クィハボ平原 4

 時は少しさかのぼり、自軍の本陣へ駆けていく戦士に大剣が怪訝な声音で話しかけた。


「何をしておる。ここはさくっと青の契約者を討ち取ってしまえばしまいであろうに。今からでもあちらに向かった方がよいのではないか? 負けてしまうぞ」


「魔石部隊が中央軍を攻めているのならば、俺が青の契約者を討ち取って勝つよりも、爺が討ち取られて負ける方が早い。俺はまだ、爺から奪い取れていないものがある。そも、俺には戦の勝敗などどうでもいい。何よりも優先するはお前との契約。それだけの話だ」


「ほぉ、それは殊勝な心掛けよな。だが、今更あの老いぼれから何を奪おうというのか。もはや搾り取れるものなどたかが知れた、老い先短い枯れ枝から」

「平穏を」


 短く告げられた宣告に大剣は思わず失笑する。平穏、平穏なぁ。くつくつと笑う声は、猫が笑いながら目を細めているような幻覚を戦士に見せた。


 愚かだとあざけるような相棒の態度に、しかし苛烈な光をともした赤い瞳は揺らぐ様子もなく前だけを見据えている。


 戦士が地面を蹴るたびに、けなげに生きていた雑草が根ごとえぐり飛ばされる。一挙手一投足すべてが常に周囲から何かを奪い続ける。


 それが赤の戦士。

 赤の国で鬼と恐れられ、遠ざけられる化け物。その姿を見たものは何であれ目を奪われ、思考を奪われる。現に今も、会敵した青の兵を無造作に屠り、略奪の限りを尽くしていた。


「赤の契約者?! もうここまで来たのか!」


 中央の戦場から離れた場所に兵が置かれていることに違和感を覚えながらも、その意図や理由について思考することはない。


 なぜならば、答えは目の前で怯えながらも武器を突き出してくる木っ端が知っている。そこにあるのならば奪い取ればいいだけの話。


「面倒だ。まとめて奪う」


 思考だけを奪い取るだけの時間も惜しいと、戦士は立ちふさがろうとするすべてから何もかも根こそぎ奪い取っていく。記憶も、力も、命すらも。


 すべては敵の真意を奪い取って把握し、自軍の総大将に迫っている死の平穏という逃げを奪い取るために。


「愚か、愚かよな。そうしてお前はまた癒えることない渇きの深淵へ落ちてゆくのだ」


 底のない暗闇の底から響くような声が戦士に届くことはなかった。



 そして現在。ネガーメは棒のようになってしまった足を叱咤することもできず、その場に立ち尽くしていた。背筋を冷たい汗が流れ落ちていく。口の中はすでにカラカラだ。


 目の前に立っているのは、噂だけはよく聞く初めて会う誰か。名前も知らなければ、見覚えすらないはずのその影に、しかし近眼の狂人は確かな既視感を抱いていた。


 これは、そう。方向性も圧の質も何もかも違うが、青の魔石部隊の頂点に立つ『青の宝珠』の契約者と同じものである、と。


「どうした、動く意思まで奪った覚えはないぞ」


 ただ声を発しているだけだというのに、抗いがたい引力を感じる。目を奪われるとはこういうことか、とネガーメの思考は状況とは裏腹に冷静だった。


 冷えた頭がとめどなく必要性が皆無な思考を空回し、体を動かすという動作を阻害する。あるいは、本能的に直感していたのかもしれない。


 動けば目の前の化け物が手にした紅玉の大剣を向けてくることを。


「わ、若様! なにゆえ戻ってこられたのですか!」


 指一本すら緊張に張り詰めて石化したように動かせないネガーメは、情けないことに割って入ってきたラウの声に戦士の注意が逸れた瞬間にようやく呼吸を再開することができた。

 それまで息すら止めていたことにようやく気づいて、どっとあふれ出す冷や汗に唇を強く噛みしめる。


 ひびが入ったメガネの奥で冷静な光を宿していた瞳が、ゆっくりと狂気に浸食され、燃え始めている。先ほどまでの蛇に睨まれた蛙のような、身をすくませている弱者の影はすっかり消え失せていた。


 渇きにむしばまれてなお静かな瞳を向けられたラウは息を詰めた。そして、ゆっくりとしわのよった目元を歪めた。


「問うたところで、無駄でしたの。あなたは誰にも与えることを許されぬ契約を結んだのでした」


 伏せた目に痛ましいものを見るような色を浮かべた老人に、戦士は一瞬だけ眉を動かす。


「お前はお前のなすべきことをなすがいい。俺は最初の命令通り、魔石部隊を掃討する」


 本陣に近づいてくる魔石の気配を敏感に察知しながら、戦士はすっかり意気を取り戻したネガーメを睨みつける。その隣には尖った歯をむき出しにしてうなるコーザも戻ってきていた。


