第20話
これは悪夢だ。
昨夜、北街のある薬師の元に侵入者が現れた。目的がなんなのか、それを聞く前に衛兵が外部の人間を始末するのはいつもの事だった。しかし、今回それが果たされることは無かった。
侵入者と共に現れた巨大な生き物。知識あるこの街の数人の人間は、その存在を理解していた。各分野の研究者たちがその姿を見ようと、騒ぎの元まで駆けつけた。生物の研究を行う私も、その野次馬の1人だ。だが、私たちが目にしたのは、まさに一方的な殺戮であった。噂の角羅は姿を消し、18~20歳ほどの顔つきをした男が、抵抗する人間を殴りつけ、噛みつき、血を浴びていた。
武器を構えた人間は即座に、その男によって生を奪われる。片腕に何かを抱き抱えているというのに、その動きにはまったく乱れがない。戦うことの出来ない私にも、あれが圧倒的な力を持つことは、一目瞭然であった。
その光景に息をするのも忘れていたようで、体がふらりと崩れ、その場に尻もちを着いてしまう。阿鼻叫喚はいつしか収まり、震える私の前に、男が立っていた。
男は金に輝く鋭い目を持ち、赤く染った髪の間から元の色と考えられる曇り空が少し姿を見せている。この街でも、見かけないその容貌は、この状況下にあっても、美しく、そして果てしなく恐ろしい。
男は血に染った右手を長い舌でべろりと舐めながら、私を見下ろしている。数秒目が合ったまま、動けずにいると、男は興味を失ったのか、私の横をすり抜けて行った。
「はぁ、はぁっ……」
詰まっていた息が一気に吐き出される。じっとりと全身が汗に濡れていた。周りを見れば武器を放棄し震える兵士や、気絶する学者、隠れる女子供は傷つけられることなく、その場に存在していた。
あくまでも、あの男の殺しの対象は抵抗する人間ということなのだろうか。
恐怖のあまり、逆に冷静になってしまった脳があの男を思案する。過去の天災よりもさらなる脅威。それが、我々と同じ姿をした人間によってもたらされるなど、誰が想像出来ただろうか。
男はそれから、領主邸に向かったらしい。昼頃、領主邸の屋上から、領主殿が投げ出されるのを、使用人達はただ眺めていた。
それは復讐にしてはあまりにも一方的だった。しかし、圧倒的すぎる力の前に、誰もそれに異を唱えようとはしない。領主邸に住み着いたところで、男の殺戮は止まった。
使用人たちも全て追い出され、領主邸は静かになった。それから数日、男は時々食い物を求めて市場に降りる。誰も無防備な男に戦いを挑もうとはしなかった。この街はあくまでも、男の巣なのだ。私たちは運良く生き残り、巣の主に脅えて暮らす雑草にすぎない。領主の着物だろう、質のいい服を着て領主邸の窓辺に座っているのはよく見る光景だ。
1ヶ月もすれば、この状況にも人々は慣れてくる。男は殺しを行うことはなく、我々は静かに暮らすことが出来ている。話し好きの老婆が、男に声をかけた時はかなり肝が冷えたが、男は低い声で老婆の問いに答えた。老婆は男に名を聞いた、男は蛇ノ目とだけ答え、ふらりとその場を立ち去る。
あまりの変わりように、すっかり警戒心を解いた人々は、蛇ノ目に媚びを売るようになる。食事を世話を……様々なことを蛇ノ目に行おうとした。とくに、若い娘を持つ男は積極的に媚びを売る。しかし、蛇ノ目は食事も女も全て拒否した。食事は自分で持ってきたものだけ、女には大して興味がないようだ。
そんな中、しつこい男が殴り飛ばされる。腫れ上がった顔のまま、涙と鼻水で顔を汚して蛇ノ目様に構うなと叫んだ。それは街中に広がり、領主邸はまた静かになる。
ある日の事だった。
連日、蛇ノ目の姿が見られなくなる。意を決して、1人の男が領主邸を覗くと、そこに蛇ノ目の姿はなかったらしい。それと同時に、街の厩から1番体の大きな黒馬が朝方からいなくなっていると、馬番の男が供述した。どうやら蛇ノ目は、誰にも気付かれることなく、街を出てしまったらしい。
なんとも言えない気持ちが街を覆ったのである。
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