泉優愛・3-2


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 自宅に転がり込んで鍵をかけて、やっと一息つける。息はとっくに上がっており、心臓と肺が酷使にあえ藻掻もがいていた。多少の休息を挟んだとはいえ、部活で力を使い果たした後の全力疾走だ。酸欠らしく視界がクラクラ歪んでおり、見知った玄関なのに違和感を覚える。頭の疲労も限界のようだった。

 ――なんなの、さっきの子は!?

 暗がりに立つ、黒ずくめの、ぼんやりと浮かんでいた少女。確かに目の前にいたはずなのに、彼女は突然ふっと消えてしまった。

 まさか本当に幽霊なのか。そんな馬鹿な、この世界にいるはずがない。幽霊なんて全部作り話のはずだ。もしくは単なる見間違え。昔放送していた心霊番組だって、今ではほとんどヤラセや偽物映像だと解明されている。

 じゃあ、あの変な動きは、急に消えたことは、どうやって説明するんだ。その辺のなにかを幽霊と勘違いしているとしたら、その消えた物はなんなのか。存在を否定しようにも、起きた出来事に関してなにひとつわかっていない状態だ。

 きっと本物の幽霊だ。近くに墓場があるのだから、あり得ない話じゃないだろう。自殺現場といういわく付きの場所に行ったせいで、悪いものでも引き寄せてしまったのか。いや、そんなはずはない。墓と自殺現場は特に関係がない、場所だってずっと離れているのだ。


 様々な可能性が次々と生えてきて、思考がグチャグチャに入り乱れている。これではさっぱりまとまりそうにない。科学的に説明しようにも学が足らず、幽霊と認めようにも状況が意味不明だ。生まれてこの方、いわゆる霊感と呼ばれる超能力がない優愛にとって、霊らしき存在との邂逅かいこうは初体験だった。

 もしホラー映画なら、誰かに恨まれているからとか、呪われている場所に入ったからとか、ある程度の理由は推測可能だ。しかし今回の場合、幽霊らしき存在を見てしまった原因がわからない。

 ――あたしがなにをしたって言うのよ!?

 あまりにも理不尽だ。大した青春も送れていない自分が、どうして不幸な目に遭わないといけないのだろうか。 

 ――そうだ、ママに相談してみよう。

 荒ぶる息を整えてから、優愛はリビングへと向かう。テレビの音が聞こえてくるので、きっとそこにいるはずだ。

 困ったことがあったら親に聞いてみるのが最適解。小さな悩み事から大きな問題まで、いざという時に頼れるのが家族。それが優愛の考える、中学生らしい幼くて他力本願な経験則だった。

 戸を開けると、そこには果たして母――鈴音すずねの姿があった。短く切った髪の毛とエプロンを身につけた家事用のスタイル。毎日の炊事洗濯や掃除ではこの格好をする、絵に描いたような主婦の姿だ。ただし現在進行形で、ボロボロと大粒の涙を流しながらテレビの前でうずくまっているのだが。


「おかえり、優愛……ぐすっ」

「た、ただいま……」


 ――えぇ……まだ泣いていたの……。

 朝の速報で氷室一真の死を知って、悲痛な叫びと共に崩れ落ちた母。一応慰めてから登校したのだが、今までずっと泣きっぱなしだったらしい。キッチンの惨状を見る限り、夕食の支度はおろか、朝ご飯の片付けすらしていないようだ。

 鈴音は氷室一真の大ファンで、出演している作品は全て録画している。舞台に出演するなら会場へ足を運び、グッズが発売されたら全種類集めてしまう。年下の俳優に入れあげる、どっぷり沼にハマった女性だった。

 そのため自殺の報道はショック、なんて半端な表現では表しきれない、死刑宣告されたかのような絶望を味わった顔になっていた。半日たったのに欠片かけらも立ち直れていないほど、心がぺっきりへし折れてしまったようだ。

 報道映像を前に泣き続ける母を前に、優愛はぐっと言葉を飲み込んだ。こんな状況で幽霊を見たかもしれない、なんて言ってもまともに聞いてもらえるはずがない。訃報の後でオカルト事を話すなんて、死者に対する冒涜ぼうとくとも思われそうだ。


「だ、大丈夫……ママ?」

「う……ぐすっ。ダメそう」


 返事はできているので、ひとまず命の危険はなさそうだ。家事は手に付かないようだが、秘蔵の氷室一真グッズで身を固めて、どうにか精神を保っているらしい。病院に行く必要はなさそうだ。


「あたしがご飯作るから、ママは休んでていーよ」

「ひっく……ありがとう、優愛」


 半世紀生きたせいか涙腺が緩い鈴音だが、半日以上泣きっぱなしの姿を見るのは初めてだった。氷室一真の死が余程辛かったのだろう。この世の終わりを知ったかのような様相だ。

 不謹慎にも、知り合いの母親の自殺現場を見に行った上に、幽霊らしきものに遭遇していた自分が恥ずかしい。傷ついた母のことを、もっと思いやらないといけなかったというのに。

 罪滅ぼしのつもりで、優愛は夕食をこしらえた。時間がなかったので簡単な野菜炒めと味噌汁だけだ。ご飯は早炊きのせいで芯が残って硬め。父は帰りが遅いので、取り分けた分をラップをしてテーブルに並べておいた。


「うぅ……どうして一真君も死んじゃうのよぉ……」


 母は食事中も半べそをかいていた。頬がげっそりしていて、ショックの大きさが如実に表れている。せめてご飯はちゃんと食べて、早く元に戻ってほしい。


「……あれ?『一真君』って、どういうこと?」


 優愛は箸を止めて質問する。まるで他にも誰かが死んだみたいな言い方が、少し引っかかったからだ。


「だって、小野寺おのでらめぐみさんも、最近自殺しちゃったから……」

「小野寺……ああ、女優の」


 小野寺恵と言えば、演技派女優として有名な人だ。ドラマや映画で度々見かける名脇役で、影のある中年女性と言えばこの人。確か先週自殺した、と報じられていた。自宅マンションからの飛び降りで、主たる原因は不明のままだったはずだ。


「あの人、一真君とも共演していたから……ううう……」

「どっちも売れっ子だもんね」


 仕事が華やかなはずの二人が、相次いで自殺した。これは偶然なのだろうか。ふとそんな疑問がよぎる。

 氷室一真と戸田陽葵の母、芸能人と一般人の自殺が重なった程度なら、偶然と言われたらそれまで。しかし小野寺恵も同じく自殺で、原因不明という事実も合わせるとどうだろうか。

 胸の奥で、何かがざわつく。

 ただの奇妙な一致というだけのはずなのに、どうしても深読みをしてしまう。

 先程、幽霊らしきものを見てしまったせいだろうか。心が不安定になっているのかもしれない。

 ――やめよう、暗いことを考えるのは。気が滅入るだけだもん。

 今は疲れているだけ。それだけのはず。

 全部一旦忘れて、ご飯を食べて、早く寝よう。

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