「よくもやってくれたな! 食い散らかすしか能のないウニが! 頭かち割って脳みそばらまいてやる!」

「コーザ。少し黙れ。ウニごときにあっさり吹っ飛ばされて気絶してた雑魚が何を言っても、雑魚さ加減に拍車がかかるだけだ。みっともない」

「あぁ? 口だけのタコはツボの中でガタガタ震えてろ。ビビってたくせによ」


 目を吊り上げて反撃してきた相棒を華麗に無視して、ネガーメは狂気を取り戻した瞳を戦士に向けた。ずり落ちたメガネを押し上げて、背負っていた曲刀を抜き取だす。


 コーザは勝手に盛り上がっているいけすかない同僚に舌打ちひとつして、不機嫌そうな顔から一転。満面の笑みを浮かべた。


「隊長の指示にあった第一目標は邪魔が入ったが、第二目標を撃破した後達成すれば帳尻は合う」

「宝珠殺しか、いいぜ。しわしわのジジィ殺すより断然面白そうだ!」


 すっかり元の調子を取り戻した二人組が自分を殺せるつもりでいることを、戦士は苛烈な笑みを浮かべて一蹴する。

 愚か。どこまでも愚かで、契約に縛り上げられた子どもだと。


 獰猛な獣の笑みを前にしても、ネガーメはもう硬直することはなかった。



 コーザとネガーメの襲撃に腰を抜かしていた伝令兵は、ぎこちなくしか動かない体に涙目になりながら必死に足を動かしていた。


 一刻も早くこの場から逃げなくては。ラウ将軍の危機を伝えなければ。


 頭はそう思うのに、肝心の体がついてこない。恐怖にこわばった全身が、つい先ほどまで間近に感じていた人外の気配をはっきりと覚えていた。


「は、はやく、はやくしないと」


 うわごとのように繰り返しつぶやきながら、何とか仲間が待機している場所までたどり着けたときは心底安堵した。

 あともう少し、あともう少しだと今にも力が抜けそうなところを踏みとどまって。そうして、やっとの思いで手を伸ばしたその瞬間。


 一歩ずれた横に大きな質量の何かが落ちてきた。凄まじい轟音と共に湿った土くれがいくつも舞い上がる。余波をまともに食らい、受け身も取れなかった伝令兵は呆気なく意識を手放した。


「コーザ、いちいちやつを飛ばすな。追うのも面倒だ」

「うるせぇなぁ! あいつがポンポン飛んじまうのがわるいんだろうが!」


 見た目の割に軽すぎるし手応えなさすぎんだよ、とぼやく。どうやら二人の攻撃に、赤の戦士がここまで吹き飛ばされたらしい。


 あの右軍を単騎で壊滅させた疲れが出ているのだろう、とネガーメは冷めた目で土の雨が降りそそいでいるくぼみを見下ろした。


 大剣を支えに立ち上がった戦士は、血が乾いてパリパリになった衣服に大量の土をつけている。左側頭部の髪がばっさりと斬り落とされ、血を流していた。

 赤い耳飾りがよく見えた。


「拍子抜けだな。所詮『宝珠の契約者』でも元は人。疲労には勝てないと見える」

「はぁ? なんだよ、あいつ疲れて動けてねぇだけかよ。そんなやつ殺したって意味ねぇじゃねぇか! 俺は万全なあいつをぶっ殺してぇんだよ!」


「雑魚の言い分など知るか。どのみち、今やつを殺すことに変わりないんだからな」

「赤の国最強を万全な状態で叩き潰すから意味があるんだろうが!」


 相手にもう戦う余力がないと思い込んでいるのか、ここに来て二人は言い合いを始めた。協調性という物が皆無な様子に、今まで黙り込んでいた戦士が嘲笑を漏らす。


 罠にかかった獲物を睥睨する獣のように、その赤い瞳に苛烈な光が灯る。


「決めたぞ」


 短いつぶやきにいがみ合っていた二人が反応するより早く、大剣がうなりをあげて飛来する。深々と大地に刺さったそれに二人の意識が奪われた刹那、戦士の姿がかき消えた。一拍の時を置いてネガーメの視界に影が映る。


