第2話 初デートと趣味の布教
「契約」成立後、僕は氷川先輩と2人並んで、部室から玄関に向かって歩いていた。とりあえずの話がまとまった頃にはもう完全下校時刻が近づいていて、見回りに来た用務員さんに「早く部屋の鍵閉めて帰れよ」と言われたからだ。
先輩は、何か考えているのか、あるいは何も考えていないのか、ずっと無表情のまま沈黙している。僕自身は沈黙を嫌うタイプではないし、先輩もそうなのかもしれない。それに、今日あまりにいろいろありすぎたせいで考えることはいくらでもあった。
いろいろ考えて、ふと大事な話を1つ忘れていたことに気づく。
「あの、先輩」
「何かしら?」
「その、僕と先輩で恋愛実習をするという話になったじゃないですか。でも、そもそも具体的に何をすればいいんでしょう?」
「……確かに、私自身は恋愛なんてやったことないし知識も一切ないのよね……。久我くんも?」
「はい」
それを聞いた先輩はそのまま口を閉じてしまった。僕が何か言わなきゃと思ったけど、いかんせん僕にだって恋愛のノウハウなんてない。あるはずがない。
「実習なのだから、教科書に立ち返るべきではないかしら」
しばらく黙考した後、先輩はそう言った。
「恋愛の教科書には、恋する2人がどういう心構えで何をすべきか書いてあったと思うの。どの章かは忘れたけれど」
「あ、じゃあ僕今ちょうど持ってるんで出しますね」
歩きながら鞄を開け、恋愛の教科書を取り出す。目次を眺めて当たりをつけ、目的のページとおぼしき場所を開いた。歩きながら読むなんて行儀が悪いとは思うが、下校時間が近づいているのだから仕方がない。
「ここですね」
「そのようね。ええと、映画館、水族館や動物園、美術館や博物館、カラオケ、商業施設や商店街、買い物、ゲームセンター、遊園地、お祭り、公園……いろいろあるのね」
「なんというか、恋愛とか関係なく高校生が放課後や休日に遊びに行くようなところが多いですね。博物館とかに行く高校生はあまりいない気がしますけど」
「そうかしら? 私はけっこう行くけれど」
「先輩1人ならともかく、何人かで遊びに行くときに博物館はなかなか出てこないと思います」
「……そもそも、誰かと遊びに行くなんて最近だと蒔菜さん以外とやったことがない気がするけれど」
先輩、いわゆる「ぼっち」なんだろうか。いや、僕もあんま人のこと言えないけど。
「とにかく、あまり恋愛を特別視せず、普段通りにしていればいいってことですね。あ、ちゃんと教科書のここに書いてますよ。『これはあくまで参考であり、最終的には2人が行きたいところに行ってやりたいことをやるのが重要である』って」
やけに配慮が行き届いてるな、この教科書。だったら僕や先輩みたいな生徒に配慮してそもそも必修から外してほしいけど、教科書を書いた人に言っても仕方がないか。
そうやって話しているうちに、校門をくぐって学校の外に出た。
「先輩の家ってどっち方面ですか? 僕は東横線なんですけど」
「私は池袋の方ね」
「じゃあ駅までは同じですね」
そのまま、日没間際の薄暗くなった道を2人で歩く。
「それで、さっきの続きですけど……具体的に何をします?」
「そうね……。久我くんは普段休日や放課後は何をしているの?」
「僕は、そうですね……放課後はゲーセンで音ゲーをしたり、ファミレスとかに行って夕食前に軽く食べたりしてます。あと本屋にたまに行きます」
本屋と言ったものの、実際には近所の書店と秋葉原のオタク書店のことなのだが。
「音ゲーというのは音楽に合わせてボタンを押したりするゲームのことよね?」
「そうです。先輩は音ゲーやらない人ですか?」
「ええ、蒔菜さんはそういうゲームが好きで相当通い詰めてるらしいけれど、私自身はやったことがないわね。1度だけ彼女に付いていってゲームセンターに入ったことはあるのだけれど、とにかく音がうるさくてゲームどころの話ではなかったわ。そもそもあの子の手の動きが速すぎて私には何が起きているかすら分からなかったのだけれど」
御園先輩は音ゲーが好きらしい。それも、先輩の話から察するにかなりの強者。機会があれば一度お手合わせ願いたいところ。
「ああ、苦手な人はとことん苦手ですもんね、ゲーセンは。そういう先輩は普段何してるんですか?」
「私は本屋くらいしか行かないわね。部室に下校時刻までいたら、その後にどこかに行くには少し遅すぎるし、だいたいそのまま家に帰るわ。本屋は別だけど」
「先輩って本屋にどれくらい行くんですか? 僕は1ヶ月に1回か2回くらいなんですけど」
「私は週に3回くらいかしら。帰る途中の池袋に8階建ての大きな本屋があるから、いつもそこに通っているの」
僕は読書家の事情にはあまり詳しくないが、週に3回というのは相当なハイペースなんじゃないだろうか。先輩の本好きは知っていたが、思ってたよりも重度なのかもしれない。
そんなことを考えていると、先輩がこちらを向いて話しかけてきた。
「実習のためのデートというのは、別に休日じゃなくてもいいのよね?」
「え、確かそうだったと思いますけど。何をするんですか?」
「このまま駅の近くの本屋に行かない? あそこはそれなりに品揃えが豊富だし、そう悪い案ではないはずよ。もちろん、時間が許せば、だけれど」
普段のように直接駅には向かわず、線路をくぐって大きな道沿いにしばらく歩く。繁華街のあたりは細い道がぐちゃぐちゃしていて迷宮みたいなのに、先輩はそこをひょいひょいと迷いなく歩いていく。たぶん、何度も通った道なのだろう。
「このあたりに本屋があるなんて初めて知りました。そもそも来たのも初めてですし」
