第2話 「黄色い向日葵」

部屋の窓を締め切っているのにもかかわらず、僕の耳に元気な虫たちの会話が大きく聞こえてくる。


「蝉(せみ)か。」


その元気な蝉たちの会話で僕の意識は次第に、いつもの朝が来たことを知り、少しの間、その会話を目を閉じて聴いていた。


 僕の部屋はエアコンで快適温度に設定してあるため、夏の寝苦しい夜は回避できるが、朝のこの元気な蝉たちによって、外の暑さが想像できる。

 そろそろ、目覚まし時計が“仕事”をする時間というときに、僕はいつもの場所に置いてある目覚まし時計を布団に入りながら、ひょいっと持ち上げ、“仕事”のスイッチを切り、ただの時計に変えた。


 この目覚まし時計よりも早く起きるかどうかが、僕と目覚まし時計の小さな勝負で、この日も僕は勝利した。

 

 昨日の夏祭りで会ったあの不思議な少女を思い出し、実際の出来事だったのか、それとも夢の中での出来事だったのか知りたいがために、僕は布団から飛び起き、自分の部屋を見渡した。

 

 部屋の壁に掛けてあるカレンダーが目に入ってきたが、起きたばかりで、頭がまだはっきりしていない。

その上、夏休みの”あの”曜日の認識が鈍感になる感覚に、僕は昨日が何日で何曜日だったのかさえ、今すぐに答えることはできなかった。

 

 日にちから曜日を特定するのか、曜日から日にちを特定するのか、ヒントは”昨日が何日で何曜日だったか”が今日を特定する上での近道となるだろう。

昨日が特定できないと、余計にあの少女との過ごした時間が、現実だったのか、夢の中だったのか知りたくなる。


 無意識にキョロキョロと部屋を見渡し、僕は何を探していたのか。その答えを、もう少しで床に着きそうな元気の無い“赤い風船”が全てを教えてくれた。



 僕は寝ぼけ眼で部屋のドアを開け、部屋を出ようとしたとき、熱風が僕を包みこんだ。


「うっ・・・」


部屋から出ると、冷房の効いている自分の部屋と違い、廊下はムッとする暑さだ。

 風通しを良くするため、閉め切られていた廊下の窓を全部開け、外からの風が優しく入ってきた。が、少々暖かい風だった。それに付け足し、蝉の大合唱も入り込んできた。


 開けっ放しの部屋の向こうには、今にも床に横たわりそうな“赤い風船”が、部屋に入ってきた風と一緒に踊っている。僕はその“赤い風船”を見つめて呟いた。


 ・・・暑い・・・


 でも、これから外に出るのだから、この暑さに慣れなければと、部屋へ戻り、断腸の思いで冷房のスイッチを切り、部屋の窓という窓を全開にした。そして一斉に蝉の合唱が僕の身体に殴りかかってきた。


 ・・・もう、どうにでもしてくれ・・・


 しかし、昨日の夜は暑かった。僕は極力冷房を使用しないようにしていたが、昨日の夜は別格だった。


 汗がじわっと吹き出てくる感じがしたので、少し部屋で立ち止まると、こめかみからポタリと汗が流れてきた。人間、不思議と慣れてくるもので、さっきまでの暑さが、諦めも入り、なんだか暑さに慣れ始めているような気がする・・・。

 

 僕は部屋から出て、階段に向かい、一段一段、木の板で作られた階段を下りていき、台所の冷蔵庫から昨日の夏祭りで買ってきた焼きそばとタコ焼きを取り出し、電子レンジで温めた。


 「チ~ン」


 電子レンジの扉を開けると、ソースの香りと鰹節や青海苔の香りが僕の鼻に入ってきた。キャベツが多い独特の焼きそば、一つ一つタコが入っているか確認しながら食べるタコ焼き、幸せを感じる。


 独りで食べる朝食は、今になっても慣れないけど・・・。


僕は、それら朝ごはんを食べ終え、母さんの一週間分の着替えなどを準備しないといけなかった。


 タンスから着替えのパジャマや下着を取り出し、バックに整頓して入れた。


 ・・・いつ、母さんは帰ってこれるのかな・・・


 そして、母さんへ届ける荷物の準備が終わり、後はいつもの“向日葵たち”を連れて行くだけ。


縁側の廊下まで歩み寄り、首を左右に向けても向日葵であふれている父さんと母さんの向日葵の庭がある。


 父さんが生きていたときに、口下手だった父さんが、「母の喜ぶ顔を見たい」と、ただそれだけで植えた向日葵たち。母さんが向日葵を好きなことを知っていたのか、母さんが父さんの植えた向日葵が好きだったのか、僕にはわからない。


 父さんが居ない今も、向日葵たちは夏の青空を見上げ、大勢で太陽を追いかけていた。


今日も暑くなりそうだ・・・。



 夏祭りが終了し、昨日までの賑やかさとは打って変わり、いつもの落ち着きを取り戻した、この道・・・。

僕は大学が夏休みに入り、朝と夕に、いつものこの道を通り、母のお見舞いで病院を訪れる。

 

 僕は家から持って来た二輪の“向日葵たち”を両腕で抱え、肩には母さんの着替えの入ったカバンを肩に掛け、いつもの格好でエレベーターを待った。


 エレベーターが降りてくるのを、一階一階確認し、自分が居る一階のところにランプが止まったあと、扉が重たく開いた。他の階には目もくれず、母さんの居る最上階へのボタンを押し、エレベーターが動き出した。


