とおりゃんせ
おかっち
第1話 「赤い風船」
まだ夏の暑さが残る夏祭りの最終日だった。
いつもは車でごったがえしている車道が、夏祭りのため、歩行者天国へと姿を変えている。
僕は日課である母さんのお見舞いの帰りで、病院の近くにあるこの道をいつも通っていたが、この変貌には毎年驚かされる。これだけの人はいつも、どこに隠れているのだろう・・・。
あと数時間で太陽は暑さだけを残し、今日の仕事を終えようとしていた。
僕は太陽の嫌がらせから逃れるため、日陰を求め、露店の屋根へと走った。
こんな状況は雨が降っているときと同じだと、屋根の影に入って、フッとため息を付いた後、心の中で思った。
影のお陰で暑さから一時的に逃れ、一段落している僕は、まだ太陽の下で動きを止めない人の流れを、ぼぉ~と眺めていた。
露店の前で子供が母親にねだる風景は、僕が小さくて、まだ母さんが元気だった頃と、なんら変わりはなかった。
変わった事と言えば、僕の背丈が大人になったくらいと、元気だった母が突然倒れ、それ以来、入退院を繰り返し、今は、検査で入院している事くらいであった。
病室の母さんはいつも僕が見舞いに行くと、病人とは思えない元気な顔で僕を迎えてくれる。そして、いつも僕の事を心配し、励ましてくれて、どちらが病人かわからないときも多々ある・・・。
あのころは元気だったのに・・・。
いけない、いけない、今の僕の顔を母さんが見たら・・・。僕は、その思いを断ち切るように人の流れへ意識を戻した。
動いている事が当たり前の人ごみの中、僕の視界に一人立ち止まっている赤い風船と少女が入り込んできた。
風船は大人の頭くらいの位置でフワフワ踊っていた。
その少女は幼稚園生か小学生くらいの背丈で、右手には風船の紐を握り、顔は風船より小さかった。僕はその少女を見て気付いたが、そうか、周りの女性たちは浴衣に身を包んでいたんだ。
「あの子、迷子かなぁ。」
その少女へ向かう人の流れは無く、いつまでも風船は同じところでフワフワと踊っていた。僕は影の中の涼しさに慣れ、自分以外に興味を持ち始めた事に気付き、その少女の動向を眺めていた。
動という人の流れの中で静を守っていた僕と少女と赤い風船。
数分、そんな状況が続き、いつまで続くかと思った瞬間、少女の姿が人ごみに飲まれ見えなくなり、さっきまで同じところでフワフワと踊っていた風船が自由な大空へと逃げて行くように昇って行った。
「あっ・・・」
僕はその風船が逃げて行くのを目で追いかけた。
ハッと我に返り、風船が解き放たれた元の方へと視線を戻したそのとき、その少女と目が合った。
別に悪い事をしている訳ではないのに、僕はその瞬間、こちらに向けられているその少女の視線に、なぜか照れ臭さを感じ、その視線が僕の方へ向けられているのか確認するため、僕は僕以外の視線の先を探した。が、やはり少女の視線の先が僕である事を確信した。
僕は今居る明らかに、“あちら”よりは涼しい影の中に居ればいいのに、その少女へと引き込まれ、影から光への境界線をまたぎ、歩み寄っていた。
その少女を眼下に見下ろせるくらいまで近付いたとき、僕は左ひざを太陽の余熱を受け継いだアスファルトへと足を突き、同じ目線となった少女を目の前へと移した。少女の瞳が僕から離れない。
「どうしたの?迷子?」
僕はごく自然に声を掛けたが、その瞳がそう話し掛けるように仕向けたような気がした。
少女は先ほど自分から離れて行った風船へと視線を向け、僕もその視線を追いかけるよう、自由になった風船へと向けた。
その風船は結構小さくなったが、まだ青空に完全には飲み込まれてはいなかった。
「行っちゃったね。」
