。


「どうしよう……でも、私は……」

「どうかしたのかい、お嬢ちゃん」

「はわぁっ!?」


 突然声をかけられ、驚きのあまり奇声を発してしまった。今度から自分のことを奇声のスペシャリストとでも名乗ろうか。


「え、えっと、何用ですか……?」

「いや、お嬢ちゃんがなにか悩んでいるみたいだったからねぇ。つい声をかけてしまったよ。あ、おじさんあやしい人じゃないからね?」


 自分が不審者だと思われないようにしているのか、声をかけた時よりも少し距離を置いてきた。まあ、最近は物騒だからなぁ。いや、私に昔のことなんてわからないんだけど。

 このおじさん……おじいさん? はここの屋台の人らしい。無地のエプロン巻いてるし。そんな人がどうして私を気にかけてくれるのか……謎だ。


「あの、わたしは……」

「あぁ、言いたくないのなら無理にとは言わないよ。ボクも言いたくないことのひとつやふたつはあるからね」

「は、はぁ……」


 この人はなにがしたいんだ。わけがわからな……


「あ……」


 考えてみたら私もそうだ。どっちつかずで中途半端で、私の今日の行動の理由を嫩さんが知ったら、きっとわけがわからないと思うだろう。私だって、追いつきたいという思いはウソじゃない。私がさっさと覚悟を決めればよかっただけのこと。

 それなら、こうしてはいられない。はやく、嫩さんと夕陽さんの元へ帰らないと。そして……ムーちゃんと一緒に、いい成績を残すんだ!


「おじさんっ!」

「は、はいっ!?」


 私が勢いよく顔を上げると、おじさんは目を丸くした。


「お腹空いたんです。焼きそばひとつください!」

「あ、あぁ……かまわないけど……」


 まずは腹ごしらえして、心の前にお腹の準備を整える。そうすれば、きっと気持ちも落ち着くはずだから。

 そして、私は焼きそばを持って厩舎に戻った。我慢しきれず、少しずつ食べながら。


「沙織、お前どこ行ってたんだよ」

「もうすぐ私たちの出る番よ?」

「えっ、わっ、ほんとだ! すぐ準備してくるね!」


 私はまた来た道を引き返す。そっちに荷物置き場があって、焼きそばを置きに行くためだ。バタバタと忙しなくて、休んでいるヒマがない。なんでこうなった。あ、私が二人から逃げ出したせいか。

 でも、不思議と今は逃げたい気分ではなかった。はやくムーちゃんと一緒に跳びたい。そうだ、私は自分のために跳べばいい。嫩さんや夕陽さんの期待に応えなくてもいい。


「ふふっ」

「なんかあいつ、楽しそうだな」

「ええ、そうね。なんだか羨ましいわ」


 ☆ ☆ ☆


 結論から言うと、私は二人に負けた。当然嫩さんが一位で、夕陽さんが二位。私はというと……うーん、言いたくないなぁ。

 もちろん悔しいし、次こそは絶対負けるもんかって思うけど、すごく楽しくてまだ胸がドキドキしている。乗馬ってすごい。障害馬術ってすごい。こんなに興奮が冷めないなんて知らなかった。見ている人たちにも、楽しんでもらえただろうか。


「お疲れ様。まあまあよかったんじゃない?」

「嫩さん……嫩さんはほんとにすごいね」

「あら、降参する気?」


 嫩さんは私の言葉をそうやって受け止めたようだ。たしかに、これだけ差を見せつけられたらそう思う人もいるだろう。私も、その気持ちがないわけじゃないし。

 でもちがう。なんだかスッキリしていた。まるでお風呂上がりみたいに。


「そんなつもりはないよ。というか、もっともっとぶつかり合いたくなった! 今度は負けないからねってかまたやろう!」


 相変わらず、興奮した時には早口になってしまう。今負けても、次も負けたとしても、その次かその次かその次には……という期待や希望がとまらない。ずっと負け続けたとしても、きっと楽しい気持ちはなくならない。こんなに熱い気持ちになれるなら、もっともっと嫩さんと戦いたい。


「ふふっ、あなたってほんと変な人ね。いいわよ。また私が勝つかもだけど」

「えへへっ、やられっぱなしの私じゃないから!」


 こういう会話がライバルっぽくて、私はもっと熱い気持ちになったのだった。いつか、嫩さんを追い抜くことができたらいいな。

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