第7話 二度目の出逢い

 白い女の子と次に会ったのは登校日ではあったが、雑居ビルの中の教室という名の会議室の中ではなかった。


 始業式での鮮烈な出逢いから一週間が経ち、気持ちはどうにか落ち着き始めてくれていたが、実際に登校日の朝になってみると心がおぼつかなくなった。

 十時からのホームルームのために、学人、父と順番に、そして健全に家を出ていったのを見計らい、僕はリビングをそっと通って玄関から家を逃げ出した。

 そんな僕に気づいているはずなのに、母は父が教授になってから自分へのご褒美に買った真空管アンプで、クラシックを大音量で聴いていた。

 いや、そのピアノの音で僕をかき消していた。

 曲は『トルコ行進曲』だった。

 その曲に頭を激しく揺さぶられる中、僕は電車に飛び乗り、雑居ビルのある駅までその襲いかかる音に怯えていた。


 駅に着くと、何故だか急にせわしいピアノの音は聞こえなくなり、車のエンジン音と少ない音で構成された音響式信号機の『通りゃんせ』が僕の気持ちを落ち着かせてくれた。

 歩いて学校という名の雑居ビルに向かう。

 バスなら五分の距離も、歩くと三十分はかかるとスマホのナビアプリが教えてくれた。


 僕は歩くのが好きだった。

 それは何も考えずに、あるいは何か考え事しながらでも移動できるから。

 白い女の子との再会(たった一週間だが)を思いつつ、十五分ほど歩くとこぢんまりとした公園があった。

 それは、この周辺にある多数の団地のために作られたと想像できる、申し訳程度にブランコとシーソー、ベンチだけが置かれている古い公園だった。

 ぎりぎりに教室に入るためには時間を十分はつぶさなければならなかったから、自販機で缶コーヒーを買い、お尻の設置面の青が少し薄くなった、ところどころ錆びてしまっているベンチに僕は座る。

 初夏を思わせる陽気なのに、間違ってホットコーヒーを買ってしまったことが、僕の心がまだおぼついていないことを如実に表していた。

 

 不意に肩を叩かれた。

 ちょうど飲み干そうとしていたところだったから、その振動でコーヒーが少し口からこぼれ、白い無地のTシャツに黒いシミがついた。

 そんなことに気づかないくらい、僕はドキドキしながら後ろを振り向く。


「そこ、私の席です」


 一週間前と全く同じ優しいトーンで、全く同じ台詞を、日傘をさしたあの白い女の子が僕に投げかけてきた。

 僕は季節外れの眩い日差しに照らされた、その白い女の子の神々しさに言葉を失った。


「あの……。

 確か……」

 白い女の子が先に言葉を発したが、僕は次の言葉を待つことができず、

「うん、同じ学校になった相澤です」

 といい、矢継ぎ早に

「アイザワのザワは難しいほうの澤なんだけど、昔から書いているから僕はそうは思わないんだ」

 と付け加える。

 できるだけ平然を装ったものの、しゃべっていて自分でも何をいっているのかわからなかった。

「なにそれ!

 面白い!」

 彼女は笑ってくれた。

 その顔からは神々しさは感じず、ただ可愛い高校生の笑顔だった。

「いや……。

 そうだよね。

 なんか……。

 なにしゃべっていいのか、わからなくて……」

 頭の中のスポンジが、またジュッと音をたてたのを感じる。

「面白い人ですね。

 私は逢川です。

 カワは簡単な川だけど、アイカワのアイは出逢いのアイの難しいほうで、自分でも難しいなと私は思っています」

 一瞬呆気に取られたが、僕はすぐに笑顔になることができた。

 作り笑顔ではなく、自然な笑顔に。

 でもやはり次の言葉は出ず、思わず逢川さんの瞳を見つめてしまうかたちになってしまった。

「……」

「……。

 びっくりしました?

 それはこの出逢いにですか?

