泉優愛・5-3


 ぴょんぴょんとジャンプしてトイレの扉、その一番上の部分を掴む。扉は木製のため、握った瞬間メキッと甲高かんだかきしんだ。思いのほか大きい音だったので心臓がきゅっと縮み、冷や汗がどっと出てしまう。

 優愛は背が低いので足はゆらゆら、タイル張りの床につかずに揺れている。その体勢のまま、腕の力だけで全身を持ち上げようとする。鉄棒の懸垂けんすいと同じ要領でよじ登り、トイレの中を覗こうとしているのだ。しかし筋力が足らない優愛に懸垂は難しく、なかなか体が上がらない。足をジタバタせわしなく動かしているだけ。ふざけているようにしか見えなかった。


「ふんぬっ……この……っ!」


 このままではらちが明かないと悟ると、今度は左足を壁の段差に引っ掛ける。窓をが設置されており、他の壁より十センチメートル程度へこんでいる場所だ。そこを足がかりにして、両手と左足で不安定な体を支える。たとえるなら下品なスポーツクライミングだ。はたから見れば変質者のする不法侵入行為と変わらない見栄えである。他人には絶対に見せられない不格好なポーズで優愛は勢いをつけて、跳び上がるようにして扉より上へと頭を出した。そこには、


「……あれ?」


 ふたが閉じられた状態の、ひびが入った洋式便器がぽつんと一つ。幽霊はどこにも隠れていない。用を足したら糞尿ふんにょうが漏れ出しそうな、壊れたトイレが設置されているだけだった。

 どうやらトイレの中に隠れたのではなく、またどこかへ消えてしまったらしい。せっかくここまで来たのに取り逃がしてしまった。残念ながら収穫なしである。

 だが、仕方ないだろう。あの少女がトイレの霊ではないかという説も、連想した結果出てきた単なる思いつきだ。初めて出会ったのは道端だし、トイレに入ったのもただの偶然かもしれない。また会えた上に写真が撮れたのだから御の字だ。

 いつまでもトイレを眺めているわけにもいかないので、優愛はゆっくりと慎重に床に降りる。


「――痛っ!?」


 しかし、腕の筋力が限界だったらしく一気に脱力してしまい、勢い余って尻餅をついてしまった。タイル張りの床は硬く、尻に痺れるような痛みが拡がる。何の意味もないが、痛みを和らげようとして、尻をさすろうと手を伸ばしたところだった。

 かさっ、と指先にくすぐったい感触が伝わる。

 ――もしかしてトイレットペーパーの切れ端?

 誰かが使った時に落としたのだろうか。汚物がついていたら嫌だな。などと想像しながら指先へ視線を向けると、そこにあったのは一枚の黒い羽。まるでからすのような、漆黒の色がそこにぽつんとあった。


「これって……」


 全く同じ色と形をした羽が、初めて黒い少女と会ったときにも落ちていた。もしかしてこれは、彼女が消える間際に残していく、いわば少女の落とし物なのではないか。

 ――ちょっと待って。

 この羽は自分の真後ろに落ちていた。ということは、開かずのトイレを必死に覗き込んでいる間、少女はずっと下から眺めていたのではないか。必死に幽霊を探そうとして、無様な姿を晒している自分を、背後からずっと、不明瞭な表情でずっと。


「ひっ」


 途端に、思い出したかのように悪寒が全身を駆け巡った。ずっと優位だった好奇心がさっと引いてしまい、気味の悪さだけがべったりまとわりついてくる。鼓動がドクドクと、激しく脈打ち暴れている。音楽室から聞こえてくる管楽器の音も、まるで別世界のように遠く感じた。

 黒い羽はそのままに、優愛は弾かれたように飛び出す。本能的にここにいたくない、と判断していた。足音をうるさく反響させながら、一気に駆け下りてテニスコートに戻る。校庭は相変わらずの暑さだったが、室内のじめじめさと比べたら爽快な、からっとした手触りの空気で満ちている。もうほとんどの部員が練習を再開しており、軟式ボールがぱこん、ぱこんと軽快な音を奏でていた。

 大嫌いな部活だったが、気を紛らわすのにはちょうどいい。何も考えずに体を動かして、しつこい寒気を取り払いたかった。


部活が終わった後、早速琴子に心霊写真を送ろうとした。望み通りに撮れたのだから、彼女も大喜びするだろう、と思って画像ファイルを確認したのだが、不自然に歪んだ写真が一枚保存されているだけ。心霊写真は撮れていなかった。

 正確に言うと、撮れたはずの写真がおかしくなっていた、である。廊下で浮かんでいる姿を激写したはずなのに、映っていたはずの部分がモザイクよりも歪に変形しており、幽霊がどれなのか判別がつかなかった。撮影失敗した踊り場しか映っていない写真は無事撮れていたので、スマホのカメラが故障していた可能性はない。黒い少女を撮ろうとしたからおかしくなったのだ。

 琴子には事情を伝えた上で、ラインを用いて写真を送っておいた。するとなぜかテンションがいつも以上に上がっているようで、


{これぞまさに怪現象!とても興味深いね!)

{もっと写真がほしい!また見つけたらいっぱい送って!)


 という返信があった。

 つい先日まで大して仲良くなかったはずなのに、すっかり友人みたいに接してくるようになった。しかし、別に嫌な気はしない。陰気な子だとずっと思っていたが、趣味が怪しいという点に目を瞑れば普通の子だ。それに幽霊の話を真剣に取り合ってくれるので、優愛としては嬉しい限りだった。

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