「そうだったのね。てっきりみんな知っているものだと思っていたわ」
「4月なのに1年生で学校の近所に詳しい人の方が珍しいと思いますよ」
「それは確かにそうね」
そのまま先輩の後をついていくこと数分、目の前に百貨店が現れた。先輩は入口の案内表示に目もくれず、エレベーターホールまで進んで上行きのボタンを押す。
「この百貨店に本屋があるんですか?」
「ええ。7階にあるわ」
エレベーターで7階へ。エレベーターを降りて少し歩くと本屋が見えてきた。通路の両脇に本棚が並んでいて、かなり壮観だ。
「けっこう大きいですね」
「でしょう? マニアックな本もいろいろ置いているからすごくありがたいのよね」
本屋の入口をくぐると、たくさんの本棚がお出迎え。あくまで百貨店の中だからとても広いというほどではないが、それでも店内は十分な広さだった。僕は普段本屋に行ってもマンガとライトノベルくらいしか見ないし買わないから、ここまで大きいと何がどこにあるかすら分からない。
「なんか、大きすぎて気後れしちゃいますね」
「ここより大きい書店はいくらでもあるのだけれど……久我くんがよく行く本屋は小さいの?」
「家の近所の本屋は小さいですね。あと、秋葉原の本屋にもたまに行くんですけど、あそこはマンガとかが専門なんですよ。専門店だけあって品揃えはいいんですけど、店内はけっこう狭いし、本棚がずらりと並んでる感じではないですね」
「なるほど。どこから見るのがいいかしら。マンガコーナーから?」
「じゃあお言葉に甘えて。先輩も見たいとこあったら見ていいんですよ?」
「それは後で見るから大丈夫よ」
大きめの総合書店のマンガコーナーを覗くのは初めてだった。専門店に比べると確かに少し品揃えが劣るものの、メジャーなものだけでなくそこそこマイナーな作品まで揃っている。近所の本屋よりはずっと大きい上に学校の近くにあるので、帰る途中に寄るにはちょうどよさそうだ。
「けっこういろいろ置いてるんですね。ここの存在を知ってちょっと得した気分です」
「このコーナーは充実している方なの?」
「専門店に比べたらさすがに勝てませんけど、学校の近所にこういう本屋があったらすごくありがたいですね。小さいところだと有名作品しか置いてなかったりするんで。そういう先輩はマンガとかあまり読まないんですか?」
「まあ、そうね。どうも小さい頃からそういうものを読む経験がなくて……。小説なら恋愛からミステリとかホラーまでジャンル問わずいろいろ読んでるのだけれど、同じような内容でもマンガになるとどうしても気後れしてしまうのよね」
先輩はマンガの形式が苦手なだけで、いわゆるオタク作品だからといって毛嫌いするタイプには見えない。それなら、ひょっとするとライトノベルなら布教できるかもしれない。オタクは好きなものをみんなに広めるのが大好きな生き物なのだ。
「先輩、ちょっとこっち来てください」
「どうしたの?」
不思議そうな先輩を連れて、近くのラノベコーナーへ。
「先輩、マンガは苦手でも小説は普通に読むんですよね? じゃあこういうのはどうですか?」
これまたかなり充実したラノベコーナーを指差して、僕はそう聞いた。
「これは……小説、よね?」
「そうですね。ライトノベル、略してラノベってやつです。表紙の絵と挿絵が特徴です。ひょっとして先輩はこういう絵が嫌いでした?」
「別にそういうわけではないわ。最近は一般の小説でもこういう表紙の本はそこそこあるのよね」
売り場を見渡しながら、先輩は1冊の本を手に取り、何度か裏返してまじまじと見た。最近話題の、義理のきょうだいのもどかしい関係を描いた人気作だ。
「フィルムがかかっていて中身が読めないわね……。裏表紙にあらすじは書いているけれど。こういうのはどうやって選べばいいのかしら」
「専門店だと1巻の一部または全部が読めるように見本誌が置いてあったりしますし、あと最近は出版社の公式サイトで初めの方を立ち読みできたりしますね。絵で選ぶ人もいます。僕は絵と後ろのあらすじで面白そうだと思ったらけっこう直感だけで買っちゃうタイプですけど」
「それ、失敗しないの?」
「ごく稀に。まあ、一般的には立ち読みくらいはした方がいいと思います。その本に限って言えば、評判もいいし文章やストーリーもちゃんとしてるし、買って間違いはないと思いますが」
これは僕の持論だけど、小説の面白さを読者に伝わるように凝縮したのがあらすじだ。そのためにプロの編集者や作者が一生懸命考えて読者が食い付きそうな文章を書いている。それを読んで面白いと思えるなら、よほどのことがない限り、面白くなかったり自分に合わなかったりはしない。まあ、稀に外れるのも事実だけどね。
「せっかくおすすめされたのだから買ってみようかしら」
「いいんですか? 別に今買わなくても、立ち読みとかをしてからでも遅くはないと思いますが」
「久我くんのおすすめなんでしょう? 初心者がいきなり読むのは敷居が高いというならやめておくけれど」
「いえ、恋愛ものを普通に読むならこれが初めてのラノベでも十分楽しめると思いますよ」
「ならよかったわ。1冊700円くらいとなると、大きさも値段も文庫本とあまり変わらないわね」
「あ、言い忘れてましたけど、それ2巻ですね。1巻はこっちです」
「……表紙に載っている題名のロゴが飾り文字になっているものだから、つい巻数の表示を見落としていたわ」
「そういうのは背表紙を見れば確実ですよ。普通の文字で書かれてますから」
「あら、確かにそうね」
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