第二章 聖女な嫩

第16話 莉央の創作世界①

「お前なんかいなきゃよかったんだ」


 いつからだっただろう。

 あるいは最初からだったかもしれない。

 気づいた時には、すでにこうだった。


「なんとか言えよ、クソガキがっ!」


 母はヒステリックに喚き散らし、暴力をふるう。

 殴り、蹴り、物を投げつけてくる。

 物の種類は様々だ。

 クッションだったり、食べ物だったり、分厚い本だったり。


「……そこ、片付けとけよ」


 父はほとんど帰ってこない。

 たまに帰ってきて、私のあざを見てもなにも言わない。

 幼い頃、私が泣きながら母の暴力について話しても「ふーん、それで?」という感じで、興味がないようだった。


 ……ああ、もうこれはだめだ。

 それは親に対してもそうだったが、なにより自分自身にそう感じた。

 親に反抗できない自分自身に。


 なにかベトベトした、粘着質な液体を雑巾に吸収させる。

 この液体はなんなのだろうか。気持ち悪い。

 そんな気持ち悪い、得体の知れない液体が自分にもかかっているのだ。


 いい加減泣きたくなってくる。

 満足な食事も与えられていないから、泣く気力もないのだけど。

 一度でいいから、腹いっぱいになるくらいの食事をしたい。

 一度でいいから、家族で和気あいあいとした食事を体験したい。


「親と仲良くしたいなんて、すごく子どもっぽいなぁ」


 自分の考えにバカバカしくなって、なんだか笑えてきた。

 普通なら殺したいとか思うのだろうか。

 だけど、不思議と『殺したい』とか『死にたい』という感情は浮かんでこなかった。

 それは、自分が親を親として認識しているからだろう。

 そうでなければ、自分の中の憎悪が膨らんでいってしまう。


「……よし、こんなもんかな」


 母によって汚された床を掃除し、汚される前より綺麗にみがいた。


「あ、そうだ。どうせなら色々綺麗にしちゃおう」


 私は軽い足取りで家中をまわった。

 日々なにかを汚すことしかできない母に代わり、私がそれを綺麗にするのだ。

 そうして私は、自分というものを保っているのかもしれない。


 それでもよかった。

 自分の存在意義があるのなら、本当になんでもよかった。

 そうでないと、気が狂ってしまう。

 あるいは、もう狂っているのかもしれない。

 それがわからないほど、精神がまいっていたようだ。


 バケツを手に持ったまま、私はその場に立ち尽くす。

 濡れたままの身体を震わせ、突然目からしょっぱい液体が流れだす。

 手に力が入らなくなり、バケツを床に落としてしまう。

 きたない水が、床にぶちまけられる。


「……っ、うっ……」


 胸が苦しい。胸が締め付けられる。

 自分の心が悲鳴をあげているようだ。

 苦しい、苦しい、苦しい!


 私はわけがわからなくなって、泣き出してしまった。

 幸い、ここは母の部屋から遠い場所。

 だから、私は思いっきり泣いた。


「うわぁぁぁぁ!!」


 それは、悲鳴にも似た泣き声。

 今までの、今の、そしてこれからの、絶望に涙した。


 私に平和は訪れない。

 世界は不鮮明で、世の中は理不尽で、自分は不明瞭で。

 鮮やかで心躍るような色なんてなく、目の前には黒一色しか広がらない。

 そんな人生を送ってきた。

 ……そんな人生しか、送れなかった。


「……ここから離れたら、なにか変わるのかな……」


 それは単純な好奇心だったのかもしれない。

 あるいは、逃げ出したい願望があったのかもしれない。

 もうなんでもよかった。

 別の場所から、世界を見てみたかったのだ。

 ……そうしたら、なにかが変わるのかな。


 その日、私ははじめて自分の意思で家を出た。

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