鬼の集落 2

 風が鳴る。

 獣のごとき唸り声をあげて迫る赤い軌道が逃げ惑う仲間たちを無造作に屠っていく。


 腰を抜かしてへたり込んだ。一緒に火を囲んでいた戦友は白目をむいて失神していた。

 気を失えたらどれだけよかっただろうか。


 たき火の火が野営用のテントに引火して盛大に燃えている。暗い闇の中に浮かびあがる炎がゆらゆらと踊っていた。


 虐殺の舞台に獣の唸り声が響き、炎に照らされて黒い影がくっきりと浮かび上がっている。

 影の頭は尖っていて、角が生えているようだった。照らされてきらきらと光る巨大な剣の形をした何かが恐ろしかった。


「これくらいでいいか」


「もうしまいか? どうせならばこの場の全員を始末してしまえばよいではないか。無駄に数だけは多いのだ。身軽にしてやった方が作戦とやらはよりうまくいくと思うがの。

 それとも何か。生かして逃がすことに意義があるとでも? 阿呆が。殺せるときに殺しておくが最善であろうよ。敵であろうとそうでなかろうと、虫は一匹残らず慈悲をかける間もなく潰せ」


「バーウ、黙れ」


「黙らせたくば平原での戦いのように声を奪えばよかろう。……あぁ、なるほど。そういう事か、お前もだんだんと鬼が板についてきたというわけだ。身が軽くなれば足は速くなり、しかして恐怖は足をすくめて押しとどめる。生きた体験談と、事後報告ではまた趣が違うと。まさしく鬼の所業よな」


「もういい。黙れ」


 真っ黒な影にしか見えないのに、確かに赤い瞳と目が合った。

 そいつは足元に転がってる仲間たちの隙間を飛ぶように歩いてこちらに向かってくる。


 逃げなくてはと思うのに足に力が入らない。胸が破裂しそうになって、頭がくらくらする。


 やめろ、来るな、こっちに来るな!


 耳障りな砂利をけ飛ばす音だけが鮮明に聞こえる。意識を飛ばしてしまいたい。

 なのに、真っ暗に染まろうとする意識を何かが必死につかんで離さない。


 やめてくれ、嫌だ、嫌だぁ。


「お前は殺さない」

「……へ」


 血を塗りたくって乾かした色の瞳が確かに見えた。その言葉が嘘かどうかなんて考える間もなく、助かるんだと信じられた。


 死なずに済む。生きて帰れる。痛いことも何もされずに終われる。


「せいぜい生き恥をさらせ」


 耳元で獣が唸った。感じた熱を認識する前に、俺は念願の眠りにつくことができた。


 急に静かになった河原に水の流れる音だけが響く。時折跳ねた水滴の音を響かせながら流れる川は、炎の暖色に照らされてより暗く濃い黒のうねりに見えた。


 倒れた兵士たちの血が流れ込んでいることには目もくれず、赤の戦士は手に持った相棒を乱雑に振り払った。

 さらりとした音を立てて、大剣についていた大量の赤が河原の砂利に降りかかる。


「あまり乱雑に扱ってくれるなよ。貴き玉体であるぞ?」

「世迷言を」


 殴り飛ばされてぐったりとした青の兵士を最後に一瞥して、戦士は川沿いに広がる森の中へ姿を消した。



 クィハボ平原の戦いから、すでに二日が経とうとしている。

 青の軍は行軍を続け、山々の間を流れる河川にそって王都シュキセに向かって北上を続けていた。撤退した赤の軍との接触もなく、その影すらつかめずにいた青の軍は大きく疲弊の色を浮かばせていた。


 国土の地理上の原因で山登りを経験したことのある者は数える程度しかおらず、不慣れな土地での行軍での疲労は間違いなくある。

 なれない道を重い鎧を着こんで、長時間なんの楽しみもなく歩き続けるのはどのような理由があれ苦痛だろう。


 だが、何よりも彼らを疲れさせていたのは最後尾から流れてくる物騒な噂だった。


 曰く、夜に河原で野営をしていた一部隊が生き残り数名を残して壊滅した。


 曰く、夜闇に乗じて森から鬼がおりてくる。

 

 曰く、赤の国の山には赤い鬼がすんでいて、夜な夜な山を下りては人の集まりに乗り込んできて人を食う。


 数えだせばきりがない噂の数々は、遠い異国の地にて小さな疲弊を抱き始めた兵士たちの心をあっさりとかき乱して奪い取る。世迷言だと笑い飛ばすこともできず、鬼の存在を否定することもできず。青の軍は最後尾の部隊から徐々に削り取られていた。


 河川沿いに広がる山の中。

 程よく間隔をあけて生えている木々の隙間に身を隠し、鬼は敵の行軍を見下ろしていた。


 あちらから鬼を見つけることはできないが、鬼は手に取るように彼らの動きを眺めることができる。


 無意味に喉をさすりながら、鋭く目を細める鬼の背中越しにそれを眺めていた紅玉の大剣がかすかに震える。黙っていることに耐えられなくなったのだろう、ぺらぺらと話し始めた疫病神を鬼は止めずに好きにさせていた。


「魔石部隊が討伐に動くかとも思ったが、よほどあれらが大事と見える。いや、立派立派。魔石部隊を最前列に移動させ、最後尾になる部隊には重傷者を寄せ集める。先のない連中を先に死なせ、あの軍の鉾である魔石部隊を保護する。つまりは一番戦力を損なわず、行軍の足を鈍らせる荷物を捨てることを選んだ。あの軍の軍師はとんだ冷血漢のようだの」


