箱庭

彼方

箱庭


社会人になって数年たった頃、正確に何月何日とは覚えてないが、身の回りに緑が欲しくて堪らなくなった。


とはいえ、住んでいる築三十年のボロ安アパートの隣にはささやかながらも立派な公園があり、あまり手入れされず伸びっぱなしの雑草だとか木の葉っぱとかで緑に不足はしていなかった。それでも、本当に私の近くに、言ってしまうと部屋の中をみずみずしい緑色で溢れさせたくなったのである。

この当時、私はといえば1日の大半を会社で過ごし、家には出勤までの短いロスタイムを過ごすためだけに帰る、まさに社会に飼われた畜生略して『社畜』だった。九時間勤務プラス六時間残業で仕事のテイクアウトありの生活をしていれば、当然、植物の世話などしている暇はない。でも緑は欲しい。ならばどうしようかと考えた結果、私は僅かなロスタイムに百均へと足を向けた。

造花に雑木、砂に芝生。そして適当な透明ガラスの入れ物をいくつか。それらをバッグに詰め込んでボロアパートへと帰る。食事も取らずにそれらを机に並べたら、さあ皆が大好きな工作の時間の始まりだ。

ガラス容器に砂や芝生を敷きつめ、その上に葉っぱや花に多肉植物を、ピンセットを使い貧相なセンスをフル活用して並べていく。あるものは、乾ききった砂漠を潤す癒しのサボテン。またあるものは柔らかな芝生を守る緑の草花。

ガラスに詰めていったのは、そんな小さな小さな緑の世界。天井から煌々と見下ろす夜の光に照らされた、私だけの秘密の箱庭。私だけの。

出来立ての世界に見惚れていると、気づけば私はガラスの向こうにある小さな世界の中にいた。柔らかくもみずみずしい緑に包まれて、そこで初めて私は自由に呼吸が出来た。

そして、今までまともに呼吸も出来ていなかったことにそこでやっと気がついたのだ。呼吸という人間にとって当たり前の事なのに、なんて、なんて気分がいいんだろう。

ひたすらに緑を吸い込んでいると、カーテンの隙間から注ぐ眩しい光が私の意識を叩き起こす。いつの間にか、夜が明けていたららしい。閉めっぱなしだったカーテンをサーッと開けば、窓いっぱいに注がれる朝日が部屋に、そして私の箱庭へと朝を呼ぶ。ああ、やっぱり美しい。本物のようにみずみずしい緑が、私だけの緑で、私だけの世界なのだ。

染み渡る感激にうち震えていると、スマホがけたたましいアラーム音をならして呼ぶ。ロスタイムは終了、仕事の時間だぞ社畜、と。

社会人になってから初めて経験する名残惜しさを降りきって、私は緑から褪せた灰色の世界へと戻っていく。


外の世界はやっぱりいつも通りの灰色だった。

けれど私はといえば、今日だけで三つも社会人になってからの初めてを経験している。


一つ、仕事が手につかず進まない。

二つ、定時に退社する。

三つ、終電ではない電車に乗る。


それまでの私なら到底出来る筈もないラインナップだ。なら何故かと言われれば、頭にあったのは、早く帰って私だけの緑の世界を愛でたい、堪能したいという極めて身勝手な欲望だけだ。そこに私が造った私だけの緑があり、私を待っている。なら早く帰るしかないじゃないか。

こうして私はなんと夜の七時という驚異的な時間に、自室へ続くガタガタの玄関扉へと手を掛けていた。緑の世界が出来て初の事だから、これは世界新記録といえるのではないだろうか。

翌日も、翌々日になっても新記録は更新を続けていた。私は仕事のやり方を効率を考えて行うようにし、定時間際に割り振られるものは持ち帰らないようにきっぱりと断るようになった。定時になれば、猛禽類のような視線の山に目もくれず颯爽とタイムカードを押して帰路に着く。いつも弁当を買う自宅近くのスーパーには寄らず、まだ明るい黄昏時の道を真っ直ぐにアパートへ向かう。

扉を明けて荷物を置くと、着替えよりも何よりも、真っ先に窓辺へ行って透明なガラスの向こうにある緑色を夢中になって眺めた。そうすることで私の意識はあの小さな世界へと戻ることができるのだ。枯れること泣くいつまでもみずみずしい緑の中へと。

そして、溜め込んでいた灰色を吐ききると、今度は緑を深く深く吸い込んで、遂には身も心も緑に染まり永遠の一部となれるのだった。


そんな日々を続けていると、変わってきたものが幾つかある。

まず、味がなくなった。何を食べても、砂やゴムを噛むような虚しい感触しかない。吸い込んでいる緑には、ちゃんと甘く味があるのに。

次に何も聞こえなくなった。怒鳴っている上司の声も、煩わしい雑踏も、テレビから流れるニュースの声も。緑の世界では、草木のさざめきや愛らしい鳥のさえずりがしっかり聞き取れるのに。

私の回らない鈍い頭でも、そこで漸く理解ができた。全てが偽物の、味気ない空虚な世界でしかなかったのだ。あの灰色の世界というものは。

毎日乗る満員電車も、さ迷い歩くビルの数々も、そして会社も、どれもが絵の具で塗りたくっただけのハリボテの世界だったと。

そこで動き続ける人々もまた、模造の土台にのせられた人形でしかなく、のっぺりとした顔に表情を張り付けているだけなのだと。全てが偽物の世界で、私だけが生き長らえている。緑の世界で呼吸ができる、私だけが。


気づいた瞬間から、私は外へ出るのをやめた。本物の世界はいつだってガラスの中にあるのに、わざわざ偽物ばかりの中へいく必要はないだろう、そう思って。

私は毎日を緑の世界で過ごすようになった。そこには全てがあるから。空気も、味も、匂いも、音も、全てが私を癒し、守ってくれる。

けれど、だからこそ私は恐れていた。いつかこの緑の世界が見つかってしまうのではないか、外に連れ戻されるのではないかと。

どうすればいい、どうすれば戻らなくて済むんだろう。そればかりを考えていた。

ある時、不意に視界に入ってきたものがあった。それはスマホの充電コードで、長さは2メートルはあった筈だ。夜中だろうと鳴らされるスマホを、いつでも近くにおいておけるようにと長いものを買っていたのだ。

そしてまさにその時、天恵を得たかのような衝撃が走った。

身体が動くままにをコンセントからコードを引き抜き、今度はカーテンレールに結びつける。たらんと垂れた先で輪っかを一つこさえると、不器用ながらも形には出来た。後は実践で試すのみ、結果は自ずとわかるだろう。

輪っかに首を入れ、下を見る。窓辺に置いた小さな世界が私を見上げて、今か今かと待ち望んでいるように見えた。私も待ち遠しくて仕方ない。

すぐにいくから待ってて、私だけの世界。永遠の緑たち。


そして、私は灰色の世界から飛び降りた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

箱庭 彼方 @far_away0w0

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