泉優愛・5-1


 夏休み初日だというのに、憂鬱極まりない。

 長い連休なので全力でだらけようとしていたのに、早速テニス部の練習日にさせられた。出鼻をくじかれた気分だ。練習日程が数日前に判明していたのなら仕方ない、と気持ちの整理もついたのだが、終業式終了後に突然伝えられたのだから余計に腹立たしい。思い描いていた夏休みの計画が水泡すいほうしてしまった。他人の予定を縛るのだから、そういう話は早めに周知させるのが当たり前ではないのか。それとも「テニス部員なのだから練習日が増えて満足だろ?」とでも言いたいのか。相手の都合にも配慮しろ。考えなしの部長に対して殺意が湧いてくる。


「疲れた……」


 練習が始まって約一時間が経過。夏の日差しはじりじりと肌を焼き続けており、体から水分を急速に奪っていく。テニスコートも鉄板のように熱されており、卵を落とせば目玉焼きが作れそうなほど。触れた指先が火傷やけどするかと思った。屋外スポーツをやるには適していない、灼熱地獄と言うのが適当な天候だろう。

 そのため、テニス部顧問の教師は練習続行は危険と判断したようで、しばしの間休憩タイムを取る判断を下した。おかげで今は日陰で休み、冷たい麦茶を乾いた喉に流し込んでいるところだ。昔の体育会系教師のように、運動中の水分補給を禁止する人間じゃなくて良かった。厳しい教師だが、それだけは有り難く思える。

 多くの部員は体育館前の日陰に集まっているが、優愛は反対側、昇降口前に座っている。嫌々部活に入った優愛にとって、他の部員といるのは気まずかった。苦しい練習にも進んで参加する、やる気に満ち溢れた姿が劣等感を刺激して見ていられないという理由もある。それに上級生や同級生からは不真面目さをどやされ、下級生からは見下され嫌味を言われる。気分が悪くなる連中に、こちらから近づく必要などありはしないのだ。


「はぁ、よくやるよねぇ」


 一部の上級者部員は休憩もそこそこに、すぐに練習に戻っている。まだ休める時間が残っているというのにもったいない。それだけテニスに青春を賭けているのだろう。来週の地方大会に向けて全身全霊全力挑戦。熱くなれるものや目標があるのはいいことだろう。なにかにかける情熱が全くない優愛にとって羨ましくもあり、同時にねたましくもある。

 もし部活が強制入部じゃなかったら、もし他に興味の湧く部活があったのなら。薔薇ばら色とまではいかなくても、それなりに楽しい学校生活になっていたはずなのに。うまくいかない毎日を作り笑顔で隠し通す、灰色に染まった生き方にならなかっただろう。

 水筒の飲み口に唇を当て、氷で冷やされた麦茶を一気にあおり喉を潤す。もやもやした気持ちを押し流すように、冷たい刺激が勢いよく腹の底へ落ちていく。

 運動が嫌いなのに運動部で日々しごかれて、身も心も満身創痍まんしんそういで疲れきっている。自身を傷つけるだけの部活なんて、内申点のために私生活を犠牲にしてまでやるようなことなのだろうか。

 凛香と晴樹の前では楽しそうに振る舞ってはいるが、気を抜けば表情が死に絶えている。二人とは大違いだから、余計に隔たりを感じて自己嫌悪に陥る。むしろ二人と不釣り合いな自分が消えた方が良いのかもしれない。自殺する人の何割かも、似たような思考に至って実践に及んでいそうだ。

 ――別に、死ぬつもりなんてないけどね。

 水筒を部活用のバッグの中に仕舞うと、優愛は昇降口の階段に仰向けで寝転がる。常に日陰なこの場所は、夏場の日中でもひんやりとしていて、背中から心地良い清涼感が伝わってくる。砂埃すなぼこりまみれで汚れていたが平気だ。帰宅したらすぐにシャワーを浴びればいい。

 ふと目を上――逆さになっているので実際は下向きだが――に向けると、空っぽになった下駄箱が目に飛び込んできた。整列したそれらには、夏休みなので上靴も学校指定の外履きも入っていない。普段は同じ靴がずらりと並んでいるのにがらんとしており、別世界のように異様な光景に映った。

 現在校舎の中にいるのは数人の教師と吹奏楽部くらい。美術部はお休みらしく凛香は来ていないのだ。今頃家で真面目に勉強か、はたまた塾に行って夏期講習か。おそらくそのどちらかだろう。勤勉な彼女ならきっとそうだ、自分とは違って優等生なのだから。


「……あれ?」


 下駄箱の陰に、小さな人影があった。

 背丈は小学生くらいの、黒ワンピースを着た女の子。


「……嘘」


 勢いをつけて体を起こし、もう一度下駄箱の方を見る。間違いない、幽霊らしき女の子がそこにいた。以前会ったときと同様に、顔はもやがかかったようでよく見えず、体はぼんやりと浮いている。

 まだ午前中で明るいのに、場所も全然違うのに、どうしてあの子がいるんだ。幽霊って暗い時間に出るはずだし、墓場にいた子ではなかったのか。と、次々と疑問が湧いてきて、頭の中がごちゃごちゃ混乱してしまう。

 そうこうしている内に、女の子はすぅーっと校舎の中へと進んで行ってしまう。歩いているわけではない。まるで氷の上を滑っているような動きだった。


「待って……!」


 優愛は反射的に追いかけていた。未知の存在に対する怖さよりも、好奇心の方が勝っていた。

 なぜ墓地近くで出会ったはずの幽霊が、昼間の学校にいるのか。

 彼女は一体何者で、どんな用があってここに来たのか。

 知りたい。ただその一心だった。琴子と交わした写真を撮るという約束も果たそうと、その手にスマートフォンをがっちり握る。

 優愛は幽霊の後を追って、校舎の中へと駆け込んだ。

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