緑川晴樹・2-5


「と、友達面って、私は――」

「勝手にビデオチャットなんて始めた挙げ句、今度は恩着せがましく混ぜてほしい、ですって?ふざけるのもいい加減にしてよ!」


 掴んでいた胸ぐらから一瞬手を離すと、凛香はあらん限りの力で突き飛ばす。よろけた琴子は受け身も取れず、書籍の山を崩しながら床に倒れてしまった。積もっていたほこりが舞い上がり、辺り一面を怯えるように浮遊している。


「ほんの数日の付き合いのくせに、ずっと積み重ねてきた私を差し置いて、本当に何様のつもりよ!?」

「げほっ、ごほっ……べ、別に私、そんなつもりじゃないし……」


 本の角でぶつけてしまった頭をさすりながら、琴子はよろめきながら起き上がる。が、それを阻むのが凛香だ。むせているところを無慈悲にも再び押し倒すと、今度は馬乗りになって動きを封じる。


「うぁっ!?」

「言い訳しないでよ!」


 いわゆるマウントポジションと呼ばれる体勢だ。いくら相手が文化部とはいえ、ひ弱な琴子では勝ち目がないだろう。必死にうめいて体をよじっているが、抜け出せそうになかった。

 まさに絶体絶命、なす術がない。


「あんたが出てこなかったら、こんなことにならなかったのにッ!」

「もういい加減にしろよ、凛香!」


 外敵を排除しようと振り下ろされる、鉄槌てっついと化した凛香の拳。それを晴樹は、琴子を身をていして守るように立ち、真正面から受け止める。

 凛香の全力の拳は、左手のてのひら一枚で軽々と防がれていた。身長が女子並みに低めの晴樹でも、運動部に所属しているだけあって筋力はある。ゴールキーパーは未経験だが、手で攻撃を止めるくらい容易たやすいのだ。

 とはいえ、殴られた衝撃で掌はひりひりと燃えるように痛いし、若干の痺れがあるのも事実だ。それは凛香も同様であり、拳に伝わる痛みで涙を浮かべている。相手を殴る時は自分の手も痛いものだ。

 想定外の暴走に二の足を踏んでしまったが、寸前のところで仲裁に入れてよかった。晴樹は拳を押し返すようにして、琴子との距離を遠ざける。


「こいつが厚かましくてイライラする気持ちはわかるけどさ、暴力に訴えるのはダメだろ。一応オレ達、学級委員なんだからさ」

「くぅっ……!」


 自分の行いを恥じたのか、それとも晴樹に止められたのが悔しかったのか。苦虫を噛み潰したような表情を見せると、凛香はすぐに拳を収めて――部屋を飛び出していった。土石流のような足音を立てて、狭い階段を駆け下りていく。これ以上この場にいるのはばつが悪いのだろう、どうやら外へ逃げるつもりらしい。


「悪いな、藤宮。オレは帰らせてもらう」


 別れの挨拶あいさつは手短に、晴樹は逃げ出した凛香を追う。急いで靴を履いて玄関を飛び出すと、路地裏の細い車道に出た。車は一台も走っておらず、静かな住宅地の一角。真夏の日中なので人通りはなく照り返しが酷い道だ。半開きの瞳孔どうこうまぶしい光が白く突き刺さった。

 道の上には陽炎かげろうが揺らめいている。その先に凛香はいた。脱兎だっとの如き逃げ足でスタートダッシュは速かったが、猛烈な日差しの暑さにやられて疲れてしまったらしい。持久走後半のような、脇腹を押さえた不安定な走り方をしていた。


「おい、待てよ凛香」


 追いついたところで制止しようと肩を叩いたが――払いのけられてしまう。拒絶の意を示すはたき方で、パチンと破裂音が夏の空に響いた。


「しばらく、放っておいて」


 それは落ち着いたトーンだったが、内心怒気が充満しており、少しの刺激で爆発する寸前のニトログリセリン状態だ。相手が晴樹だからせめて冷静に言おう、というわずかに残った理性による判断なのだと察した。


「はぁ、はぁ……。ど……どうした、の……凛香ちゃん?」


 遅れて優愛が駆けつけてくる。運動部にもかかわらず息も絶え絶えだ。服装のせいもあるだろう。薄手のワンピースも汗を吸って、体にぴったり貼り付いている。

 親友の言葉なら振り向くかと思われたが、それでも凛香は聞く耳は持たず、歩みを止めようとしない。居心地の悪い場所から逃げ出すために、家々の隙間に隠れるよう、足早に立ち去っていく。

 空は快晴の青空なのに、凛香の姿はとっくに見えなくなっていた。

 優愛とは仲が良いからこそ、今の自分を見てほしくない。そんな思いがあるからこその行動なのだろう。彼女には頭を冷やす時間が必要なのかもしれない。


「……これは、しばらく駄目そうだな」


 凛香と琴子はそりが合わないと感じていたが、生半可な相性の悪さではなかった。実力行使に出るほどの怒りを覚えるのだ、水と油以上だろう。今は頭に血が上り過ぎて、誰の声も届かないのだとよくわかる。


「えっと、あたし、どうすればいいのかな?」

「とりあえず……今は、そっとしておくのが一番だろうな」


 このいざこざの発端は優愛にある。責任を感じるのはごもっともなのだが、ここで余計なことをすれば更に関係がこじれてしまうだろう。

 晴樹の経験上、女性がヒステリックになっている時は、触らぬ神に祟りなしが基本。自然鎮火を待つのが得策というのが信条だった。そのほとんどが告白を断った時の対処法であり、他の例で使用した経験はないのだが。

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