クィハボ平原 3

 青の軍本陣にて、一人の僧侶が眼下に広がる血みどろの戦場を物憂げに見つめていた。すでに右側の戦場は静かになっていて、それだけで報告を聞かずともあちらの戦局が決したことはわかっていた。


「申し訳ありません。あなた方の死を、決して無駄にしないと誓うことしか私にはできない」


 小さくつぶやいて僧侶は怜悧な光を宿した蒼眼をきゅっと細めた。


「魔石部隊に通達を。兵士の数を減らすのは通常の部隊に任せて中央軍を一点突破し、大将首を取ってきてもらって下さい」

「はっ!」


 そばに控えていた伝令係は瞬く間にその場から姿を消した。


 戦場に背を向け、地図を広げた卓の駒を移動させる。ここまで流れてくる生臭い死のにおいと戦の音に顔をしかめながら、右軍の駒をすべて除いて小さな赤の駒をのせた。


 赤の契約者。僧侶と同じく理不尽にさいなまれているだろう戦士。奪うことに執心しているという極大戦力が次に向かうのはどこか。考えるまでもなく僧侶はすっと赤い駒を中央軍のぶつかり合う場所へ移動させた。


「こちらに来んとも限らんだろう」


 心底案じるような声にチラリと視線を横にそらせば、美しい蒼玉の槍が柵に立てかけられていた。


「いいえ。こちらには来ないでしょう」

「ほぉ? 契約者を討ち取ればそれだけでこの戦の勝敗は決すると言っても過言ではないというのは、俺の認識の誤りか?」


「……通常であれば、そうでしょう。しかしあの赤の契約者がそのような合理性をわきまえているとは思えない。それに、私はこの兵器に対して希望を抱いてはいないので」


「なるほどな。あの野蛮な赤の宝珠の契約者に希望を見出さないのは結構なことだ。破滅するだけだからな。それに、確かにそうならばお前の元に奴が来ることはないのも道理だ。お前の希望は、いつも指をかけたところで離れていくもんなぁ」


 蒼玉の槍が嘲笑っているような気がして、僧侶はそっと唇をかんだ。目を閉じて、大きく息を吸ってはく。顔を上げたときには、すでに軍師の顔に戻っていた。


「もうそろそろ大将首を魔石部隊が取ったころでしょう。そのまま魔石部隊を反転させ、通常兵で赤の契約者を足止めしているところをまとめて薙ぎ払います。そのように通達してください」


 控えていた残りの伝令にそう命じて、僧侶はふぅと息をつく。


 赤の契約者を殺してしまえれば、この戦いは終わったと同然だ。どうかこれで大人しく死んでくれと祈りながら、そうはならないだろうという冷たい確信も同時に抱いていたのだった。





 赤と青の両軍がぶつかり合う中央の戦場では、右軍とまったく逆の現象が起こっていた。


 赤の軍の奥深くに食い込んだたった十数人の部隊が、大規模な破壊を振りまきながら大将首を狙って猛進している。部隊が掲げる旗には、青一色の染め抜かれた布に大きく『石』の字が書かれていた。


「魔石部隊だー!」

「馬鹿な、右軍に控えていたのではなかったのか?!」

「違う! やつら初めからこっちにいたんだ! 右軍は囮だ!」


 動揺が走る中央軍のど真ん中を青の魔石部隊が猪のような突進で突き進んでいく。このままでは突破され、本陣にまで到達される。赤の軍の将の一人であるジンサは馬の手綱を繰りながらもうもうと上がる土煙を睨みつけて叫んだ。


「くそ、ちくしょうが! どうしろってんだよ! 赤の軍には魔石部隊がいねぇんだぞ! ……くそっ、くそが!第三部隊出るぞ! おい! レキ! 俺たちが盾になってやる。その隙に串刺しでも何でもいい、奴らを殺せ!」


「なっ、馬鹿を言うな、ジンサ! その程度で止められるはずが、あぁ馬鹿野郎め! ほんとに突っ込みやがった! くそが、第四、第五、第六部隊はついてこい! あの暴虐の限りを尽くす化け物どもを止めるぞ!」


