第1章 契約と初デート

第1話 先輩のまさかの頼み

 氷川先輩が恋愛の単位をまだ取っていないという話を聞いた翌日の放課後。部室に行くと、当の氷川先輩が本を読んでいた。


「こんにちは、氷川先輩。何の本を読んでるんですか?」

「ああ、久我くん。こんにちは」

 先輩は本に向けていた視線を上げ、本の表紙をこちらに向けた。緑と白のシンプルな表紙に「電磁気学Ⅱ」と書いてある。

「物理の勉強ですか。先輩くらい勉強できる人でも受験勉強はちゃんとやるんですね」

「いえ、これは別に受験勉強ではなくて、単なる趣味なのだけれど」

「……趣味で受験と関係ない物理の勉強をやってるってことですか?」

「関係ないとまでは言わないわ。ただ、受験で点数を取るのを目的にするならこの本は過剰でしょうね。大学1年生とか2年生が読むような本だから。でも、受験みたいな面倒なことばかり考えて勉強するくらいなら、好きなことをやった方がいいでしょう? 少なくとも、受験に影響が出ない程度なら」


 氷川先輩は、なんというか、ちょっと変わった人だと思う。自由人で、好きなことはとことん好きで、逆に嫌いなことはあまりやりたがらない。僕はせいぜい数週間の付き合いだから先輩のことをよく知っているなんてとても言えないけれど、それでもちょっとした会話の節々から、この人はこだわりが強いんだろうなということは窺い知れた。


 ひょっとすると、恋愛の実習の件も、先輩の中の何かの信念の結果なのかもしれない。そう思った僕は、特に深く考えず恋愛の実習の話を話題に出した。


「その、先輩がまだ恋愛の単位を取ってないって、御園みその先輩から聞いたんですけど」

 御園みその蒔菜まきな先輩は昨日部室で話していた2年生のことだ。

「ああ、蒔菜さんから聞いたのね。確かにそうだけれど、最終的にはなんとかするから大丈夫よ」

「あの、なんというか……何か、事情があるんですか? 単位を取れない事情が」

 そう聞くと、氷川先輩はこの質問が意外だったのか、少し目を見開いた。先輩はもともと表情の動きが少ないから、本当にごく僅かだったけど。

「そういうわけではないけれど、実習をやりたいかと問われると『やりたくない』と答えざるを得ないわね。だからずっと避けていたらこの時期になってしまったの。それだけよ」

「先輩も恋愛実習が好きじゃないんですか?」

「そうね、いくら形式だけとはいえ、恋愛はいろいろ面倒だし……。久我くんも?」

「まあ、はい。正直めんどくさいなーって思ってますね。いくら本物じゃないとはいえ、どうしても意識しちゃいそうです」

「やらないでいいならそれで終わりなのだけれど、必修だからね……。あまり先延ばしにしても卒業できなくなるし、そろそろ腹をくくってやらないといけないわね。5月くらいまでにはどうにかしないと」


 先輩はそう言って視線を下げ、再び本を読み始めた。



 僕はまだ1年生だから時間はたっぷりあるはずだけど、それでも正直ちょっと憂鬱だった。もっとも、その後すぐ御園みその先輩が元気に部室に入ってきたことで、憂鬱はきれいさっぱり吹っ飛んでしまったけど。

「あ、澪先輩! 来てたんですね! ひさしぶりです、元気でした?」

「そもそも3日前に会ったばかりよね……」

「『男子、三日会わざれば刮目かつもくして見よ』って言いますからね!」

「内容の是非はともかく、私も蒔菜さんも男子ではないのだけれど」



 あと2年か3年あるし、最悪そのとき考えればいいや。あまり将来を悲観しても仕方ないし。






 部室で雑談したり先輩たちに地理や歴史のことを教えてもらったりしているうちに、下校時刻になった。結局、先輩はたまに雑談に参加する以外はずっと、例の受験勉強ではない物理の本を読んでいた。受験勉強を一切していないのに全く気にせず泰然自若という感じの雰囲気で、なんというか、頭がいい人はやっぱり違うのかもしれない。まあ、あるいは氷川先輩がちょっと変わっているだけかもしれないが。


