第65話 泥忍法

あらすじ シンは漏らした。


 あたたかい。


「!」


 混濁した意識の底からタカセは浮かび上がり、自分の腹を濡らしているものを理解する。怯えきった顔が目の前にあり、その視線の先にある忘れられない女の姿で、血は発火した。


「シン、返事をしろ」


「……イチさん、あの、これは」


 事情を把握する余裕はない。


「クノ・イチぃっ!」


 タカセはすぐさま分身で背後を取っていた。


「あ?」


 完全に先手を打ったはずが、壁に叩きつけられていたのはタカセだった。風呂場を出た先の洗面台の脇の壁は大きく凹み、洗濯機やドライヤーが宙を舞う。実体をいきなり捕まえられた。


「だれだ?」


 興味などなさそうな声。


「くっ」


 覚えられてもいない。


「忍ぽ……!」


「だれでもいいか」


 グア!


 タカセの視界が大きく揺れたと思った次の瞬間にはアパートの壁をぶち抜いて外まではじき飛ばされていた。隣と、その隣の部屋を二つ。裸のままで有ることを気にするより、単純な力だけでこれほどの差があることに驚愕する。


「ニコ!」


 少女の名を呼んで、ふと気付く。


「シン……って?」


 迷いかけて、タカセは首を振る。


「それは後!」


 残してきた分身と自分の身体を入れ替え、再びクノ・イチとの間に割って入る。まずは守らなければならない。話し合いができる相手でもないことは初手から明らかだった。


 こちらに興味がなく、排除する気しかない。


「忍法! マッドボート!」


「……じゃま。を?」


 容赦なく拳がタカセの顔面に向かってきていたが、その動きは一気に鈍くなる。室内に溢れる透明な泥は次第に色を持ち視界も閉ざす。アパートは崩れるだろうが致し方ない。


「むうっ!」


「……!」


 溺れそうになっているニコの手を掴んで、タカセは全力で地面へと潜った。マッド忍法の本領は攻撃よりも防御にある。それ自体は忍者相手にダメージにもならない単純な質量ながら、泥の性質上、わかっていなければ一方的に行動を阻害し、優位に立ち回れる。


 地面の下を泳いで逃げた。


 あらゆる障害物を泥に変えて泳ぐ。


 周辺の被害は甚大。


 しかし気にしている余裕はない。


「……!」


 追ってきている。


 地上を動く巨大な忍魂は感じようとしなくても明らかにこちらに向かってきていた。タカセ一人ならばさらに深く潜っただろうが引っ張って連れてきたニコの息が持たない。


「ううううっ」


「もうちょっと我慢してよ!」


 聞こえないはずだが、タカセは叫んだ。


 自分も鼓舞するため。


 地中から出れば、数秒も経たずにクノ・イチと戦うことになる。ニコを連れたままでは二度も逃げる手は使えない。かといってただ正面からぶつかって退けることも困難だ。死を覚悟しなければならない。


 地の利。


 幸いなことに自宅アパートの周辺。


 地中からでも場所はわかる。

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