泉優愛・7-4


 目と鼻の先に、はっきりと、黒い少女の姿。


「ひっ」


 息が詰まった悲鳴を上げて、椅子から転げ落ちた。ずっと遠くから見ているだけの子だったはずなのに、今はすぐそばまで迫っている。少しでも手を伸ばせば触れられるほど、パーソナルスペースの最奥まで潜り込んでいたのだ。それに、黒い少女の体はぼやけていない。つややかな黒髪も、病的に青白く透き通った肌も。全部、全部、よく見える。黒いワンピースの表面が、電子回路かビスマス結晶のような、細かなパターンの刺繍ししゅうがうねっているということも。

 なにもかもが幻だと思いたかったのに。

 全て忘れてしまいたかったのに。

 黒い少女は、理解の範疇はんちゅうを越えた現実を突きつけてくる。


「あ、あなたは誰なの!?」


 暴れ回る心臓を押さえ付けて、やっとの思いで声を絞り出す。口の中のぱさつきは緊張時のそれによく似ていたが、これは別種の感覚だ。

 正体不明の存在が自室に突然現れた。落ち着けと言う方が無理があるだろう。

 優愛の質問に、黒い少女は黙ったままだ。微動だにせず、ただじっと優愛の怯える姿を見つめているだけ。

 捕食者が獲物の品定めをしている、という風には見えない。どちらかと言えば観察している、と表現するのが正解だろうか。感情がさっぱり読めない瞳をしているせいで、その予想が当たっているかは定かではない。まるで奈落の底へ落ちていきそうな、無を体現した純粋な黒。


「あなたは、し、死神なの!?あなたのせいで、みんな脳みそがおかしくなって、だから……自殺者が、ふ、増えているの!?」


 沈黙に耐えきれず、優愛は再び疑問を口にする。自分の生死に関わる、最も不安だったことについてだ。以前凛香が話してくれた仮説では、自殺は脳がおかしくなったせいとかなんとか云々うんぬんかんぬん、それらしいことを言っていたはず。大部分は理解に至らなかったが、断片的には覚えていた。

 黒い少女を見るようになるのと前後して、自殺者が明らかに増加している。先程までは偶然と片付けようとしていたが、それでもやはり気になった。黒い少女がこうして眼前に実在する以上、せめてそれを直接聞いて、杞憂なのだと知りたかったのだ。

 また沈黙を貫かれるかもしれない、という危惧はあった。

 しかしその思いに応えてくれたのか、少女はやっと言葉を紡ぎ始める。ただ、それは優愛が望む内容ではなかった。


「イン果関ケぃ、コ体――異常SEぃ確認ずMi、脳……自sAつ。なし、該TOぅジョう報――死GぁMi」


 首をカクンと硬質的に傾げると、機械音声のように単調な抑揚で黒い少女は答えた。しかもそれは、傷ついたCDを再生したみたいに飛び飛びで、時折ザリザリと耳障りなノイズが走っている。

 人と話しているとは到底思えない返答だった。


「色んな人の頭を、脳をおかしくさせて殺したんでしょ!?変なこと言ってないで、ちゃんと答えてよ!?」


 負けじと無機質な相手に食い下がり、優愛は精一杯の怒声をぶつける。

 自殺ではなくとも、人を無理矢理死なせている可能性はある。凛香の仮説で言えば、人に「普通ではあり得ない選択」をさせてしまう。なんらかの手段で事実誤認させて死へと向かわせているのではないか。

 理解させる気がないような、壊れたラジオを彷彿ほうふつとさせる声だったが、それは想像できた。否、そう思わざるを得なかった。


「世Kaぃの知覚――反Nou、外側、脳への刺げキ……不具Ai、繋がル――中枢、動サ……予測フ能」


 だが、次の反応も情に欠けた、雑音混じりの単語ばかり。言葉ひとつひとつの意味はわかるのに、なにを伝えようとしているのか皆目見当がつかない。

 ――ダメ。この子との会話、全然成り立たないじゃん……。

 すぐ目の前にいるのに全く違う世界にいるような、自分とは別種の遠い存在のように感じる。

 当たり前だ。

 少なくとも人間ではない、この世の者ではない相手なのだから、会話の成立なんて望むだけ無駄なのだ。宇宙人と会話する方が、よっぽど建設的かもしれない。

 諦めの念で気が遠くなり始めた優愛を放置して、黒い少女は語り続ける。


「脳単体ノみ……存ZAぃ、仮に――適Seつな刺激、知カク……イコール、全テ真ジツ。否TEi不カ、個体のシュ観――シン実とキョ構、区べtU。人の自ユウ意志、脳……上層かラ干渉、認シキ不能。無ィ味――個タイの思こウ」


 見た目は小学生低学年程度の、病的に細い体型なのに、大人のように小難しい言葉を並べている。

 自分より幼いはずの相手が、理解の及ばない理屈を、言語として成り立たない単語の羅列られつで伝えようとしてくる。

 表情ひとつ変えず、単調に、ノイズを含ませて。その異様さが、優愛には気味が悪くて耐えられなかった。


「不カ逆――個Taィ、因子モち、脳。是ヒ問わズ……至る、Ziさツ。因子汚染――ない、選別ダン階、コ体――カイ収、Kaィ収、回シュぅ、カい収、かィ収、回しゅウ――」

「もうやめてよっ!」


 ぶつぶつと続く言葉をさえぎって、優愛は激しく拒絶の意志を示した。

 机の上に置きっぱなしだった筆箱を投げつける。かしゃん、とシャープペンシルや定規などが床にぶちまけられるが、そこにはもう、少女の姿はすっかり消えてなくなっていた……黒い羽を一枚残している、という点を除いて。

 ――なんで……どうして。

 せっかく、デートの余韻で夢見心地だったのに。自分がなにをしたというのだ。意味がわからない、わかりたくもない。

 忘れてしまおう。なんとしても忘れるんだ。

 ――晴樹が言ったんだもん、全部幻だって。

 信じよう、彼を。

 自分が見たもの、感じたものは全て趣味の悪い幻想なのだ。当たり前の日常にはいらない、考えたらいけないことなのだ。

 今のは全部なかったことにして、明日からは馬鹿みたいに笑おう。

 きっとそれが一番なのだから。


 残されていた羽は窓から捨てた。

 黒いそれは夜の闇を滑っていき、すぐに溶け込んで見えなくなった。

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