第3章 テスト勉強

第1話 赤点の危機

 2回目のデートからしばらく経って、待ちに待ったゴールデンウィークがやってきた。せっかくの休みだし、恋愛実習のノルマ達成を兼ねて氷川先輩とどこかに行けたらよかったのだが、氷川先輩は塾やら模試やらで忙しいらしく、先送りすることになった。そして、先輩の用事が一段落したゴールデンウィーク後には、今度は高校の中間考査が迫っていた。


 テスト前ということで、地歴部も部活動は休み。とはいえ部室が使えなくなるというわけではなく、御園先輩や部長が集まってテスト勉強に勤しんでいた。せっかくなので、僕も試験勉強を始めようと思い立ち、教科書とノートを引っ張り出してみる。


「……あれ」

「ん、どうしたの、久我くん」

「あ、御園先輩。その、なんというか、全然分からないんですけど……」

「えっと、どの科目が?」

「数学と、物理と、化学ですね……」

「理系ほぼ全部じゃん。ちゃんと授業聞いてた?」

「聞いてたはず、なんですけど。右から左に流れてたのかも……」

「ぶっちゃけ、分からなくはないかも、そういうの。しかも高校に入って初めての考査だし、中学校のときに比べて内容がレベルアップしてるのに気付かず、いざテスト勉強に手をつけてみると絶望が待ってた感じ?」

「そう、たぶん全くその通りです……」

「まあ、よくあることではあるけどね。あたしも1年生の中間考査はかなり絶望したっけ。進度も速かったし……」

「それ、大丈夫だったんですか?」

「まあね。だって、うちの部には最終兵器がいるじゃん」

「最終兵器……?」

「御園、さすがに兵器呼ばわりは氷川先輩に失礼だ」

「えっと、つまり氷川先輩に教えてもらったってことですか?」

「そうそう。理系の科目だったら澪先輩が地歴部最強だから」

「確かに、氷川先輩に教えてもらえるなら心強いですけど……」


 そう言いつつ、周囲を見渡すが、先輩の姿は見えなかった。


「先輩、部室に来るんですか? 受験生ですよね?」

「うーん、普段はけっこう頻繁に来てるけど、試験期間だからねえ。先輩の教え方はマジで分かりやすいんだけど、来てないなら仕方ないね」

「そんなにですか」

「数学が分からなくて絶望してたあたしの教科書とノートを10秒くらい見てさ、めちゃくちゃ的確にどこ間違ってるか指摘してくれたんだよね。あと、全然分からない問題を質問したら、その問題だけの解法じゃなくて、その単元の問題を解くときの方針について説明してくれたり」

「そこまでいくと、もはや先生みたいですね」

「勉強できるのと教えるのが上手いのは別だけど、澪先輩はどっちもすごいから」


 そんな話をしていたら、部室のドアを引く音がした。ドアの方を向くと、氷川先輩が入ってくるところだった。


「こんにちは」

「あ、澪先輩! こんにちは! ちょうどいいとこに来ましたね」

「ええと、何かあったの?」

「久我くんの試験勉強がヤバいらしくて」

「そうなの?」


 先輩は僕の顔を見た。


「はい、お恥ずかしながら……」

「まずそうなのはどの科目かしら」

「数学、物理、化学です……」

「確かに、そのあたりの科目は初めの一歩で躓いてしまったら大変よね。私でよければいくらでも教えるけれど」

「え、いいんですか? 受験生って忙しいんじゃ……」

「その程度の余裕すらないなら部室には来ないわよ。それに、久我くんには恋愛実習に付き合ってもらっている恩があるのだから、少しくらいは返させてほしいわね」

「えっと、じゃあ、お言葉に甘えて……」


 先輩は僕が座っている机の前にやってきて、近くの椅子を引いて目の前に座った。ファミレスのときよりもさらに近い距離に、鼓動が少し激しくなるのを感じる。もっとも、ドキドキしているのは僕だけのようで、先輩は普段通りに口を開いた。


「科目は何から始めたらいいかしら」

「じゃあ、とりあえず数学からお願いしてもいいですか?」

「ええ。高1のこの時期に何をやっていたか、ほとんど記憶にないけれど」

「式とか因数分解とか、そのあたりですね」

「宿題は?」

「……その、提出がテスト期間にまとめてだったので、サボってしまいました……」

「それなら、まず宿題の分の問題を解いてもらえないかしら。私としても、久我くんがどれくらいできるのか、どこが分からないのかを把握しないことには何もできないもの」

「了解しました、氷川先生」

「……いえ、私は先生ではないのだけれど」


 氷川先生……もとい氷川先輩の指示に従い、問題を解いていく。解きながら氷川先輩の方を見ると、先輩は近くの席に移動して問題集を開いていた。僕の机には先輩の分の教材を置くスペースはないので、まあ当然なんだけど。それでも先輩との距離が離れたのが少し残念だと思ってしまう自分がいて、自分でも正直どうかと思う思春期っぷりだ。


