泉優愛・3-1


 日はとっぷりと暮れて、辺りは真っ暗闇に包まれている。街灯がぽつぽつと、心許こころもとない小さな明かりをアスファルトに落としているが、夜の深い黒の前ではいくらあっても足りない。昼間の焼けるような熱さとは打って変わり、じめじめとした湿気で満ちた、重たい空気が沈殿している道だ。

 二人と別れて帰路についた優愛は、その中を一人寂しく歩いていた。

 駄菓子屋での喧騒がなくなり、聞こえてくるのはささやかな鈴虫の声と、たまに横切る車の走行音だけ。人影も見当たらず心細い。

 優愛の家は周囲より高い場所に位置しており、帰り道ではずっと上り坂を登る必要がある。しかも凛香が住む地域から最短距離で帰ろうとすると、途中で木々が鬱蒼うっそうと生い茂った道を通らないといけない。幼い頃は昼間でも一人で歩きたくなくて、わざわざ迂回うかいして家に戻っていたくらいだ。不審者がいるかもしれないという現実的な理由はもちろんのこと、得体の知れないなにかが出るかもしれないという非現実的な理由もある。近くに古びた墓地がある事実も、ざわつく不安に拍車をかけていた。

 早く家に帰りたい、その一心でこの道を選んでしまったが、半分程度進んだところで後悔した。人気のない無機質に伸びている道が、真っ黒でぽっかり口を開けたような曲がり角が、弱った心をじわじわとむしばんでいく。何気ない周囲の景色が、全て猛毒になったような気分だ。


「ううん、怖くない怖くない。こんなの、肝試しとたいして変わらないよ」


 と、わざと声に出して明るく振る舞うものの、空元気なのは見え見えだ。吐き出した言葉にも、自身を奮い立たせるほどの活力はない。虚しいだけだ。

 こんな気持ちになるくらいなら、遠回りでも人通りの多い道にすればよかった。完全に判断ミスである。

 ただの好奇心で自殺現場を見に行ったのに、友達と幼なじみとの差に痛感して、漠然とした不安に苛まれて、一人暗い道を帰るハメになるなんて。なんてついていない一日なのだろう。運のなさが嫌になる。

 ちかちかと、前から車のヘッドライトが迫ってくる。ハイビームという光だろう、暗闇に慣れていた目が痛む。

 見通しが悪い道なのでスピードはそれほど出していないようだが、念のため早めに右脇に避けておく。前から迫ってくる車がいつかこちらに突っ込んでくるのでは、という最悪の未来を予期してしまい、無駄にびくびくしてしまう。杞憂だと思いたいが、事故が起きる可能性はゼロではない。気をつけるに越したことはないだろう。

 車が自分の真横を通り過ぎていく。ゆっくりと、車内の様子がなんとなくわかるくらいの速さだった。

 真新しい車体は街灯を反射しており、真紅のボディのつややかさを引き立てている。運転手の性別は暗くて判別がつかないが、比較的若い人だと思われる。ノリの良いJポップが窓の隙間から漏れているのも、その可能性が高いと予想する理由だ。

 暗い夜道でも、自分と同じ生きた人がいると安心する。そこに大音量の音楽が合わされば、気味の悪さも吹き飛んでいく。ホラー映画だってBGMさえ変えてしまえば、きっと怖さも半減するはずだろう。音がもたらす心理的効果は大きい。

 車道とは反対方向、真横に真っ直ぐ行った先の場所に、小さな人影が見えた。ちょうど小さな丁字路ていじろになっており、更に細い道へと続いている。その十メートルほど先に、小さな女の子らしき影があった。


「えっ」


 思わず振り向いてしまった。

 その道は街灯がほとんどなく、廃屋ばかりで利用する人は滅多にいない。そのせいかアスファルトが劣化しているのに修復されておらず、ひびが入ったまま放置されている。そんな道に、子どもがひとりでいるなんてあり得ないはずだ。夜なら尚更おかしい。利用する理由が見当たらないのだ。

 しかし、そこに立っている。いや、浮いている。地に足が付いておらず、その体からは重量を感じない。

 女の子は長い黒髪に黒いワンピースを着ており、全身黒ずくめの不気味な出で立ちだ。一方で肌は不健康な青白さ。その顔は暗がりのせいかはっきりと見えず、もやがかかったように表情が読み取れない。そして時折暗闇に溶け込むように、女の子の体がすっと消え入りそうになっている。だが、黒い女の子はそこに存在する。弱々しく明滅している少女は、今この場に実在するのだ。

 幽霊。

 目の前にいるのは、人ならざる存在だ。


「ひっ」


 悲鳴を上げたかったが、栓をされてしまったように声が出なかった。喉から漏れるのはかすれた息の音だけ。人は本当に恐怖した時、きぬを裂くような悲鳴なんて出ないのだと実感した。ホラー映画で都合良く叫べるのは、その恐怖が作り物で演技だからだ。現実と虚構では大違いなのである。


「誰、ですか……」


 暗闇にたたずむ少女に向けて、必死に声を絞り出す。幽霊相手に言葉が通じるとは思えないし、まともに取り合ってもらえるかも怪しいだろう。だが、彼女にはそれしか方法がなかった。無力な小動物が圧倒的敵意を前に怯えて縮こまるように、事態を打開する有効な手がないのだ。この場から逃げたくても、体が凍りついたように動かない。手足が震えて言うことを聞いてくれず、両目も少女にくぎ付けになったまま。万事休すだった。

 すると、幽霊と目が合った。顔の判別がつかないはずなのに、目が合ったと感じてしまう。

 ――あたしを、見た?

 まるで視線を向けられているのに気付いて見返すように、黒い少女はこちらを見た。確証はないが、そんな気がする。

 すると次の瞬間、少女の姿は闇の中へ溶けていった。誰かがいるような気配はさっぱりない。文字通り霧散むさんしていなくなったみたいだ。後には一枚の、からすのようにどす黒い羽が落ちているだけ。

 一体、今のはなんだったのだろうか。そんな疑念に思考を巡らせる余裕もなく、優愛は一目散に走り出す。一刻も早くこの場を離れたかった。怯えて力が入らない両足にむちを打ち、必死に帰路を一直線。途中で何度もつまづき転んだが、り傷の痛みに構わず家までひた走るのだった。

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