と、僕は風船を見送り、存在を見届けながら言った。少女へと向き直ったとき、少女の吸い込まれるような透き通った瞳に僕が写っていた。それは、この暑ささえも忘れさせてくれる。
「お母さんは?」
と、僕はなぜか恥ずかしくなり、僕を見ているその視線を振り解くよう辺りを見回し、助けを求めるように、この少女へと向かってくる“動き”を探した。
しかし、一向にこちらへ向かってくる人の“動き”は無い。
「ここにいたら日射病になっちゃうよ。」
と、僕はさっきまで居た影へ指を指した。
「あそこなら涼しいよ。」
と言い終わる前に、少女は白く小さな手を僕に差し出し、それに答えるように僕もその手を握り、指さした方向へ、少女の歩きに合わせて二人でチョコチョコと歩き出した。
あともう少しでさっきまで居た影に足を踏み入れそうになったとき、不意を突くように少女は向きを変え、僕の手を引っ張りながらある方向へ掛け寄った。
「お母さんでも見つけたのかな?」
ちょっとホッとしたような、寂しいような・・・。
しかし、少女は立ち止まり、その瞬間、何かを覗き込むようにしゃがんだ。明らかに母親が居たからというような感じではなかった。
僕は少女の、その小さな背中に誘われるよう、近づく。
そこにはいくつかの小さく丸まった“背中達”が、何かに一生懸命だから、話し掛けないでと言っているようだった。
僕は、その中に少女を見つけ、その少女が覗き込む先を小さな背中越しから覗き込んだ。
「金魚・・・」
生簀(いけす)の水面には子供たちの元気な手が飛び交っていた。子供たちのはしゃぐ声とは反面、金魚たちが逃げ周り、悲鳴が聞こえてくるような気がした・・・。
・・・大人になってしまった・・・。
僕も小さいころ金魚をすくう事が楽しく、でも、すくえなく、はしゃいではしゃいで、そして疲れて眠り、父さんの背中で寝て帰ったものだ。
父さんのあの大きな背中は僕の指定席だった。そして、家に着き、起きたときには、すくった覚えが無い金魚が金魚鉢の中にいたものだった。
父さんの思い出は少なく、僕が小さいときに事故で他界し、今は写真を見なければ顔を思い出せないくらいだ。でも、あの大きい背中は覚えている。力強く、でもなぜか安心する、あの大きな背中・・・。
逃げる金魚を目で追いかけ、思い出に浸っていると、僕に何かを訴えている瞳があった。
「あっ、金魚すくいね?おじさん、いくら?」
と、アロハシャツを着た目の前のお店のおじさんにお金を渡した。周りから見れば親戚の子供に振り回されているお兄さんっていう感じだろう。
僕はお金と交換に「すくい棒」と「お皿」を受け取り、昔と変わらない懐かしさに少々嬉しくなり、金魚すくいに必要な二つの神器を少女に渡した。
少女は笑顔で答え、金魚を「救う」という使命感(?)で挑んだ。少女のその小さな背中が動くのを見て、愛しく思え、この光景をしばらく一人占めしたかった。
突然、少女がこちらを向き、少し視線をずらすと、金魚のすくい棒のコーンが取れていた。
「あら・・・。」
僕は心の中から何か燃える闘志が沸いて来るのを感じた。
「おじさん、もう一回。」
と、いつの間にか用意していたお金とその二つの神器を交換した。
そのすくい棒が「浅刺し」か「深刺し」か確認し、何かの確信を得た僕は、 その神器を渡した「おじさん」にニヤリと返した。
少女を傍らに置き、隣の男の子にちょっと場所を空けてもらい、ついでにこの男の子にも講義してあげようかというような勢いだった。
僕はTシャツの袖を捲り、自信を証明したくて、少女に尋ねた。
「どの金魚がいい?」
泳ぎまわる金魚から視線を離さないことが少女にもわかったのか、僕の視界に訴えかけるように小さな腕を伸ばし、小さな指が入ってきた。
「あれだね?」
