第19話 最後の告白
みゆに彼氏にしてもらった僕は、みゆを家族に紹介したいと強く思うようになっていた。
でも、そのためにはひとつしなければならないことがあるように思えた。
はからずもその日は、バレンタインの前日になってしまった。
栞に電話を自分からかけるのは初めてのことだと、スマホの呼び出し音を聞きながらふと思った。
僕と別れた後、栞は他の学校に移っている。
僕が通信制の高校に移った年に、栞も転校したことになる。
なぜそれを僕が知っているのかというと、学人が母に聞かれて答えているのを目にしたからだ。
学人は特に学校の情報に詳しいわけではないし、どちらかといえば興味がないほうだと思う。
その学人が知るくらい『ドロップアウト』は学校の重要事項であった。
僕は栞が転校したことより、その話を聞いたときの母の表情に愕然とした。
一度びっくりした表情になった後、その話に、栞に、興味がなくなったというような遠い目をしたのだ。
母にとって栞は、息子の可愛い彼女として好意的に接していたわけではなく、可愛くて『できる彼女』として接していたのだ。
だから僕のときと一緒で、『できない彼女』になった時点で、母の視界から消えてしまったのであろう。
僕と別れてから、進学コースの人たちとも馴染むことができず、学校に居場所がなくなってしまったことが原因だということは、想像に難くない。
今の僕だからなのか、呼び出し音が長く感じる。
「……」
出てくれないかもしれないと思った瞬間、栞は出てくれた。
「もしもし」
「……」
「栞。
お願いがあるんだ」
「……。
なに……」
一年振りに聞いた声は冷たい感じがするが、当然のことだろう。
「あのカフェに今から来てくれないか。
伝えたいことがあるんだ」
「……」
しばらく無言が続く。
「……」
「……。
だめ……、かな……」
まだ栞は無言だ。
「ごめん、急に電……」
「いいよ。
これから行くね」
栞は僕の話を遮り、そういって一方的に通話を終わらせた。
栞が去年「センスいいじゃん」といってくれた格好、カーキのステンカラーコート、グレーのチェック柄シャツ、黒のテーパードパンツに青いニューバランス574、そしてみゆからもらった白いマフラーでカフェに向かう。
外は積乱雲が空を覆い、どこに落としてやろうかと稲光が遠くで光っている。
ひどい天気の日に呼んでしまって申し訳ないことをしたなという思いと同時に、この空を『いい天気』と思う人はほとんどいないだろうなと想像した。
カフェに着くと、栞はまだきていない。
栞は待ち合わせに、いつも遅れた。
その理由は洋服に迷っていたとか、メイクに時間がかかったとかで。
遅れてくると、僕に毎回手を合わせ、軽くウインクしながら「ごめん」と可愛く謝った。
そう思い返していると、自然と自分が微笑んでいることに気づく。
小太りなオーナーに
「いつものでいい?」
と、ぶっきらぼうな声で注文を取られ、温かいカフェ・オ・レが運ばれてくる。
栞のための席なのに、僕の好みを覚えていてくれている。
僕は夏にはここのくどいミックスジュースを、冬には甘ったるいカフェ・オ・レを飲んでいた。
しかも提供されるカフェ・オ・レは猫舌の僕のために、いつもぬるかった。
僕は栞の前では格好つけずにくどいミックスジュースを頼めたし、ほとんどがミルクで、申し訳程度にエスプレッソが入っている甘ったるいカフェ・オ・レを飲むことができた。
僕が、スポンジの腐った僕が、ありのままでいられるのはここだけだったんだ。
栞の前だけだったんだ。
「……」
自然と涙が頬を伝ってくる。
僕は涙の雫がカフェ・オ・レに落ちるまで、それに気づかなかった。
泣いているという自覚を全くせずに、僕は涙を流していた。
そんなとき、栞はやってきてくれた。
ベージュのリバーコートに、裾が広がった白いケーブルモックニットネックとスキニーのジーパンという格好で、
「急に呼び出されたから、ちゃんと準備できなかったじゃん」
と、はにかみながら話している顔は確かにほぼノーメイクで、以前よりも幼く可愛らしくみえた。
「ううん。
十分可愛いよ」
本心でいった。
「いつのまに、そんなに素直に褒められるようになったの?
新しい彼女の影響?」
栞は僕の涙に気づいていない。
「そのせいじゃないよ」
コートをソファに軽くたたみながら、座り
「彼女、できたんだね」
僕はかまをかけられたことに気づいた。
「早いね。
てっちゃん、可愛いもんね」
可愛いと言われ、「テディベアに似ている」と言ったみゆを思った。
「栞は?」
「うん、できたよ。
私も可愛いもんね」
本当にそうだから、嫌味に聞こえない。
「どういう人か気になる?
