赤の物語

クィハボ平原 1

 激しい地鳴りと鬨の声が響く。

 かつては広大な草原が広がっていた大地にもはやその面影はなく、今や赤の軍と青の軍がぶつかる血塗られた戦場と化していた。


 その中心で、各軍の最高戦力である赤の戦士と青の僧侶は向かい合っていた。その周囲はどうやら青の軍しかおらず、赤の戦士の味方は誰一人としていないようだった。しかし、敵の陣に孤立している戦士本人はこの状況に危機を感じてはいない。むしろみなぎる闘気がほとばしってすらいた。


 すべてが紅玉でできた大剣を地面に突き刺し、じっと己の目の前に立つ憂い顔を見ていた戦士は大きく舌を打つ。自分と同じ契約者であるというから胸を高鳴らせ、わき目もふらずまっすぐやってきたというのにこの仕打ちか、と。覇気がない上に後ろ向きな嘆きの気配に満ちている僧侶を睨みつける。


 これでは己の望みが果たされることはないどころか、期待して浮かれまくったあげく突進して失望した己が道化のようだと苛立ちも隠さず大剣を持ち上げる。渇きをいやすに足るものはここにはないと結論付け、ゆえに行う事はいつもと変わらない。


「奪う」


 すべてをだ。


 言外の宣言を感じ取った僧侶も、蒼玉で造られた槍を構える。

 ここに赤と青、両軍の最高戦力による一騎打ちが幕を開けたのだった。




 七虹暦七七七年。赤の国と青の国は、ついに戦の火蓋を切って落とした。


 「赤と青が対極に位置する色だから交われず反発するのだ」と誰かが言った。その言葉の通りなのか、あるいは気質が合わないといった何か別の理由があるからなのか。かねてより赤の国と青の国は対立することが多かった。


 それでも、盆から水が溢れかえる寸前のところで何とか踏みとどまり、互いに不干渉を貫くことでひりつく平穏を守っていたのだ。しかし開戦の宣言があったこの年、ついにそのわずかな希望すら儚い夢となって消えた。



 赤の国と青の国の国境付近にある野営地で、赤い鬼は明後日の方向を見上げていた。ぬるい風が大雑把に切られた尖った黒髪をなで、形ないものを見る赤眼には渇きが浮き上がっている。袖口も裾も破れやほつれが目立ち、ぼろ布同然といって差し支えない。


 まさしく下賤の民にしか見えない風体であるが、驚いたことにそのたたずまいにはわずかながら品のようなものがあった。もしかしたらそれは、両耳に突き刺すようにつけられた牙を模した耳飾り。その磨き上げられた輝きが、そう錯覚させたのかもしれない。


「渇く」


 うったえる声はかすれもしない若々しいもので、到底渇いているようには聞こえなかった。それを揶揄するように鬼の横に寝かすように置かれた紅玉の大剣が微かに震えた。明日の方角を見上げていた赤眼がじろりと動く。

 渇きの他に苛烈な気配を浮かばせた破壊の色に見つめられて、大剣は確かに笑っていた。


「何が可笑しい」


 まるで人に接するかのように大剣に言葉をかけるその姿は、変人奇人の類とみられても仕方がない様相だった。くつくつと笑うだけで答えを返す気がさらさらない忌々しい相棒に舌打ちを一つ送り、鬼はまた遠くに流れる雲を見上げた。白く薄い雲が足早に流れていく。これではしばらく雨は降りそうにない。


「渇くな」


 小さなつぶやきを受けて大剣は今度こそ声をあげてケタケタと笑った。



 翌朝。夜が明けると同時に物見に出ていた斥候が本陣に戻ってきていた。


「報告申し上げます。青の軍はクィハボ平原に陣をしいた模様」

「数は」

「はっ、青の軍の規模はおよそ三万。別動隊の報告はありません」


 斥候の報告に将の一人があごひげをなでる。その視線は険しく、広げられた平原の地図上にある赤と青の両軍の配置を示す駒を睨みつけていた。


「やつらが張り切りすぎと言うべきか、我らが出し惜しみしすぎであると言うべきか」

「考えるまでもあるまいよ。どう考えても我らが少なすぎるのだ。防衛軍が侵攻軍よりも少ないとは笑えぬ話よ。普通は逆であろう」


 報告の後も黙っていた上座に座るラウ将軍が重々しく口を開く。


「仕方あるまい。犠牲は最小限に納めねばならん」


「……そもそも、なぜ陛下も宰相もあのような化け物の従軍をお認めになられたのか。敵にぶつければ甚大な被害をもたらすことは確実とはいえ、それまでに我らが食いつぶされる危険性の方がよほど高いではないですか。すでに兵士の中にも“奪われた”者が大勢出ております。将の中にも危うい兆候が見られますし、このまま開戦すれば自滅の憂き目にかねませんぞ」