 今回の検査入院の回数を思い出そうとしている内に、いつもの目的の階に着いてしまう。


 エレベーターの扉が開き、僕を運んできてくれたエレベーターと、僕を待っていた床の堺を確認し、足取り重く、一歩を踏み出した。

母さんは今度、いつ家に帰れるのだろう・・・と、その心配から逃れるため、両腕で抱えている“向日葵たち”が行儀良くしているかを確認し、白く長い廊下の一番奥の部屋へ向かった。



その白く長い廊下には歩き慣れたが、病院特有のこの臭いには慣れそうもなかった。


 母さんの部屋だ・・・早く母さんと家に帰りたい・・・。


 そんな思いで、僕は病室のドアの前に立った。そして、ドアに手を掛けた瞬間、昨日のあの少女が徐に脳裏に浮かび、昨日の不思議な事を話したい衝動で胸がいっぱいになった。


 昨日までは、どうやって母さんを元気付けようかとか前準備をして、そしてその結果、いつも母さんに気を使わせていた。


 でも、今日は違う、何故か話したい・・・


 僕は優しくドアをノックして、いつもと違う軽いドアを静かに開けた。病室の母さんは、ベッドから身を起こし、いつもの笑顔で僕を待っていた。


 窓の棚には、水色の花瓶が置いてあり、その中には昨日の朝に挿した黄色い二輪の向日葵が仲良く飾ってあった。

向日葵が仲良く太陽を追いかけている、その後ろ姿が好きだと母は言う。そして、夜になると、しょぼくれる姿が愛おしく感じるという。

 

僕は、いつも母さんが見ている窓に近づいて、


 「母さん、昨日、夏祭りでね・・・」


 と、昨日の不思議な出来事を話し始め、下を向いて眠っている向日葵の代わりに、持ってきた今日の“向日葵たち”と入れ替え、その”向日葵たち“の元気な顔を、母が見えるように、くるりと向け、いつもの椅子に座りながら話し続けた。


 「不思議な女の子が居てね、一緒に親を探そうと思ったら、金魚すくいとかやってね。」


 僕が今日一緒に帰る向日葵を新聞で優しく包みながら、昨日の出来事を話していくと、母さんはクスクスと笑いながら、


 「雅彰、なんだか楽しそうだね。」


 ベッドの上の母さんは、本当に嬉しそうだった。そんな母さんを見て、僕は嬉しく、心が暖かくなった。


 父さんと母さんと3人で夏祭りへ行ったときの思い出を話そうとしたけど、僕は口にしなかった。


母さんが父さんの話をするときは、嬉しそうに見えるけれど、でも、なんだか寂しそう。だから、僕の方から父さんの話をすることは、大人に近づくにつれ、少なくなってきた。


 母さんはそんな僕を察して、


 「何年前だったかね、父さんと3人で夏祭り、行ったね。」


 と、優しい目で僕に話し始めた。


 「そうそう、もうじき、お父さんの命日だね。」


 「う、うん、そうだね。」


 なるべく父さんの話をしないようにしていたのに、母さんは・・・。


 「私の代わりにお墓参りへ行ってくれる?」


 「もちろん。」


 「お寺の和尚様、元気かしらねぇ。」


 時折、話し掛けるように、母さんは視線を“向日葵たち”にも向け、そして話した。


 「母さん、早く元気になって、父さんに会いに行こうよ。」


 母さんは笑顔で頷いた。


 「それと、来年は絶対にお祭りに行こうね。」


 僕は、早く母さんの病気が治るように祈りを言葉に込めた。


 「そうね。なんだか元気になってきたよ。」


 と、母さんはベットの上でガッツポーズをした。しかし、パジャマから出た母さんの腕は、白くて細かった・・・。


 「雅彰、お祭りの焼きそば、好きだものねぇ。」


 今度は僕が頷いた。


 「雅彰、家で焼きそば作る時、いつも”キャベツもっと入れて”というものねぇ。」


 こんな些細な会話だけど、僕にとっては大切な時間に思えた。すると母さんはコホッコホッと乾いた咳をしたので、母さんの傍らに置いてある時計を見た。


 僕は椅子から立ち上がり、母さんの背中を摩った。そのとき、母さんの背中の小ささに少々驚いた。


 「ありがとね、雅彰。」


 母さんは笑顔で応えた。僕の前では辛い顔をしない母さんだけど、発作や咳が出た時は辛そうな顔をする。


 「じゃあ、そろそろ行くね。」


 と、まだ話したい気持ちを抑えて、洗濯物をまとめ、代わりの着替えを病室の棚にしまい、帰る準備をし始めた。


 「いつも、ありがと。」


 と母さんがいつもの優しい顔で、優しい声で言うが、僕は、未だその言葉には、恥ずかしさを感じる。


 「じゃあ。」


と、照れがばれないように、「一緒に帰る向日葵たち」を起こさないようにそっと抱え、母さんに微笑みかけて病室のドアの方へと歩き始めた。

そして、僕は振り返り、最後に、こちらを向いている仲の良い“向日葵たち”と母に手を振って、母さんの病室をあとにした。



 来た時と同じ、白く長い廊下を歩きながら、今日の母さんの、あの元気な笑顔は、昨日の少女のお陰かなと思い、


 「ありがと。」


 と、心の中で呟いた。


 両手で抱えた「一緒に帰る向日葵たち」は、安心して仲良く眠っているようだった。

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とおりゃんせ おかっち @okatch

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