「それで奇をてらったつもりか? 見え見えだぞ!」


 狂気に歪んだ瞳孔をこれ以上なく広げたネガーメの目には、はっきりと戦士の姿が見えていた。嬉々として振り上げた曲刀を受け止められ、一瞬何か違和感のようなものが腕を通って頭に響いた。


 しかし、すぐに冷静な思考は戦いの興奮に塗りつぶされ消えた。一撃、二撃と曲刀を振りまわし、血を流せと叫び声をあげる。


「この、タコが! こんな時に狂いやがって! 雑魚が!」


 コーザの怒鳴り声が聞こえた気がしたが、やはりそれもすぐに消え去った。まるで奪い取られるように消えたそれに違和感を覚えながらも、しかしそれすら奪い取られていく。


 ネガーメの目に映る戦士が握っている武器はのこぎり歯の刃だった。


「……のこぎり歯?」

 気の抜けた声が響いたその瞬間、頭に強い衝撃が走った。思いもしなかった痛みに、ネガーメの意識は暗闇に落ちていく。最後に見たものは、焦った顔のコーザだった。


「テメェ! ネガーメに何しやがった!」


 吠えるコーザを無視して、戦士は感情の読めない顔で倒れ伏したネガーメに手をかざす。すると、その手に吸い寄せられるように倒れ伏した体から手のひら大の石が浮かび上がった。


 濁った色のそれは、ネガーメが契約している魔石だ。


「お前は俺の物だ」


 そう宣言しながら、戦士は強く魔石を握り締める。そしてなぜか落胆したような顔になる。


 コーザの耳に、小さく「これもか」とつぶやく声が聞こえた。そして、手にした魔石をおもむろにいつの間にか足元にあった紅玉の大剣へと落とした。


 コーザが叫び声をあげる。大剣へと落とされた魔石は、静かにその赤い刀身の中へと飲み込まれていった。


「な、何してやがる! まさかお前、自分の魔石に共食いさせてんのか?!」


 おぞましいものを見たような目で睨まれても、戦士は特に何も感じないようだった。足元に転がっていたネガーメの体を掴み上げ、乱暴にコーザへ投げつける。


 受け取らずにいるかと思いきや、しっかりと受け止めたことに地面に転がされていた大剣が意外そうな声を上げた。


「お前たちの部下はもういない。無様に逃げ帰り、魔石を奪われた失態を己の口で報告するがいい」


 それとも、今ここで俺に叩き潰されたいか。


 花の色を聞くような調子で問われて、コーザは頭に血を上げるよりも先に冷静になってしまった。青の軍が優勢であるはずなのに、なぜここまで余裕があるのか。そう考えかけて、思考が止まった。


「俺の部下がいない、だと? ふざけんなよ、何の話だ。あいつらは今、雑魚どもと赤の軍を蹴散らしてこっちに向かって。……まて、テメェどうやってここまで来た。隊長が足止め策考えたって言ってた。なのに」


「知るかよ。お前にその知識を与えてやる道理がどこにある。あぁ、だが。お前の希望を奪うんだったな。……ここをまっすぐに下りていけば、すべてがわかるだろうよ」


 無慈悲に戦士が指し示したのは、ちょうどコーザたちが通り抜けてきた方角。


 その時初めて、コーザは聞こえてくるはずの合戦の音が聞こえないことに気づいた。あまりにも静かすぎる。


 そこで初めて戦士がどうやってここまで来たのか、想像がついてしまった。それを裏付けるように、もう影が見えてもいいはずの仲間は一向に現れない。


「テメェ、まさか。あいつらも味方もまとめて」


 反論はなく、冷徹な赤眼は何も告げない。コーザは今まで自分のことを化け物だと信じ、自負していた。しかし、今初めて思う。目の前に立つこの戦士こそがこの世に並ぶ者のない化け物であると。


「正気じゃねぇよ、お前」

「この戦争は、ひとまず終わりだ。終わった以上奪うことは許されん。お前はさっさと飼い主の元へかえるがいい」


 愕然とつぶやいたコーザに背を向けて、化け物は足元に転がしていた大剣を持ち上げて赤の本陣へと戻っていく。


 その無防備な背中に刃を突き立てることは容易に思えるのに、コーザにはそれを実行する気力がもはやなかった。持ち主のいない馬を適当に拾って、ネガーメをのせる。


 青の本陣へと戻っていくその後ろ姿を一瞥して、赤の戦士は開戦前よりもひどくなったように感じる渇きに小さなうめき声をあげた。

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