って、今日はそういう話じゃないか」
注文すらせずに、いつも栞が頼んでいた(これは熱々だ)ブラックコーヒーが出てくる。
「ありがとう。
お久しぶりです、シカさん」
作り笑顔で、僕が勘違いしていた小太りなオーナーの名前を呼ぶ。
久しぶりに握手会で声をかけてもらえたファンのように、満面の笑みでシカさんは喜びを隠さないでいる。
シカさんが細長いシェフのもとに喜び勇んでいったのを見計らって、栞が両肘をテーブルにつき、組んだ指の上に顎を乗せて僕に話しかける。
「で……。
なんですか。
ふった元カノに何のようですか?」
嫌味っぽくなく、いたずらな笑顔。
間違いなく、そこらへんのアイドルよりも可愛いし、握手会をすれば何人も並ぶだろう。
「いや、ただ……。
お礼がいいたくて」
「お礼?」
「栞にお礼」
「……?」
栞の頭の上に、薄くはてなマークが浮かんでいる。
その表情からは僕を(少なくとも今日は)恨んでいるようには見えない。
「うん」
「こんなに一途で、可愛い女の子と付き合えたことに?」
顔を少し斜めにし、十人が十人可愛いと思うであろう笑顔で僕を見る。
「うん。
そう」
「……?」
今度は、さっきよりはっきりとしたはてなマークだ。
僕は真っ直ぐ、ただただ真っ直ぐ栞を見る。
「僕は自分のことを見つめるということをしてこなかった。
栞のいう通り、怖くて見つめることができなかったんだと思う。
でも、やっと見つめることができたんだ」
栞は少し驚いた様子になった。
「それは……。
それは、本当に栞のおかげなんだ」
栞は机についていた手を膝に置いて、真面目な顔になり茶化さずに聞いてくれている。
「でも、きっかけは栞じゃなかったんでしょ」
「……うん。
嘘をつきたくないからいうけど、今の彼女だよ」
栞の表情が一瞬だけ暗くなったけど、すぐに可愛い笑顔になった。
でもそれが作り笑顔であることは、僕にでもわかった。
「……」
「……」
沈黙があり、僕が言葉を探していると
「……。
よし……。
よくできました……。
てっちゃん、えらいよ。
ほんと、えらい!
いいこ、いいこ!!」
ソファから立ち上がり、テーブル越しに僕の頭を優しくなでる。
それはまるで、母親が自分の子供に、目一杯の愛情をかけてそうするように。
それがきっかけで、僕の目から涙が溢れ出した。
とめどなく涙が流れ落ちる。
今回はカフェ・オ・レに零れ落ちなくてもわかるほどの涙であり、それは徐々に嗚咽を伴うものになっていった。
頭を撫でてくれていた栞が、今度は僕の隣に座り、抱きしめてくれる。
栞のにおいがした。
「よくやったね。
よく……でき……たね……」
栞も涙声になっているのがわかる。
僕は栞の胸で泣いた。
がむしゃらに泣いた。
押さえつけられていた感情が崩壊したように、思い切り泣いた。
店の奥では、栞のファン二人も泣いているのが一瞬目に入ったが、そんなことは関係なかった。
しばらく、本当にしばらくして僕は泣き止む。
そのときまで、栞は黙って待っていてくれた。
そしてゆっくりと、胸から僕の顔を両手で挟んで、自分の顔の前に持ってくる。
栞も僕ほどじゃないけど、泣いている。
泣いてくれている。
「よかった、ナチュラルメイクで。
いつものメイクだったら、目の周りがパンダになっていたよ。
明日バレンタインだよ。
これじゃあ、目が腫れちゃうじゃん!」
泣いていた。
でも笑ってもいた。
ふたりとも泣いて笑っていた。
栞の瞳をこんなに近くで見ることは初めてだった。
いつでも、何度でも、そのチャンスはあったであろうに、僕は今日までそれをしなかった。
そして、今日が最初で最後だと思った。
栞の瞳は美しいベージュの色をしていた。
とても綺麗だと思った。
綺麗という表現以外、僕にはみつからなかった。
栞の瞳の中に僕がいる。
ふたりの距離が近くなり、自然とゆっくりと、瞳の中の僕が大きくなっていく。
そして、栞は軽く、本当に軽く僕の額に自分の唇をあてる。
その瞬間、僕は頭の中のスポンジがゆっくりと溶けていくのを感じた。
栞はゆっくりと、僕の頬を挟んだ両手を離していく。
僕の衝動が、言葉になって口からはじけ出る。
それは本当ならもっと早く栞に伝えるべき言葉だった。
そのとき。
稲光が走った。
「…………」
その言葉は雷鳴でかき消された。
栞には聞こえなかったと思う。
でも、口の動きでわかってしまったかもしれない。
栞は涙を拭い、立ち上がってコートを着る。
「じゃあね、てっちゃん。
今日会えて、本当に嬉しかった。
私も学校を変えてから、変わることができたんだ。
だから、ずっとずっと……。
ずっとずっと、てっちゃんのことが気になっていたんだ。
でも今日会えて、てっちゃんも変わったのがわかった」
僕はその言葉を真剣に、そして真っ直ぐ栞を見つめながら聞く。
「ありがとうね。
てっちゃん。
元気でね」
手を振りながら、シカを出てこうとする。
その途中で一度だけ振り返り、
「あっ、それから。
その格好は素敵だけど、そのマフラーをするなら、靴はローファーにした方がいいよ」
と、さっきよりすっきりしたように思える、いつものいたずらっぽい笑顔でいった。
その風景を、レジ横に置いてあるクマとパンダのぬいぐるみが優しい表情で見守ってくれていた。
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