 それともこの薄緑色の目にですか?」

 日傘を持っていない方の手で自分の瞳を優しく指す逢川さんに見惚れてしまい、僕は言葉をかえすことができない。

「いやいや、これはアルビノジョークです。

 笑ってくれないと逆に傷ついちゃいますよ……」

「そうだね……。

 ごめん……。

 ほんと、ごめん!」

 頭を下げる僕に逢川さんは

「なに謝ってるんですか。

 傷つきます……」

 と作った困り顔で、いたずらっぽく僕を見つめかえした。

 逢川さんは小柄な体で、黄色いダボっとしたTシャツ、緑のプリーツスカート、ニューバランス996のベージュという格好だった。

 日傘の内側は青空色で、下から上に目線を上げていくと、向日葵みたいなコーディネートだなと思った。

 そして、それは逢川さんにとても似合っていた。


「失礼しますね」

 逢川さんは僕の返事を待たず、隣に座った。

 僕は相変わらず、なんて話せばいいのかわからずにいた。

「よく来るんですか、この公園?」

 逢川さんは僕の頭上にも日傘をさしてくれ、そのおかげで相合い傘をしている男女の影が地面にうつし出される。

「家、近いんですか?」

 口を開かない僕に気を使って、いや表情的には素直な疑問として逢川さんは話を続けてくれた。

「いや、雑居ビルに行こうと思っていて……。

 でも、まだ時間があったから時間をつぶしていたんだ」

「雑居ビル?

 あぁ……、あの学校は確かに!」

 少し大きな声を出したからか、逢川さんの文字通り透き通るような肌に桜の花びらが舞い落りたように、頬がほのかに赤くなった。

「私はたまにこの公園にくるんです。

 でも、この時間には滅多にこないから、結構レアですよ。

 まあ、存在自体がレアキャラなんですが」

 逢川さんの話している言葉は確かに聞こえているのだが、頭には上手く入ってこなかった。

 僕はスポンジのせいだと思った。

「あの……。

 聞いてます?」

「あ……。

 うん……。

 聞いてる」

「心がふわふわしているみたいですけど、こんな可愛い子に話しかけられたからですか?

 それとも白い子だからですか?」

「そうじゃない!

 そうじゃないよ……」

 その声の大きさに、逢川さんも僕もびっくりした。

「しーっ。

 そんな大きな声を出したら、人が集まってきちゃいますよ」

 逢川さんが小声でいう。

「ご、ごめん……」

 僕も小声で返す。

 恥ずかしくなって、顔を下に向けた。

 今度こそ、僕からしゃべらなきゃと思った。

 そして、意を決して言葉を絞り出す。

「なんでこの公園なの?」

「お、自分から話せるんですね」

 逢川さんはいたずらな笑顔で答えてくれた。

「ここの公園は小さい頃、お母さんがよく遊びに連れてきてくれた公園なんです。

 時間はお母さんのパートの仕事が終わってからだから、五時くらいだったのかな。

 私、アルビノでしょ。

 日中はあまり外に出られないんです、皮膚と目が弱くて。

 それに外見もこんなんだし」

 その少しの哀愁を感じさせる顔をみて、僕は思わずぶんぶんと大きく首を振った。

「でもお母さんは、私を特別扱いしないで同い年の子がそうするように、この公園で遊ばせてくれたんです。

 パートが終わってからという口実をつけていたけど、すぐに私のことを考えてその時間にしたのだとわかりました」

「そうなんだ」

「うん、そう。

 でもね、近所の人から怖いとか気色悪いとか言われて。

 少し傷ついたけど、お母さんは気にしないでいいと遊び続けさせてくれたんです。

 だからここは、私にとってとても大切な場所なんです」

 その答えにも僕はスポンジのせいで上手く返事ができなかった。

 それを見た逢川さんが

「貴方も私を見て、怖いとか気色悪いとか思って……」

 というのを途中で遮って

「違う!

 絶対にそんなんじゃない!」

 僕は大きな声でそれを否定した。

「だから、そんな大きい声を出したら、人が集まっちゃいますって」

 逢川さんはまた小声で僕を諭した。

 申し訳なさそうにしていた僕に、

「大丈夫ですよ。

 時間だからいきましょう。

 私は平気だけど、入ったばかりで気になるだろうから、先に行っているね。

 雑居ビルに」

 立ち上がり、少し歩いてからくるっとこっちを向き、

「またあとでね。

 難しいザワの相澤くん」

 と逢川さんは小走りで公園を出ていった。

 僕はといえば、『またあとで』という簡単な五文字すら口から出せず、しばらく見送ったままだった。

「逢川さんっていうんだ」

 ほんの小さな声だけど、その素直な思いは、今度はごく自然に口に出すことができていた。

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