第3話 本の虫と連絡先
結局氷川先輩はそのままレジに並び、僕が勧めたラノベを買った。他の本を見るときに本を手で持っていると邪魔だから、買って鞄に入れた方がいいということらしい。
「次はどこを見ましょうか」
「そうね……。小説の新刊は昨日見たし、専門書でも見に行きましょうか。久我くんは他に行きたいところはないの?」
「僕はマンガとラノベしか普段読まないので、他には特にないです」
「そう。専門書コーナーはあっちよ。行きましょうか」
先輩に付いて専門書コーナーに向かう。僕が知っている小さな書店では、専門書の棚は全部まとめてちょっとしたコーナーがある程度だった。この本屋はそうではなく、科学、社会、文学、その他いろいろな分野の本がいくつもの列にわたって並んでいる。前後左右どちらを見ても、何についての本かすら分からない難しそうな本が目白押しだった。あいにく、僕は法律にも経済にも詳しくない。
先輩はそのまま地理の棚のところに行き、立ち止まって棚を眺め始めた。一応僕は地歴部の部員だから、地理や歴史は興味があるし、並んでいる本のタイトルすら理解できないというほどではない。もちろん、初心者向けの簡単なものから専門家向けの本格的なものまでいろいろだから、全部分かるわけではないけど。地図、都市、地形、地域史、その他さまざまな分野の本が並んでいて、確かに見ているだけで楽しい。その隣には民俗学や日本史の本が勢揃いしていた。
「なんか、こうやって見ているだけでもワクワクしますね」
「そうでしょう? もちろん気になった本は買うこともあるけれど、買わなくても本屋に来る意味はあると思うの。買うだけならネット通販は便利だし私もそこそこ利用するけれど、こうやって棚を眺められるのは通販にない図書館や本屋の利点よね」
先輩はしばらく本棚の前に立ち、いくつかの本を手に取っては中身をぱらぱらと斜め読みした。僕も先輩に
「先輩は……その、なんでそんな頻繁に本屋に行くんですか? そんな頻繁に新しい本が出るわけじゃないですよね、さすがに」
気になって先輩に聞いてみた。
「新刊がなくとも、来る意味はあるのよ。少なくとも私にとっては」
「具体的には、どういう意味が?」
そう聞くと、先輩は本棚に目を向けたまま、話し始めた。
「今年に入って、明らかに本屋に行く頻度が増えたのよね」
「え、そうなんですか」
「私、高校3年生でしょう? もう受験生だし、それなりに受験勉強というものをやっているの」
「部室での先輩の行動を見てると、正直あまりそうは見えないんですけど」
「さりげなくめちゃくちゃ失礼ね、その発言は……。それで、受験勉強ってあまり面白いものではないの。勉強自体は全く嫌いじゃないけれど、目的が受験になった時点でどうしてもやる気が失せてしまって」
「ああ、ちょっと分かる気がします。好きでやってることを強制されるとなんか嫌ですよね」
「全く同感ね」
先輩は溜息をつき、そのまま続けた。
「だから、受験で
「それが先輩にとっては本屋、ということですか?」
「ええ。要は気分転換ね」
気分転換に行くところが本屋というのは、なんとなく先輩のイメージに合っている気がする。知的で凛とした雰囲気だし、実際頭いいし。
「そこで本屋というのが先輩らしいですね」
「そうかしら?」
先輩は首を傾げた。そういう何気ない仕草もすごく絵になるから美人はずるいと思う。
「本屋という場所もそうですけど、気晴らしにやることが単独行動ってとこも。高校生だとよくあるのはファミレスとかじゃないですか?」
「私が誰かとファミレスに行くような人間に見える?」
「まあ、正直あまり見えませんね。でも、御園先輩とかと行ったことはあったりしませんか?」
「……断ったらあの子があまりにうるさかったものだから」
ため息をついている先輩も、別に本気で嫌だったわけではないのだろう。本当に嫌ならきっぱり断ると思うし。部室でも似たような光景をしょっちゅう見るけど、やっぱり氷川先輩は御園先輩相手だとなんだかんだ優しい。
「その光景、すごく簡単に想像できますね。御園先輩だし」
「まったく……だいたい、ファミレスくらい1人で行けばいいでしょう」
「そういうのは何を食べるかじゃなくて誰と行くかが大事なんですよ、たぶん。御園先輩も氷川先輩だから誘ったんだと思います」
