何気ない日常

市之瀬 春夏

ひとつめ

 初めから、飛べる訳なんてなかったんだ。

 そんなことに気づいたのは窓の外に飛び込んでからで。私の姿に気づいた母は急いで私を抱え込もうとして失敗した。一瞬だけ動揺したのが体にも現れていたのが原因かもしれない。それでもその時私が感じたのは空虚だったから。母のことを気にする余裕もなかった。それに飛べると思っていたから着地を考えているはずもなくて。そのまま草むらにダイブした。


 結果足の骨が折れた。静かにズキズキと痛む足なんて気にする間もなく母に怒られて。そうして感じたのはやっぱり虚ろな気持ちだった。

 わかるはずなんてなかった。今でもわかりたくすらない。私の当たり前だったものに飛べることが入っていないのは。私は飛ぶのが当たり前で、飛ぶ時に感じる快感のためだけに生きていたのだから。それ以外のものなんて興味もない。興味もないから、ただ空っぽな自分だけが増えていく。


 それでも今はやらないといけないことがある。学生という今の時期はそれが勉強で、良い成績を取らないと単位が取れない。周りが必死にこなすその中で、私は難なく成し遂げてしまった。やっぱり自分は空っぽなまま。


 空っぽなままの自分に友人がゲームをおすすめしたので始めてみた。

 物語というものは存外興味深くて。昔はこういうものなんて持っていなかったから、面白いといいななんて少しの期待を持って始める。何の因果か、そのゲームの内容は空を飛べる女の子が主人公だった。

 始めてやってみたはいいけど、どこか違和感が頭の中に押し寄せてきて最後まで進めることは出来なかった。違和感、というよりどことなくソワソワする。

 ーーそうして気づいた気持ちに、申し訳ないと謝ってからゲームを返すことにした。


 空を飛びたい。ゲームの中の彼女みたいに、自由に綺麗な空の中を飛びたい。耳に聞こえてくる風の音や、飛ぶ時に感じる風に当たりたい。それだけが、やりたい。

 それは今の私にどう頑張ってもできなくて。ただそのことだけが心に残って何かに手をつける余裕などなかった。

 この記憶が無くなればいいなんて思わない。ただ私は、真っ青な空の中を飛びたいだけなの。

 そんなこと、出来るわけないのに。そう言って夢の中で嘲笑った私は私の背中に付いている翼をもいで沢山踏みつけていた。


 ずっと、私の心は空っぽのまま。


「お嬢さん、願いを叶える林檎はいかが?」


 何気なく通った路地裏で、そう声をかけられる。

 最初は少し怖くて通り過ぎようとしていた。それでも後ろからこう声がかかってきたから。


「お嬢さん、翼は欲しくないのかい?」


 その言葉に警戒するべきなのに。それでもずっと翼を求めていた私はすぐに食いついてしまった。振り返った時に見えたのは真っ黒なマントを被った老婆だった。

 どこか魔女のように見えたけれど、気にせず視線を向ける。そうしたらその老婆は口元を三日月形に歪めてこう言った。


「これを食べれば、お嬢さんの願いは叶うよ。これにはそういう魔法をかけたからね」


 人間社会の都会の中で産まれ住んだのなら持っているはずの警戒心はその時の私にはなかった。ただとても欲していた翼の存在だけを考えていて。もしかしたらこの時の私は魔法にかかっていたのかもしれない。

 この老婆の言うことをただ信じるように。そんな呪いのような魔法を。


「ふふ、お駄賃はいらないからね。ただお嬢さんの喜んだ姿が見られたらいいさ」


 そう言った老婆は私の手にその林檎を握らせて、赤く光った目を細ませて促す。

 何も疑わずに一口食べて。そうして背中に感じた違和感に今度は勢いよく食べ始める。そうすれば綺麗に赤く実っていた林檎も痩せ細っていた。

 林檎を食べ終わる頃には背中への違和感が募る。違和感、というよりそれは何か異物が生まれていくような。その感覚は昔と変わらなくて。

 期待で少し後ろを振り返れば見えた白い翼に、頬を緩ませる。ああ、翼だ! 私の大好きな、ずっと追い求めていた翼だ!

 神経も通っているようだったから、昔のように動かそうとすれば難なく動く翼にニヤケが止まらない。ありがとう! お礼を伝えようとして振り返るとそこに老婆はいなかった。

 不思議な出来事に遭遇したなぁ。

 そんなことを頭に思い浮かべ翼を一度大きく振る。そうすればふわりと浮いた体にワクワクが止まらない。またもう一度振れば、今度はもっと身体が浮いた。

 そのまま、ただ夢中になって体を浮かせる。いつの間にかすぐ近くにあったはずの路地裏はなくなっていて、周りには綺麗な青や白が広がっていた。

 楽しい! 楽しい!!

 ただ子供のように、昔に戻ったようにはしゃぎ飛び回る。楽しかった。懐かしかった。ーー快感だった。地上よりも遥か近くにある太陽も、手の届く範囲にある雲も、すぐ上に広がっている青空も。どれもが懐かしくて、楽しくて。同時にこんな近くで見れることが気持ち良くて。

 ああ、たのしい。もうここにずっと住んでいたい。


 そう思っていてもいずれ疲労はやってきてしまう。

 久しぶりなこともあって少ししたら疲れてきてしまった私は自宅の屋根に降りて座り込む。どこか騒がしい声が聞こえるけれど、きっと大したことではないだろう。

 少し飲み物が欲しいな。何か飲み物を飲んだらまた空の中を飛んで、ただ楽しく。


 ーーそんな矢先に聞こえたのは、劈くような悲鳴だった。

 どこから聞こえているのだろう。そう思って下を覗けば見えたのはこちらを見て何か嘆いている母親。

 あのこが、ばけものに。

 そんな言葉が耳に届いてきて、なんで、と声を出そうとすればリビングから出てきた父が何かを振りかぶる。その何かは頭に当たって屋根の上に落ちた。少し痛くて、疑問を伝えようとしたところでこちらを見た父の目には畏怖の色があった。

 どうして。

 そんな言葉は口から出なかった。ただ父の言葉がその場に響いていた。


「ーーバケモノ、出て行け」



 気づいた時には知らない森の中にいた。

 頭に手をやれば濡れた感触がある。見なくてもわかる。きっと血が出ているのだろう。

 木にもたれかかると乾いた笑いが出る。

 笑っちゃう。本当に、笑っちゃう。


「つばさがあらわれただけなのに、ばけものなんて」


 翼があるのは、異端かもしれない。普通ではないかもしれない。それでも望んでいたのは私で、だからあることに違和感なんてない。ただ天にも昇るような気持ちがあるだけ。

 だのに、彼らは私のことを化け物だと言った。


「わたしのゆめって、そんなにおかしいかなぁ?」


 ふと零れた言葉はきっと誰にも届いていない。だから誰にも気づいていない。


 そのことが救いで、そのことが酷く辛かった。

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