僕は少女が指を指した金魚を見失わないように、そして静かにお皿とすくい棒を近づけて行った。傍らにいる少女と隣の男の子の期待を一心に集め、その期待感が気持ちよかった。
少女と隣の男の子がゴクッと息を飲んだのが聞こえるようだった。
「裕也、ここにいたのね。」
と、この緊迫した糸を断ち切る声がした。僕は、固まり、視界から金魚を見失った・・・。
「お姉ちゃん。」
隣にいた男の子は自分を呼ぶ声の方へ向き、僕と少女も、その男の子の声を合図に「お姉ちゃん」と呼ばれる方向へ向いた。
隣の男の子に「お姉ちゃん」と呼ばれたのは、同じ大学で同じサークルの恭子さんだった。そして、僕が恋している人だった・・・。まだ、まともに話したことがなく、完全な一方通行の恋、一目惚れだった。
「あれ?雅彰くん・・・?」
浴衣にみを包んだ恭子さんが僕の名前を呼んでくれた事は嬉しいが、小さな背中が並ぶ、その中のちょっと大きな背中が、今の僕の姿だった。
恭子さんの浴衣姿を目に焼き付けたかったけど、僕はこの姿を見られたくなかったので、一度、金魚がいる生簀(いけす)に顔を向けたが、観念して恭子さんの方へ向き直り、会釈をした。
傍らにいた少女が、この二人のやりとりを見て、僕の恭子さんへの思いを見透かしたのか、僕にぎゅっとしがみついた。少女は恭子さんの方を見て、そのあと僕を見た。
「大丈夫、大丈夫、お兄さんをとらないよ。」
と恭子さんは少女の気持ちがわかったのか、そう言ってなだめた。
・・・ちょっと待って、お兄さん!?・・・・
その言葉で、思い出した、この少女は迷子だったんだっけ・・・。
事情を説明しようかと思い、顔を恭子さんに向けながら立ち上がろうとしたとき、Tシャツの袖を何かに引っ張られ、一度立ち上がろうとした僕の体が、元の小さな背中たちの元に戻された。せっかくの人の恋路を邪魔した張本人は確信犯の小悪魔に見えた。
「ごめんね、雅彰くん。裕也連れて帰らないといけなくって。」
恭子さんは小さな背中の群れに隠れ込んだ「裕也」と呼ばれる隣の男の子の両肩に手を乗せた。その男の子は観念したのか立ち上がりはしたが、視線はまだ、生簀(いけす)の中の金魚から離れようとしない。
「ちょっと待ってね。」
僕は生簀を見渡し、一番都合の良さそうな金魚をササッとすくい上げた。次のために・・・まだ、小悪魔の約束を果たしていないから。おじさんに、すくった金魚の入った小皿を渡し、生簀の水が入った紐付きのビニールの袋の中に金魚を入れてもらった。そして、僕はその袋を裕也くんに手渡した。
「あ、ありがとう雅彰くん。」
と、恭子さんは言いながら、男の子と同じ視線になるため、かがもうとしたが、着慣れぬ浴衣が邪魔して、ぎこちなかったが、それがやけに色っぽかった。
「裕也君、お兄さんに“ありがとう”は?」
恭子さんが男の子の頭に手を乗せ、男の子の口から感謝の言葉を誘導しようとしていた。
「ありがと。」
男の子は恥ずかしそうに口に出し、恭子さんが笑顔で男の子の頭をなでた。僕は男の子の気持ちが、よくわかるような気がした。本当はまだ居たいよと言いたそうな口だった。
恭子さんは浴衣を気にしながら立ち上がり、会釈をして、男の子の背中を押すように人の流れへ向かった。そして、僕と小悪魔の相対する気持ちで、恭子さんと男の子の背中を見送った。
少女は、いつまでも人の流れに消えた恭子さんを見送っている僕の姿に、少女は僕の袖をツンツンと引っ張り、先ほどの金魚を指さした。
一度、浸かった「すくい棒」のコーンは、あと一回水に浸けたら、ただの棒になってしまうのはあきらかだった。少女は催促し、金魚へ指さす勢いは止まらなかった。ダメ元で僕はすくい棒を水面近くまで近づけた。
と、そのとき、金魚すくい屋のおじさんが、
「青年、最初から諦めていちゃダメだ。」