「そういうものかしら」
「そういうもんです」
「そろそろ科学の棚に移動しましょうか。そちらにも地理の本があるの」
「え、まだあるんですか」
「ええ。今までのは人文地理。でも、地理には建築とか土木とか都市計画とか地形学とか、自然科学や工学に近いジャンルもあるでしょう?」
地理、奥が深い。
「先輩って理系ですよね?」
地形の形成過程、測量技術、その他いろいろ。地理に関連する分野とはいえ一気に理系色が強くなった本棚を眺めながら、僕はそう聞いた。
「ええ。それがどうかした?」
「先輩もやっぱりこういうのに興味あるんですか?」
「そうね、大学も学部は理学部か工学部がいいなとは思っているわ。詳しいことはまだ考えていないけど。そういう久我くんは?」
「うーん、科学とか数学も好きなんですけど、地理とか歴史が嫌いならこんな部には入ってないわけですよ」
「なるほど、未定ということかしら」
「そういうことです」
「聞いておいてなんだけど、そもそも、文理なんてのは所詮受験のための分類なのよ。少なくとも高校1年生の段階で気にすることではないわ」
「そんなもんですかね」
その後、ざっと科学・工学の棚を眺めた後、僕と先輩は本屋を後にした。
「まだ見てない棚もありますけど、大丈夫なんですか?」
「頻繁に来るのだから、別に毎回毎回全部見る必要もないでしょう? 今日見なかったところは今度来たときに見ればいいのよ」
「ああ、確かにそうですね」
先輩が異常な頻度で本屋に行く本の虫であることを忘れていた。
「それに、今日は1人で来ているわけではなかったもの。恋愛の教科書にも書いてあったでしょう? 『恋愛は2人が相手を互いに尊重して初めて成立する』と。もちろん、これは本物の恋愛ではないけれど」
「……僕、先輩を勝手にラノベコーナーに連れてきてしまったんですけど」
「私も久我くんの好きなことに興味があったから気にしないでいいわ」
「僕だって先輩が好きなものには興味ありますからね。別に連れ回されたって気にしないです」
「そう? なら今度、もし一緒に来ることがあればそうしましょうか」
「まあ、同じところばかり行くと実習としてはよくなさそうですが」
「副教科の点数なんて気にすることもないけれど、わざわざ恋愛の先生を怒らせる必要もないものね」
先輩と話しながら、ゆっくり駅に戻る。人と話すのがさほど得意でない僕からすると、会話はとても弾んだと思う。
しばらく歩くと、僕が乗る路線の改札が現れた。先輩と別れるのを少し名残惜しいと思っていたそのとき、先輩に声をかけられた。
「ちょっと待ってもらえるかしら?」
「あれ、先輩どうしたんですか?」
「いえ……私たち、これからもデートもどきをする必要があるのよ」
「まあ、実習ですからね」
「そうなると、連絡できるなんらかの手段があった方がいいと思わない?」
「確かにそうですね。先輩ってメッセージアプリの類使ってます?」
「まあ、連絡用に入れてはいるわね。さほど頻繁に使うわけではないけれど、通知があれば確認くらいはするわ」
「メールとかもちょっと面倒ですし、メッセージアプリで友達登録しましょうか」
「そうしましょうか。……このアプリ、久我くんは使ってるかしら」
そう言いながら先輩はスマホを出し、少し操作してQRコードを表示した。
「はい、使ってます。じゃあ登録しちゃいますね」
カメラを先輩のスマホに向け、QRコードを読み込む。海辺の風景写真のアイコンの下にMio Hikawaと表示されたので、そのまま友達申請を送った。
「申請が来たわね。これは許諾ボタンを押せばいいのよね?」
「そうですね。あ、大丈夫みたいです」
氷川先輩がボタンを押すと、リアルタイムでこちらの画面に「友達になりました」と表示された。
「それじゃあ、また今度。さようなら」
「はい、さようならですね」
連絡先を交換したのを確認し、別れの挨拶をしてから、先輩は自分が使う路線に向かって歩いていった。
(つ、疲れた……!)
この2時間くらいでインプットされた情報があまりにも多く、僕はそのまま数分間呆然と改札前で立ち尽くした。
ラッシュ時で明らかに邪魔だったのは別の話。
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