 帰りの準備のため机に出していた荷物をリュックに詰め込んでいると、氷川先輩が声をかけてきた。


「久我くん、ちょっといいかしら」

「え、大丈夫ですけど……何かやらかしたりしました?」

「ああ、いえ、そういうわけではないから安心して。単に頼みというか提案というか、少し話したいことがあるだけなの。ちょっと残ってもらえないかしら」

「そういうことなら全然構わないですよ。今から用事があるわけでもないですし」


 それを聞いた2年生の先輩たちの片付けの速度が上がった気がした。

「じゃあそういうことならあたし先に帰りますね!」

「俺たちも先に帰るんで、氷川先輩か久我くんは戸締まりだけお願いします」

「もちろんそのつもりよ。さようなら」

「澪先輩、さよならです。久我くんもね!」

「はい、さようなら」


 そうして、部室には僕と氷川先輩の2人だけが残された。










「それで、話っていうのは……?」


 みんなが帰った後の沈黙に耐えられなくなった僕が質問すると、先輩は少し躊躇いがちに口を開いた。


「……その、恋愛実習の話なのだけれど」

「ああ、やらないといけないって言ってましたよね」


 もちろんそれは先輩にとって大事な話だけど、なんでこの場で僕に向かってその話をしてるんだろう。いや、可能性は1つだけ思いついたけど、まさかそんなはずはないと思う。


「それで、相手を探さないといけないのよ。でも同級生はもう3年生だから忙しくて相手させるのが申し訳ないし、かといってそれより下の学年の知り合いなんてほとんどいないし」


 いや、先輩は美人だし頭もいいし、いくら忙しくても男子生徒ならむしろ喜んで相手してくれそうなもんだけど。そう思ったが言わずに先輩の言葉の続きを待つ。僕だってもしかしたらと思ってはいるけど、でもさすがに僕を実習の相手になんて、そんなのはマンガの世界だけの話だと思うんだよね。


「申し訳ないのだけれど、実習の相手を久我くんにお願いすることはできないかしら?」


 ……あれ、ここってマンガの中? それとも夢?





 冷静に考えると、いろいろ聞きたいことはある。なんで僕なんだろう。


「そもそも、なんで僕なんですか?」

「いろいろ理由はあるけれど、『変な面倒ごとなしに事務的にやっていけそうだから』というのが一番の理由かしら。どうせ形式だけなのだから、『実際の恋愛は面倒だし変に意識するのも馬鹿らしい』という共通認識を持っている相手となら淡々とやれると思うの」

「ああ、確かに……」


 納得せざるを得ない理由だったし、すごく強く共感した。実際、骨の髄まで合理的な先輩となら、変なことにならないだろうし別に悪くないかもしれないと思い始めている。


「これは別に私が一方的に得をするような話でもないはずよ。いくら嫌がっても、これはどうせ最終的にはやらないといけないことなの。だったら、1年生の早い段階で終わらせておいた方が気が楽だと思わない? 学年が上がるにつれて忙しくなるし、特に3年生になってからだと受験に悪影響が出ると良くないでしょうし」


 先輩以上に適任の相手が今後現れるとも限らない。というより、正直なところ現れない気がする。恋愛の真似事をちゃんと事務的にやれる人って意外と少ない気がするし、何よりこの話題でここまで考えが合う人はいないんじゃないだろうか。


「それと、もちろん私の勝手な都合に付き合わせるのは申し訳ないと思っているわ。もちろん実習の課題以外で迷惑はかけないし、付き合わせてしまうことへの対価として、私にできることならなんでも言ってほしいの。たとえば、勉強を教えてほしいとか、行きたい場所があるけど1人は心細いから付いてきてほしいとか、そういうのでも構わないわよ」

「え、さすがにそれは申し訳ないですよ。僕の側にもメリットがある話だし、そもそも先輩は受験生ですよね? さすがに受験生を付き合わせるわけにはいかないですって」


 確かに頭がいい先輩に勉強を教えてもらえるなら嬉しいけど、それより先に申し訳なさが来てしまう。


「そこは気にしなくていいわ。別に四六時中勉強しているわけでもないし、猛勉強しないと合格できないような成績でもないもの。本当に遊ぶ時間すら惜しいような状態なら、ここで放課後だらだら過ごしているはずがないでしょう?」

「うーん、まあ、確かに……。でもこれはお互い様ですからね。先輩も僕にできることなら気兼ねせず頼んでくれていいですから。高3の先輩よりは確実に暇なんで」

「それはつまり、実習の件を承諾してもらえるということかしら」

「はい、そのつもりです」


 ここまで的確に先輩側とこちら側のメリットを提示されると、確かにお互いにメリットのある契約だと納得せざるを得ない。僕が選ばれた理由は「僕も恋愛実習は面倒だと思う」という些細な言葉だったようで、些細なことではあったけど納得はできた。



「それじゃあ、これから数ヶ月、よろしくね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」


 こうして、僕は氷川先輩の恋愛実習の相手になった。

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