27 - 未来へ

 緊張するな。


 生まれて初めてドレスコードがある高級レストランを予約した。圭は社交の場に恥じないジャケットとパンツを身に付けて恋人の到着を待つ。


 どうしても彼女に伝えたいことがある。


 金曜日の夜、待ち合わせの駅前の広場は週末の賑わいを見せる。ほとんどが学生やカップルだったが、中には一週間の業務を終えたスーツ姿の会社員が呑み屋に向かう様子が伺えた。



 「お待たせ」



 人混みの中を手を振って歩いてくる麻衣は、ドレスコードがあることを聞いてトップスとスカートを選んだ。あまり畏まった場は得意でないが、彼が誘ってくれたのであれば、きっと楽しい時間を過ごせることだろう。



 「俺もさっき着いた。仕事長引いたのか?」



 とても綺麗に着飾っている彼女だったが、なんとなく焦って駆け付けたような様子だった。



 「ちょっとだけトラブルがあって。銀行ではよくあることだから大丈夫だよ」


 「そうか、じゃあ行こうか」



 圭はそっと手を差し伸べると、いつも通り自然な流れで麻衣はその手を取る。


 こうして歩いていると、彼女との思い出がいろいろと蘇ってくる。そのどれもが、彼女のおかげで今があることを再確認させるものだった。


 初めて出会った五年前、彼女はまだ大学生だった。アメリカから戻り、人生のすべてを復讐に捧げる覚悟をしていた圭の前に現れた彼女は、純粋で、まっすぐで、暖かかった。


 圭は幾度の命の危機を乗り越えたが、麻衣はきっと生きた心地がしなかったはずだ。


 一方的に別れを告げた最低の男を、最後まで愛してくれた。彼女がいなければ、俺はもうこの世にいなかっただろう。


 隣を歩く彼女は、同じタイミングでこちらを見ると、柔らかい笑みをこぼす。



 「いろいろあったな。俺たち」


 「そうだね。いろいろあった」



 そのいろいろは、ほとんどが圭によってもたらされた不幸だったが、麻衣はそれでも一緒に生きる道を選んだ。きっとこれから先、一生彼女にこの恩を返し切る日は来ない。


 だから、俺にできる唯一の恩返しは、彼女の笑顔を守ることだ。



 「急にどうしたの? 食事に誘ってくれて嬉しいけど」



 圭から誘うことはよくあり、その場合は麻衣の事情を考えて少なくとも一週間前に予定を確認するが、今回は前日に突然電話があった。



 「会いたくなった。あと、話がしたくて」


 「そっか。私が恋しくなっちゃったか」


 「ああ、会いたくて震えた」


 「あの歌詞、本当なんだ」



 麻衣は圭の冗談に微笑んで圭の手を離し、圭の腕に自らのそれを回す。



 「この服装なら大人のデートしないとね」



 いつも楽しそうにしている彼女を見ていると、辛かった人生が報われた。悩み、苦しみ、もがいた過去は、そのときに下した選択は、決して間違いではなかった。


 ふたりは予約したレストランに到着し、蝶ネクタイを付けたウエイターの案内で予約席まで歩く。テレビドラマで観たような世界で、ウエイターが引いた椅子に麻衣は腰掛けた。


 メニューはない。すでにコースを予約しており、前菜からメインディッシュ、デザートへと順に提供される手筈になっている。


 

 「これ美味しいね」



 すべての料理を麻衣は幸せそうに口に運ぶ。圭はその様子を見ながらゆっくりと食事を進める。先に食べ終えて彼女を焦らせないように。


 メインディッシュは肉料理であるため、それに合う赤ワインがグラスに注がれ、ふたりの優雅な時を刻む。


 最後のデザートまで終わり、麻衣は満足したようだ。気に入ってもらえて本当に良かった。


 今日、この場に彼女を呼んだ理由は、これからの話をしたかったからだ。



 「麻衣、話したいことがある」


 「話したいこと? それは、いい話?」


 「悪い話ではない。麻衣がどう感じるかによる」



 麻衣は背筋を伸ばして両手を膝の上に置くと、深呼吸をして目を閉じた。


 経験からすると、圭が真面目な話をするときは、決して良い話ではなかった。何を聞いても動揺しないための準備が必要だ。


 覚悟を決めて、麻衣は両目を開いた。



 「準備はできたか?」


 「大丈夫」


 「仕事が決まった」



 あまりにもあっさり発せられたその言葉に麻衣の思考が一瞬停止した。



 「え? 仕事? どこで働くの?」



 一年間圭をもっとも悩ませた問題があまりにも簡単に解決したように思えた。もちろん、彼が努力をして解決したことはわかっている。



 「父さんの会社に就職することになった。ちゃんと面接を受けて、採用された」


 「お父さんなら頼めば採用してくれたんじゃない?」


 「それじゃ、駄目なんだ」



 圭の父、俊哉ならきっと本気で熱意を伝えれば採用してくれただろう。だが、社長の息子としてではなく、ひとりの人間として平等に扱われるために彼はこの方法を選んだ。



 「圭くんならそう言うと思った。教えてくれたら就職祝い用意できたのに」


 「驚かせたくてな」



 安心した。圭は一歩ずつ確実に自らの人生を歩もうとしている。今回の報告はとても喜ばしいものだった。


 山縣もきっと空から笑顔で圭を見守っていることだろう。あらゆる人に支えられて現在の圭と麻衣がいる。感謝の気持ちを忘れてはならない。



 「それでさ・・・」



 話を終えたはずの圭は、なぜかまだ緊張しているようで、胸ポケットに右手を差し込んだ。



 「これを受け取ってほしくて」



 その手に収まっているものは、ネイビーの小さい箱だった。中身は見なくてもわかる。


 麻衣の心臓が大きく拍動する。



 「仕事が決まったら、麻衣に言おうと思ってた」



 圭は大きくひとつ深呼吸をすると、その小さい箱を開けた。中にあったそれは店内の照明を反射させ、眩しく輝く。



 「ずっと一緒にいてほしい。俺と結婚してください」



 圭の心臓もまた口から飛び出しそうなほどに速く大きく脈を打つ。それでも、この言葉に対する返事をする彼女の顔をしっかりと見たい。


 圭は麻衣の表情を両目でしっかりと捕らえて次の言葉を待った。



 「よろしくお願いします」



 恥ずかしそうに彼女は左手を差し出した。圭は箱の中の指輪を取り出して、薬指にそっとはめると、それはぴったり収まった。



 「似合うかな?」



 麻衣は左手を顔のそばに持っていき、光る指輪を圭に見せる。



 「とても・・・」



 圭は少しだけ不明瞭に滲んだ視界の中でとびっきりの笑顔を見せる彼女の表情を生涯忘れないことを誓った。



 「おめでとう」



 耳元で誰かが囁いた。


 わざわざそれを言うために来てくれたのか。



 「ありがとう」



 いつか報告に行くから。そのときまで、見ていてくれ。


 俺は、麻衣と共にこの道を歩む。

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