 旗がなびくところで蹂躙が起きる。ただの人間には止めることすらできない。それがわかっていたとしても、そのまま本陣の最奥まで素通りさせるわけにもいかない。ここで負ければ彼らの明日はないのだ。


 決死の形相で部下を率いて死線に飛び出したジンサとレキを待っていたのは、尖った歯をむき出しにして笑う獰猛な化け物と、分厚いレンズの向こう側で狂奔に瞳を揺らす化け物だった。


「バーカ」


 凄惨な笑い顔がこの戦場によく似合う。

 真正面からそれを直視してしまったジンサは冷静な思考でそんな感想を浮かべた。


 次の瞬間、大きな絶望を映し出した彼の両目はおぞましい化け物たちの手にあった。悲鳴を上げる間もなく両目をえぐり取られた衝撃で絶命したジンサに、彼に率いられていた騎馬隊に衝撃が走る。


 イワシの群れの小さなほころびを、今度はどこまでも凪いだ表情の狂人が食い荒らしていく。レキの部隊が助太刀に入ることも、予定通りに攻撃を仕掛けることもできないうちにジンサの率いた第三部隊は惨殺された。


 えぐり取った両の目を口の中に放り込み咀嚼した後、心の底から空虚な溜息を吐き出してギザ歯の化け物がぼやく。


「なんだ、赤の軍は雑魚ばっかだな。イワシでももうちょい抵抗できるぜ」

「無駄口は慎め、コーザ。いたずらな殺戮は我らが隊長の望むところではない。速やかに任務を遂行することだけ考えろ。殺戮など、赤い鬼のように狂った蛮人がおこなうことだ」


 そう冷静に語る瓶底メガネの化け物は、しかし瞳に確かな狂気を宿している。それを知ってか、はたまた単純に口を出されたことにいら立ったのか。コーザと呼ばれたギザ歯の化け物は、顔を歪めると手に持っていたサメの歯のような形の刃物をぞんざいに振り払った。


「へーへー。うるせぇなタコが。ド近眼のくせに偉そうな口聞いてんじゃねぇよタコが」

「ネガーメだ。雑魚のくせに偉そうな口をきくなよ。名前の一つも覚えられないのか能無しが」

「はぁ? メガネがなきゃ何も出来ねぇやつに言われたかねぇんだよ雑魚が」


 お互いに雑魚とののしり合い、罵詈雑言をぶつけ合う中でも彼らを中心に殺戮は続いている。


 当然、部隊という通り彼ら以外にも化け物はいた。それが二人の衝突を避けながら獲物を求めて移動し、蹂躙しては移動してを繰り返すせいで、すでに中央軍の内側は空っぽになり始めていた。


 中央軍の奥、本陣に座していた赤の軍総大将のラウ将軍は青ざめた顔で走ってきた伝令兵の報告を聞いていた。


「ラウ将軍! 報告いたします! 右軍に配属されていると思われた魔石部隊は、中央軍に配属されていたもよう! 中央軍の奥に猛烈な勢いで食い込んだ魔石部隊をレキ、ジンサ両将軍が迎え撃ちましたが歯が立たず。もうじき中央を突破されて本陣に到達すると思われます」


「運は味方せなんだか。やれやれ、儂も、お前たちも。まったくついとらんのぉ」


 口調こそ軽いものだったが、総大将である老人のラウ将軍はいかに兵の数を減らさずに退却させるかをすでに考え始めていた。

 もはやこれは負け戦。魔石部隊が右軍に初めからいなかった時点で、赤の戦士を右軍に行かせたことは失策である。


 契約者、しかも魔石部隊に配属されるような精鋭を相手に、人間ではどうすることもできない。


 唯一あの化け物集団に勝てるとすれば、それはより強く狂った化け物だけだ。そして、おそらく肝心の赤の戦士はここに戻ってこないだろう。間違いなく青の契約者の元へ突貫するに違いない。


