ふたつめ

「――さようなら」

 声が響いた。頭の中に声が響いて、その後に前を見たら、私の傍から離れていく女の子の姿。顔は見えない。一瞬後に聞こえた悲鳴に、渦巻く鉄錆の匂いに、吐き気がした。吐き気がして、思わず戻そうとした先に、――目を覚ました。

 目の前に見えるは暗い天井。起き上がって窓の方を見るとカーテンから覗く外はまだまだ暗い。思わず近くにあった携帯の画面を見れば、今は4時だということがわかる。

 早く起きすぎてしまったことに心の中で悪態をつきつつ、部屋を見まわす。いつもと変わらない。夢の内容も、いつもと変わらない。目をしばらく閉じれば、瞼の裏に再生される先ほどの夢に吐き気ほどまではいかないけれど、気持ち悪さが出てくる。ゆっくり瞼を上げれば、先ほどの夢の映像は消えて、途端に広がる暗闇。

「――――おはよう」

 声の主はわからないまま、わざと違う言葉を返してみたけれど、当たり前のごとく誰の声も聞こえなかった。



 とある1年間の記憶だけが未だに思い出せない。その前後はあるのに、何故か私が高校1年生の間のその1年間だけが不自然に思い出せない。記憶喪失なのかとも思ったけれど、ある程度のことは思い出せないから違うのだと思う。どうしたらいいのだろう。まあ特に生活に支障はきたさないから何も思い出さなくても大丈夫なのだけれど。



 ひとりで学校へ向かい、ひとりで教室に入る。私に近寄ってくる人はいない。だからといって避けられてる訳でもなく、空気のように接されている。無視って訳でもない。ただただ自然に私は空気になっていて、いつからかはわからないけれど、いつの間にか私はそれに慣れてしまっている。慣れているからなおのことこうなった原因を突き止めようとはしないし、慣れているから変えようとも思わない。存外、ひとりでいるのは気に入っているから。だから特に気にしていない。痛む心なんて、きっと既に無くなってしまっているのだから。



 そんな訳でひとりで迎える昼休み。いつものように屋上に向かえば、何故かいつもとは違って屋上への扉は開いていた。いつもなら屋上の手前のスペースで食べるのだけれど、今日は気になって屋上への扉を開けていた。

 ――そこに見えたのは一人の長い髪の少女。

 誰かはわからない。だけれど、頭がズキズキと痛む。何かを訴えるかのように。何かを伝えたいかのように。私の頭は鈍い痛みを訴える。

 私のことを一目見た彼女は漆黒の髪を靡かせてこちらを見た。

「あなたは、おぼえているの?」

「……? なんのこと?」

「わたしのこと。わたしとすごした、1年間のこと」

「1、年間……?」

「忘れてるってことかぁ……しってた」

 少し悲しそうに笑った後、彼女は続ける。

「おしえてあげる。あなたはふしぎなゆめを、みているのでしょう? そのゆめのしょうたいを。おしえてあげる。ねえ、」

 ――ききたい?

 その言葉に、私は促されたかのように伝えていた。

「聞く」と。言ってしまった後に、意識は落ちた。

 ――その瞬間に見えた彼女の顔は辛そうに笑っていた。



 走馬灯のように流れるのは1年間の誰かの記憶。

 ――いや、私の記憶だ。

 高校に入学した後、誰かと出会った記憶。その誰かと一緒に過ごした1年間。

 ――その誰かは、さっきいた少女だ。

 黒く長い髪を靡かせて、よく笑っていた。その笑顔も様々なバリエーションがあって。だけど何故か泣き顔とか、笑顔以外の姿は見たことがない。驚かせたときのびっくり顔くらいで、それ以外では笑顔だった。泣くことなんてない。弱音を吐くことなんてない。悪口を吐くことなんて、もっとない。私が今まで見た他の子達よりもとても優しい良い子なんだろうなと、思ったことがあったっけ。

 ――ああ、思い出した。

 全て思い出した。彼女と過ごした1年間。その間、私はとても幸せで。でも彼女との別れは突然だったから。だからしばらく抜け殻になって。

 その後に、忘れてしまったのだ。彼女と過ごした全てを。彼女と築いてきた全てを。忘れてしまって。その後は夢でずっと彼女の死に際を見て。

「さようなら」

 その声だけを覚えたまま、私はずっと生きてきた。



「おもいだした?」

 ハッと意識を戻せば彼女は近くにいた。思ったよりも近い距離にいて驚いてしまったけれど、彼女の悲しそうな、でも嬉しそうな複雑そうな笑顔を見て言葉を失ってしまった。

「おもいだしたみたいだね。じゃあさ、」

 ふっと聞こえた声に考えがとあるものに及んでしまって、やめて、心から漏れ出た想いが口から漏れ出る。

 でもそんなこと知らないとでもいうように。彼女はこう言った。


「そろそろ、さよならをしようか」

「さようなら、結。ばいばい」


 そう言った彼女は私が止める間もなく、屋上のフェンスの外に出て、――身を乗り出した。

「ゆ、き、」


「さよう、なら、」


 思わず漏れ出た声にハッとした私もいたけれど、でも仕方のないことだと思っていた。これは、いなくなってしまう彼女への別れの言葉だから。きちんと、伝えなくては。

 そう思い、ふっと意識を飛ばした。



 起きれば、私の周りには友人がいて。その友人が心配そうな声をあげるからどうしたの? なんて答えながら。

 ぽっかり空いた心を疑問に思いながら、私は日々を過ごしていった。

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