と、突然、太い声を出し、僕の気持ちを見透かしているようだった。僕は、すくい棒を水面から離し、金魚から一度目を離し、おじさんの顔を見て、うなずいた。僕とおじさんのやりとりを興味深そうに見ていた少女は、もう催促の手を引っ込め、僕に全部を任せた。
「よしっ。」
僕は単純に気持ちを切り替え、もう一度、水が滴り落ちるすくい棒を水面に近づけた。狙っている金魚が僕の前を3、4回通り過ぎ、金魚の呼吸と泳ぐリズムが手にとれるように感じた。
5回目にその金魚が僕の前を通り過ぎるとき、最後の一刀を投じた。タイミングは最高。すくい棒のコーンに金魚が掛かり、出番を待っていた小皿を近づけた。すべてはうまく行ったかと思ったが、コーンが悲鳴をあげ、もろくも水面に上がるときに外れ、僕たちの願いは砕け散った。
「あっ!」
僕と少女は同時に声をあげ、落胆した僕らをよそに、金魚はその場から逃げるよう、金魚の群れに紛れた。
そして、僕と少女は顔を見合わせ、肩を落とした。戦いは終わり、まわりの様子を見ると、さっきまでいた「小さな背中」の主たちは、どこかに消え、僕と少女とおじさんと金魚達しかその場にいなかった。
僕はもう一回やろうとお財布をジーパンのポケットから出そうとしたとき、少女は笑顔でそれを制止した。
「青年の健闘をたたえて」
と、おじさんがの中を覗き込み、一番活きのいい金魚を1、2度失敗し、やっとコップですくった。コップの中を覗くと金魚が二匹入っていた。
「まあいいや、これ、持って行きな。こんな活きのいいヤツはすくえねぇからな。」
と、コップの中に入っている二匹の金魚と水を紐付きビニールへ移した。
「内緒な。」
と、秘密を共有するかのように、僕と少女の目に小声で同意を求めた。僕と少女はうなずき、小声で感謝を告げた。
僕はビニールに入った金魚達を目の前に近づかせ、少女の目の前にもそれを近づけた。僕と少女は顔を見合わせ、互いに笑顔で嬉しさを表現した。
金魚すくい屋から離れるときに一度振り向き、まだこちらを向いて笑顔のおじさんに、僕は会釈し、少女は金魚を持っている方で手を振った。そして、気付いていたら、少女は僕の手を握っていた。
夏の太陽は時間が経つのを忘れさせてしまう。まだ明るいが、時間は夕方から夜の区別し難い時間になっていた。
僕は足早に、しかし、少女の歩幅を気にしながら、迷子のテントへと向かった。その途中、また僕の腕を引っ張る少女が居た。少女の見ている方向を見ると、青や緑や黄色の風船がフワフワ浮いていた。
「風船か・・・。」
しかし、赤い風船が見当たらなかった。そう言えば、風船は飛んで行ってしまったんだっけ。少女と初めて会ったときの赤い風船と同じ色を探したが、見当たらなかった。
「ちょっと、待ってね。今、風船屋のおじさんに赤い風船を作ってもらうから。」
僕は、少女の前にかがんで、そう言い、少女に会ったときの印象である「赤い風船」を少女に持たせたかった。僕は立ち上がり、風船屋のおじさんに「赤い風船」を作ってほしいと伝え、おじさんがガスボンベに赤い風船の「元」を取り付けた。
そのあと、勢いよくシューッと音がして、赤い風船の形が現れた。
「あいよ。」
風船屋のおじさんが僕に、その出来立ての赤い風船を手渡した。僕はお金を払い、少女の方へ向き直り、しゃがんだが、居るはずの少女の姿がどこにも見当たらなかった。
「あれ?」
僕はその場で辺りを見渡し、少女が興味持ちそうな所を行きかけたりもしたが、少女と最後に居た場所から離れることができなかった。赤い風船を握りしめた僕は、まるで親を見失った、迷子の子供のようだった。
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