(かつての頃であったならば、あるいは見捨てられずに戻ってきたやも。しかし、今のあのお方がそのような慈悲を持ち合わせているとは到底思えぬ。ならば、兵を撤退させつつ時を稼ぎ、青の契約者が討ち取られることに賭けるしかないか)


 一度賭けに負けたというのに、さらに大博打を打とうとは。ラウの口元にはどこまでも独りよがりな笑みが浮かんだ。


 そうとなれば指示と判断は素早く的確に下さなければならない。さしあたっては撤退のために指示を出すべきだが、伝令兵に新たな指示を伝えることはできなかった。


「やっと着いたぜ。ド近眼タコ野郎が足引っ張るから時間かかっちまったじゃねぇか」

「雑魚はお前だ、コーザ。まさかお前の頭は本当に空っぽなのか? 少しは中身を詰めておけよ。軽すぎて簡単に討ち取られてしまうだろう?」

「よーしぜってぇ殺す!」


 お互いに悪態をつく二人組は、しかしそのぎらつく瞳をぴたりとラウに固定していた。伝令兵は腰を抜かしてしまい、声もあげられない。

 自分がつい先ほど報告した魔石部隊の筆頭二人組が目の前にいる事実に思考を放棄していた。


「おやおや、随分と速かったの。儂は今しがた報告を受けたばかりじゃというに」


「はぁ? ジジィの都合なんて知らねぇけど? そっちの伝令が無能なだけだろ? こっちはこのタコのせいで遅くなったのにさぁ。まさか何の対策も戦う準備もできてないわけ? カメかよ。いや、カメでももうちょい速く動けるわ」


 つまらないとわめく子どものような顔にラウは場違いにもわずかな感傷を抱いていた。そう、あの「奪う」ことに取りつかれ、化け物となってしまったあの戦士にもこういう顔をする時期があったのだと。


「随分気味の悪い顔をするな。気でも狂ったか。赤の総大将」

「なに、少しばかり昔を思い出しただけじゃよ。なにせジジィじゃからな。振り返る思い出など積もるほどある。若造にはわからぬことかもしれぬが、老人とは些細なことで昔のことを思い出したりするものじゃよ」


 誰かの面影を重ねられたことだけはわかったコーザが目を吊り上げる。気色わりぃ、とはっきりつぶやいた声には明らかな悪意で染まっていた。


 さて、これまでか。と冷静に己の状況を分析したラウは、そばで腰を抜かして動けずにいる伝令に何か言伝を頼もうとしてやめた。どうせこの様子では、ろくに走れない。無抵抗で殺されるか、追いつかれて殺されるかだ。ならば無駄なあがきなどしない方がいい。苦しませるのは本意ではないのだ。


「言い残すことは? 名乗りくらいならば聞いてやる」


 分厚いレンズの向こうにきらめく狂気に、思い出すのは右軍に単騎突撃させた一人の背中。


「お主らは、若様に勝つことはできぬ」

「くだらねぇ」

「同意するのは癪だが、まったくもって同感だ」


 振り下ろされる凶刃にうつる己の瞳と睨みあいながら、ラウ将軍は最後に王都に座す王に小さく謝罪を述べた。この国は終わりへと大きすぎる一歩を今、踏み出そうとしているのだ。目を伏せた老将は、けれどその謝罪を自らの口で述べなければならなくなった。


「随分と、好き勝手に奪ってくれたな」


 ごしゃ、と鈍く重い音が響いて、次いで聞こえてきたのは渇きを抱えた鬼の声。


 今ここで聞くはずのない声に思わず顔を上げると、仁王立つ真っ赤に染まった戦士の姿があった。紅玉の大剣で殴り飛ばされたのかギザ歯のコーザの姿はなく、大きく目を見開いて硬直しているネガーメだけが呆然と立ち尽くしている。


「さぁ、お前たちのすべてを奪わせろ。快楽も、希望も、すべてをだ」


 青の僧侶の予想通りに、ラウの予想を大きく外して、赤の最大戦力はこの本陣に戻ってきた。この戦を続行させ、最後に勝利を奪い取るために。

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