 勉強の方の進み具合はというと、芳しくない。そもそも、全然できないから教えを乞うているわけで。初めの基礎的な問題はなんとかなっても、少し難易度が上がってくると、計算間違いとか以前に手も足も出なくなってきた。どこから手をつけていいかすら分からない。問題を考えては分からずスキップし、さらに次の問題を考えては糸口すら掴めずスキップ。さすがにこれは不毛な気がしたので、5問くらい白旗が続いたくらいで先輩に泣きついた。


「先生、どこから手をつけていいか分かりません」

「確かに、これは重症ね……。あと、先生ではないのだけれど」

「本当に、全然分からなくて……。どこから手をつけたらいいか、どうやったら分かるんですか?」

「久我くんが解いている様子を見る限りだと、試行錯誤が足りていないように見えるわね。そもそも、よほど数学が得意な人ならともかく、問題を見て解法がすぐ浮かぶなら苦労しないでしょう? 頭の中で試行錯誤しているなら別だけれど」

「その『試行錯誤』が分からないんですが」

「まあ、そうよね。ところで、受験にも数学の試験はあったと思うのだけれど、そのときはどうしていたの?」

「めちゃくちゃ苦手だったので、英語と国語で一点突破しました」

「そう……」


 あまりに想定外だったのか、先輩を絶句させてしまった。英語と国語で受かった人なんて別にそう珍しくないと思うのだが……。


「とりあえず、比較的簡単な問題の解法を押さえましょうか」

「了解しました、教官」

「……久我くんの中で、私はいったいどんな立ち位置なの?」

「別に鬼軍曹とかそういうわけじゃないですって」


 先輩は立ち上がって、今度は僕の左に座った。さっき正面に来たときも大概近かったが、今度は横だし、もっと近い。動揺を押し殺しつつ、先輩に聞き返した。


「さっきみたいに正面に座らないんですか?」

「だって、逆さまだと字が読めないでしょう」


 何を当たり前のことを聞いているのかと言わんばかりの表情と返答。いや本当にその通りです。動揺のあまり頭がちゃんと動いていないらしい。


「なんか、本当に仲良くなったんだねえ、澪先輩と久我くん」


 僕たちの様子を見ていた御園先輩が、感心したような口ぶりでそう言った。


「そう、ですかね」

「だってさ、2年も学年差があるのに、そういうのを意識せずに冗談を言い合えるレベルってことでしょ? 1ヶ月くらいしか経ってないはずなのに、よりによってあの澪先輩とそこまで仲良くなれてるって」

「『あの』というのはどういうことなのかしら……」

「人見知り、孤高、人と距離を詰めるのが苦手」

「つまり、お高く止まってると言いたいのね?」

「いやそこまで言ってないですって。いくら『失礼が服着て歩いてる』ってよく言われるあたしでもさすがに」

「そんなあだ名ついてたんですか、御園先輩……」

「や、あだ名は今考えた。失礼ってよく言われるのは本当だけど」


 いくらなんでも、さすがに御園先輩ほど仲がいいわけではないと思う。僕や御園先輩が冗談を言うだけならともかく、あの氷川先輩が冗談を言っているのは御園先輩相手のときしか見たことがない。そりゃあ、あんな感じにやりとりできる仲になれたらすごく嬉しいけど、あまり焦ったり高望みしたりするつもりはないし。


「事務的にやるという約束はあくまで恋愛に関してだけの話で、別に友達としての範囲なら問題ないはずだもの」

「まあ、そういうことです。さすがに実習がなかったら今みたいにはなってないでしょうけど」

「じゃあ、実習さまさまだねえ。おかげで仲良くなれたんだし」

「結果論としてはそうね。だからといって恋愛科の存在を許す気にはなれないけれど」





 先輩に数学の問題を解説してもらいながら、ふと思う。


 友情と恋愛感情って、そんなはっきり分けられるんだろうか。もしかすると、先輩はこの2つが完全に別のものだと思っているのかもしれない。


 僕はといえば、前までは違うと断言できたけど、今はもう自信がなくなってしまった。たぶんまだ恋じゃないけど、今抱いているような感情がもっと大きくなってしまったら、それはもう恋なんじゃないか? だとしても、どこからが恋でどこまでは普通の友情だなんて区切れないんじゃないか? それとも、こんなことに迷うのは僕が初心者だから?



 いや、少なくとも今はそんなこと考えるより数学に向き合わなきゃ。上の空で聞くのは解説してくれている先輩に失礼だし。

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