 あの赤い鬼を戦場に解き放てばそれこそ敵味方関係なく奪いつくし、蹂躙の限りを尽くすだろうと将は苦々しく言い切る。


「あれは所詮鬼でしかありませぬ。戦士には遠く……」

「言うな。それ以上は許せぬ。……安心せい。赤の戦士が我らと共に戦うことはない」

「と、言いますと。やはり」


「あぁ。あれには酷な話であるが、単騎で死線に突貫させるしかあるまい。討ち死にすればそれまでよ。戦力を大幅に削れればそれでよい。あわよくば敵将の首を取れれば儲けものじゃ。なに、目を閉じて放った矢がどこに行くのかわからぬだけのこと。その周囲に友軍さえおらねば問題あるまいて」


 ラウ将軍は赤色に塗られた小さな駒を青の右軍の前へ動かす。本来そこに陣取る予定だった左軍の全軍を残る中央軍と右軍に合流させ、目の前の敵に集中するようにとだけ指示を出した。その場に集った将の誰もそれに否を唱えることはなかった。


 赤の軍の規模はおよそ一万五千。侵攻軍の半分しかいない上に、いつこちらを自滅させるかもわからない凶剣まで抱えている。しかしその凶剣は、敵の右軍を完全に自分に釘付けにすることも、万の軍勢を単騎で相手取ることもできる戦略兵器でもある。この軍の最高指揮官である老将はそれに賭けることにしたようだった。


「どのみち我らには退路はない。なればどのような死地、どのような博打であろうと運を自ら引き寄せるしかあるまい」


 行動を起こさねば運の働きようもないのだから。


 その後の軍議は白熱した。軍の配置、相手の出方など様々な観点が話し合われたが、最終的には暴走してどのような行動に出るかもわからない凶剣の制御をどのように行うかという一点に集中する形となっていた。



 良くも悪くもこの戦争の行く末を左右すると思われていることは歯牙にもかけず、赤い鬼は地に深々と突き刺した大剣の柄を握り込みながら地平線の向こうを睨んでいた。明け方の白い光が、両耳の赤い牙を輝かせている。


「青の契約者がいるな」


 柄を掴む手に力がこもり、ぎちりと音を立てる。


 契約者。程度の差はあると言うが、一説では単騎で軍と戦えるほどの力を持つという。最上級の格を持つ『宝珠』の契約者ともなれば、ただ一人で国を獲れるとも。それが向こうにもいる。


 歯をむき出して目をらんらんと光らせている鬼は、その見てくれに似合う低い唸り声をあげる。今にも鎖を引きちぎって獲物にかみつかんとする餓狼のような玩具に、大剣は意地悪く笑った。


「残念だが、青の宝珠の趣味からしてお前の渇きをいやすような怪物ではないだろうな。お前がいつものように奪いつくして終わりだ」

「黙れ。ウーバ。お前の意見は聞いていない」


 会って刃を交えればわかることだ。余計な言葉はいらない。希望を奪うような嘲笑は必要ない。


「おー怖い怖い。そう怒るでないわ。その怒りすらも奪いたくなるであろ?」

「奪えるものなら奪って見せろ。未だに俺の中にある怒りは奪いつくされていないぞ」


「……当然だ。感情を奪いつくして廃人になられてもつまらぬ。それに、お前に求めるものはなんであるかすでに話したであろ? 私はそれを達するための道を知っている故、こうしてふさわしい試練を与えてやっておるのだ」


「戯言を。楽しいおもちゃで遊ぶ子供と何が違う」

「わかっておるではないか。童心を忘れぬことは大切だぞ。長き時を生き続けるならばな」


 それこそ戯言であると切り捨てて、今や戦士となった鬼は地平線の向こうにいるだろう同類に思いを馳せた。そのすべてを奪いつくしたとしてもこの渇きがいえることはないとどこかで知りながら。


「それでも、この渇きをいやせるものは必ずあるはずだ。それを手に入れるその瞬間まで俺は止まらん」


 兵士たちの動きが活発になってきたのか、微かな匂いと声が遠くから流れてくる。日はすっかり地平線から顔を出している。


もうすぐ飯の支度が終わり、食べ終わったならば時を置かずに開戦となるだろう。さっさと始まれとひとりごちて、鬼は与えられた天幕へと戻っていった。

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