「合理的だな。青の国の人間にこんな考えができるやつがいるのは意外だ」


「まったくだ。奴らは短期で浅慮。あの陣形の指示を出した輩がいなければ、間違いなく山に入って森を焼き払い、木々を切り倒して暴れまわった後、なすすべもなく殺されて終わっただろうよ。お前を追って返り討ち、なんて簡単に想像できる」


「そうはならなかったがな。山を壊せば川も壊れる。川が壊れれば海も無事ではすまない。それを理解していたんだろう」


「甘いな、連中がそんなことに頭を回せる賢者の素質を持ってるとでも? 蹂躙できる歓喜と優越感に浸って破壊行動、略奪行為を繰り返すのがおちであろうよ。見ろ。今にでも山に入って暴れまわりたい、あの老将の後を追って討ち取りたいと逸る輩が見える見える。そのうちこっそり抜け出して山に入りかねんな、あれは」


 まったく変わっておらんわ。成長のない阿呆どもめ。


 大剣の侮蔑がこもった声に鬼は何も答えなかった。

 その言葉に偽りはなく、間違いなく真実であったからだ。


 青の民は総じて短期で浅慮。己の感情を優先し、理論的とは思えない言動を繰り返す。

 鬼は青の民と面識が多いわけではない。しかし、国境を越えて不法入国する輩の大半は、自らの掲げる正義に酔いしれて暴走した痴れ者ばかりだった。


「破壊も略奪も行わず、ただ王都を目指す今の青の軍は、正直に言えば青らしくない。だが」

「お前の昔馴染みの趣味には合致する、か」


「いかにも。あれはそういう、石橋を一歩ずつ叩いて渡る輩を見守り、試練を与えることに快楽する変態だからの。あの軍の方針を決め、作戦を立てているのはお前も感じていた『青の宝珠の契約者』であろうよ。青の民の性質も変わらぬが、あの変態もまったく変わっとらんな」


「バーウ、おしゃべりはもういい。黙れ」


 木々の隙間にひそめていた体を起こし、鬼はゆっくりと歩き始める。背負った大剣を木々に引っ掛けることもぶつけることもなく、スルスルと歩く足取りは迷いがない。

 時刻はすでに夕刻に差し掛かっており、もうしばらくすればこの辺りは夜闇に閉ざされる。


「今日で最後だな」

 クィハボ平原からもうかなり離れたところまで来た。

 この川はここから先、徐々に周りを切り立った崖で囲まれるようになる。ありていに言えば山と山の間にできた渓谷に変わるのだ。


 別に崖から飛び降りて襲撃し、また崖の上に戻ってもいい。

 しかし、当初考えていた目的はすでに果たした。明日以降、鬼が青の軍を襲撃することに意味はない。


「渓谷に入ればもう王都シュキセはすぐそこ。川沿いの道を歩いてきたとはいえ、ここまで傾斜のある土地に不慣れな奴らにとってはここからが正念場であろうな。とはいえ、だ。ここからミェコマヤ高原につくまで、奴らの今までの行軍速度からするとだいたい歩き通して三日。お前が何も奪わずにいられるのもおよそ三日。なるほど、時間稼ぎはもうよいわけか」


 鬼は答えない。

 山々の隙間から差し込む強烈な西日が、耳に突き刺された耳飾りを光らせる。


 眼下では、松明の火がちらちらと浮かび上がり始めていた。あそこにはもう、夕焼けの光は届いていないのだろう。歩き通しの一日が終わった解放感に、兵士たちが息をついていることは見えなくともよく分かった。


 ただよってくる飯のにおいをまとった煙を吸い込みながら、鬼は山の向こう側に広がる赤い空が徐々に青い闇に覆われていく様をじっと見つめていた。


 



 鳥のさえずりと木々の隙間から差し込む光に意識が揺さぶられる。

 うっすらと目を開くと、見慣れた空を覆う枝葉の群れが見えた。


 目を閉じて耳をすませば、聞こえてくるのは川のせせらぎと鳥のさえずり、風に枝葉が揺れる音だけ。


 鎧具足のたてる音も、人間のざわめきもない。青の軍はもう出立したのか。


「渇く」


 起き上がると同時に体が悲鳴を上げた。

 言ったところでどうなるわけでもない。それでも言葉は勝手に口からこぼれ落ちる。


 その無意味でいたずらな反射が、俺はまだ自分が渇ききっていないことを教える。

 今日もまだ、俺は人間のままだ。いつかこの言葉すらこぼれなくなる日が来るのだろう。その時、俺は人間ではなくなるのだろう。


 川に降りて顔を洗い、水を飲む。

 周囲には虫がたかり始めた死体がいくつも転がっていた。


 負傷兵と老兵の混成部隊の最後の一つを構成していたそいつらは、昨晩のうちに全員絶命している。

 うん、相変わらずこの森の水はうまい。


 適当な木に寄りかからせていたバーウを持ち上げると、俺がそうするのを待っていたかのように話始める。こういう時はろくなことを言わない。

 わかり切ったことを聞き、俺を暗にからかって遊ぶ合図だ。


「さて、ここからどうするのだ。お前の足では今日中にもミェコマヤ高原についてしまうぞ」


 なおもおしゃべりを続けようとしたバーウから声を奪って背負う。向かうべき場所はもう決まっていた。

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