泉優愛・5-2


「あっつ……」


 校舎の中はサウナ状態だった。教師達はクーラーの効いた職員室で仕事中、吹奏楽部も同様の環境で練習に打ち込んでいるのだろう。そのため窓はほぼ全て施錠されている。夏期休業中なので、下手に鍵を開けると閉め忘れてしまい、後々問題になるかもしれないから、という理由もありそうだ。

 おかげで校舎は密閉された空間と化しており、よどんだ空気がどろのように沈殿していた。

 湿った木の臭いが漂ってくる。じっとしていても汗が噴き出てくる。管楽器の音が微かに反響して、鼓膜を鈍く震わせている。

 ――どこにいったの……?

 キョロキョロと辺りを見渡しながら廊下を歩いてく。無人の給食室や職員用のトイレ、教材庫などに誰かがいる気配はない。どこかの部屋に逃げ込んだ、というかんじではなさそうだ。

 ――じゃあ、まだ移動中?

 その発想は正解。黒い少女の姿は二階へ続く階段、その踊り場にあった。大きな姿鏡が壁に貼り付けられている、広めに設けられた空間だ。そこを無音で通っており、時折ぼやけて背景に溶け込みそうになりながら、上の階へ向かってスライドしていく。

 ――撮らなきゃ!

 スマートフォンのカメラを起動して、素早くシャッターボタンを押した。が、その直前で少女は階段の陰に隠れてしまう。撮影失敗。撮れたのは何の変哲もない、ただの踊り場だけだ。


「ま、待ってよ!」


 優愛はカメラ機能にしたままのスマートフォンを手に、少女を追いかけて階段を駆け上がる。走ると余計に体が熱くなり、玉のような汗がしたたり落ちていく。体操服がじっとりと湿っていき、下着もべとべとして気持ち悪い。早く帰ってシャワーを思い切り浴びたい気分だ。

 二階、三階と順々に見て回るが、黒い少女の姿はない。閉め切られた長い廊下と、人気のない教室が並んでいるだけだ。まだ昼間なのに薄暗く感じたのは、人が誰もいないせいだろうか。それとも幽霊を追っているという異常さゆえか。

 残るは最上階、三年生のフロアである四階だけ。階段を昇り終える頃には、管楽器の音がはっきりと聞こえるようになっていた。吹奏楽部が秋の発表会に向けて猛特訓しているのだ。防音設備のある音楽室とはいえ、同じ階まで来ればはっきりと聞こえる。他に生徒がおらず普段の喧騒がないので尚更だ。金管楽器が下手くそな雑音を奏でている。


「はぁ、はぁ……」


 優愛は肩で息をしている。頭がくらくらと気持ち悪くなり、汗まみれの手でこめかみを押さえていた。運動部に所属しているのに体力がないのは日頃の練習不足のせいだが、それ以上に高温の室内という状況が原因だった。つい先程水分補給をしたばかりなのに、もう喉がカラカラに渇いている。あまりの暑さに汗となってどんどん脱水しているのだ。後先考えずにここまで来てしまったのを、今更ながら後悔してしまう。せめて水筒を持ってくればよかった。熱中症になりそうだ。

 が、そんな気持ちも、視界に映る人影が吹き飛ばしてくれた。

 廊下の突き当たり、非常口を示す緑色の表示の真下に、ぼんやりとした黒い影。黒い少女の姿があった。やっと追いついたのだ。

 今度こそ、チャンスを逃さない。

 疲労に震える手でスマートフォンを構えて、少女が床上数センチメートルを浮遊する様子を画面に映す。逆光だが構わずにシャッターを切る。  

 かしゃり、と無機質な音がした。


「やっと、撮れた……!」


 と、喜んだのも束の間。少女は再びスライドするように、滑らかな動きで移動していく。その先は女子トイレだ。

 幽霊もトイレに行くのだろうか、と素朴な疑問が浮かんだ。生きていないのに生理現象があるなんて矛盾している。そもそも排泄するのなら、その前に飲食しているはずだ。お供え物でも食べているのだろうか。

 考え出すと次々と謎が湧いてきてしまう。本当にトイレを利用するのかどうか、知りたいのなら自分の目で確認した方が早い。百聞は一見にしかず、と言うくらいなのだから。

 優愛は女子トイレへと、そろりそろりと踏みいる。まるで覗き目的の不審者の動きだ。自分だって女子なのだから、普通に利用したとしてもなにもおかしくない。だが、見てはいけないものがそこにありそうで、どうしても忍び足になってしまうのだ。

 トイレといえば、怖い話でもよく出てくる場所だ。特に学校の場合、トイレの花子さんをはじめとした、様々な怪談が全国各地で語り継がれている。図書室に置いてある児童書にも、トイレの怪談を題材にした書籍がいくつかあったはずだ。老若男女問わず、トイレに対して恐怖を抱いているのは間違いない。

 とすると、もしかしたらあの少女も、それらトイレの怪異と同類の可能性があるのかもしれない。考えただけで恐ろしさが背筋を這い上がってくる。走り回ったおかげで出ていた脳内物質が落ち着き始めたらしく、冷静さを取り戻しつつあるようだ。この状況の恐ろしさを客観視している気分になる。だが、中途半端なところでやめたくない自分もいる。

 黒い少女の正体を知りたい、という好奇心の方が行動の決定権を握っていた。


「だ、誰かいますか……?」


トイレの中は静まりかえっており、自分のか細い声が響いているだけだ。個室は十部屋あるがどの扉も開いており、中に人がいないと教えてくれている。ただ一つ、「使用禁止」の貼り紙のある個室を除いて。

 主に三年生が利用する、四階に設置された女子トイレ。その一番奥、窓側に設置された個室は、一年以上前から使用禁止になっていた。理由は「昔、この学校で死んだ子の霊が出た」とか「トイレから手が出てきた」などとまことしやかに噂されているが、本当はただの故障だろう。予算の関係で修理が後回しになっている、それだけのはずだ。噂は噂でしかない。


「ここに……いるの?」


 だが、残っている場所はここしかないのだ。黒い少女がいるのは使用禁止のトイレ、それ以外に考えられない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る