泉優愛・2-1


 時計が午後六時を指すと同時に、下校を告げるチャイムが鳴る。

 夏の空はほんのりと橙色に色づいており、熱された大地を冷ます涼風がアスファルトをでては過ぎ去っていく。夜の訪れを感じさせる一番風だ。あと一、二時間すれば辺り一面は真っ暗。学生が出歩くには一抹いちまつの不安が残る時間帯に突入だ。ここ十数年で学習塾に通う子供が増えて、夜の外出が多くなったとはいえ、不用意に出歩けば危険な目に遭いかねない。それに見回りをしている警察官に補導、という恥ずかしい経験もしかねない。用がなければ早めに帰るのが吉、というのは今も昔も変わらないと言える。

 だが、その夜までのわずかな時間こそ、子供達の楽しみでもある。学校の束縛から解き放たれ、家に帰るまでの短い自由。友達と他愛のない会話をしながら歩く帰り道、途中で店に立ち寄って買い食いをする背徳感。生真面目で面白味のない学生生活を送っていない限り、誰もが体験するであろう多幸感溢れる時間だ。

 そして今日は、もっとわくわくする予定が待っている。

 閉まりかけの正門前で、優愛は高鳴る胸に合わせてうずうずと足踏みをしていた。その横では晴樹が、落ち着きのない隣人をあきれた目で見つめている。


「ごめん、待った?」

「そこそこな」

「言い出しっぺなのに遅いよー」


 部活で汗を流した在校生も帰路につき、校内に残っているのは教師と放送委員の生徒。そして今、校舎から急いで出てきた凛香くらいだろう。よほどの学校好きじゃなければ、部活が終わり次第すぐに帰り支度をするものだ。少なくとも優愛ならそうする。なので凛香の遅さにやきもきしてしまった。

 部活後に例の事件現場を見に行くという約束だったのだが、提案したはずの凛香は下校時間ギリギリの到着である。美術部である彼女の活動場所は校舎の一番上、三階の隅なので降りてくるのにそれなりの時間がかかる、というのは理解している。それなら早めに片付けをすればいいのに、とも優愛は思っているのだが、その辺の文句は飲み込んでおく。それよりも早く、現場に行きたいからだ。時間は有限、夜遅くなれば親がうるさい。


「はぁ、今日も疲れたね」


 事件現場に向かうまでの雑談、その口火を切ったのは凛香だった。遅刻の気まずさを紛らわす意味もあるのだろう。最初の一歩を踏み出した直後にしゃべり出したくらいなのだから。


「あたし達の方が疲れたよー。こっちはテニスとサッカー、バリバリの運動部なんだから」


 部活の話に、優愛は大きな溜息をつく。二時間以上の運動で疲れている、というのもあるが、大半を占めているのは心理的な疲れの方だ。しかし、そちらについて雑談中に言及するつもりはないので、体力面に話を持っていく。


「絵を描くのだって体力勝負よ。それに今日は石膏像せっこうぞうばっかり描かされてつまらなかったもの」


 対する凛香も、美術部でも疲れると熱弁する。当たり前だが、描画びょうがする対象を見る目も鉛筆を走らせる腕も疲労する。好きでもない課題となれば尚更なおさらだろう。


「それ、基礎練習ってヤツか?」

「正解。とにかく描いて描いて描きまくれ。そして体に叩き込めってかんじよ。うちの顧問、今時珍しく熱血だから」

「オレも基礎練習は好きじゃないな。大事ってのは分かるんだけどさ、地味っていうかなんというか」

「わかるわ、ほんとそれ」


 二人のやり取りを聞いている間、優愛は無言で口先をとがらせた。やはり、この話題は苦手だ。あまり話したくない。

 基礎練習は苦手、という話ではなく部活そのものが嫌いなのだ。やらなくて良いのなら、それに越したことはない。帰宅部になりたい。しかし学校の「生徒は全員、部活に所属すること」という方針のせいで、渋々軟式テニス部を選ばされた。他よりも女子らしく爽やかそうで人気があったから、という消極的な理由だった。

 しかし、待っていたのは果てしなき地獄の基礎練習。ラケットを持つのはおろか、ボールに触れることすらない一年生前期を過ごした。大して運動が得意ではなかった優愛にとって、三十分間走り続けるだけで苦行だ。筋力トレーニングなんて翌日の筋肉痛を誘発するだけの拷問ごうもん。楽しさなんて欠片かけらも湧かなかった。夏場となれば余計に悪夢だ。生徒を殺すためにやっているのではないか、と疑いたくなってしまうような、炎天下のスパルタ特訓。おかげで後期になってラケットを使う頃には、矯正不可能なほどに部活を嫌悪するようになってしまった。

 それでも続けているのは内申点のためだ。高校入試の際に送られるであろう書類に、部活をサボっていたなんて書かれては大きなマイナス。下手するとそれだけで受験失敗だってあり得る。そのため優愛は、多大なる文句を抱えつつも部活に参加しているのだ。

 ――ほんと、何のために部活やってるんだか。馬鹿馬鹿しい。

 ゆえに、可能なら部活の話はしたくない、というのが本音だ。部活をこなす普通の女子、という体裁を保つために、嫌な顔を表に出すつもりはないが。


「優愛はどうなんだ、部活は?」

「え、あたし?」

「お前以外誰がいるんだよ」


 急に話を振られて慌ててしまう。部活にまつわる盛り上がる話題なんて、残念ながら一つも持っていない。怒りと憎しみをない交ぜにした、怨嗟えんさの言葉しか出てこないだろう。

 最近部活であった出来事といえば、相変わらず基礎練習でへとへとになっていることとか、テニスの腕前がさっぱり上達しないこととか。ぱっとしない話題ばかりだ。返答に困ってしまう。


「そういう晴樹君はどうなのよ?」


 話題を逸らそうと、凛香が助け船を出してくれる。優愛が部活嫌いと知っているわけではないが、口ごもる姿を見てフォローしてくれたのだ。昔から困った時は機転を利かせて助けてくれる、それが凛香なのだ。

 部活が嫌いという話を二人にもすれば済む問題なのだが、ずっと言い出せずにここまで来てしまった。親友と幼なじみに自分の醜態しゅうたいを知られたくない、世間の求める普通の女子から逸脱いつだつしたくない。そんなプライドが邪魔をしてしまう。


「う~ん……そういえば最近、シュートが決まる確率が結構――」

「はい、終了ね」

「――ってオイ。お前、聞いておいてそりゃねーだろ」

「もう到着したからよ」


 雑談している間に、気付けば凛香が暮らしている地区に着いていた。潮風香る閑静かんせいな住宅地で、周囲の家のいくつかにはぽつぽつと、窓から明かりが漏れ出している。カレーの類いであろう、食欲をそそる香りも微かに混じっており、夕食時に向けての準備の真っ最中だとうかがえる。南の方には夕暮れの黒い海が、橙色を反射させて輝いていた。

 そして、優愛達の目の前に、戸田陽葵の住む一軒家が建っている。

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