「あっ、ちがッ、これはあの、たッ、たた食べても大丈夫な方のセミっていうか!」


 それが最初のひとことで、そして何ひとつ大丈夫じゃなかった。


 当たり前だ。夏休みの旧校舎裏、顔中ぐじゃぐじゃにして泣きながらセミをもしゃもしゃ貪り食う巨大女の、その絵面のどこに大丈夫な要素があるというのか。

 すぐに保護した。でないと生態系のバランスが崩れる気がした。学校周辺のセミがすべて食い尽くされる前に、この薄らデカい奴を機能停止に追い込むのが私の役目なのだと、そんな義務感に突き動かされたのがすべての始まり。


 同性同士なのは幸いだった。泣く女を慰めるのに余計な気兼ねをせずに済む。加えて、この場合は私が小柄なのも。一五〇センチに満たない背丈になまちろい肌。この見てくれのおかげでこれまでの人生、一度として警戒されたことがない。

 武の真髄は無手無策にこそあり。もとより攻撃の手段を持たない小さな個体を、あやまたず警戒できる人間のなんと少ないことか。


「——いいの。えっと、ミウラさん、だっけ。頑張ったね……」


 そう告げ、手を取り、そのまま優しく微笑みかける。それだけで彼女は簡単に落ちた。別に狙ってやったわけじゃない。でも、一八〇センチを超える巨体が呻き声をあげてくずおれる様は、自分で思っていた以上に爽快だった。


 実際に言葉を交わすのはこれが初めてのこと、でも名前は彼女の着ていた服を見ればわかる。バレー部の名入り練習着。全身汗でぐしょぐしょで、たぶん部活の最中になんかあって逃げてきたんだろうなと、そこまではおおよそ見当がつく。目が死んでた。ドブ川の色だ。なんなら顔全体が地獄の様相というか、完全に急性のストレスに精神をやられた人間の顔をしていた。


 具体的に何があったかは知らない。興味もないしそもそもが勝手な勘繰り、もしかしたら単にそういう性格なのかもしれない。多様性だ。私たちの基本的人権は、泣きながらセミを貪り食う自由をなんら制限するものではない。個人的な事情に踏み込むのは野暮ってもので、それでも「セミ食うほどの勢いで泣いてる女をっとくのは違うだろ」と、本当にただそれだけのことだった。


 それが七年前、高校二年の夏の出来事。

 そしてそこから、一年半。

 私とミウラの、卒業まで続く爛れた関係の始まり——。

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