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 桜の木からは、生き生きとした新芽が顔を出していた。開花時期とはまた違った良さが滲み出る、5月の桜も好きだ。太い太い幹に近づいてみると「太白桜」とかかれたプレートがくくりつけられているのが見える。満潮が4月の半ばだったことを踏まえれば、ソメイヨシノではないことくらいすぐに考えられたはずなのだが。憶測でものを言うのは気をつけよう。そう改めて思った。


 あの日以来、放課後になるといつかの裏庭に、度々足を運ぶようになった。天野くんも同じく、いつの間にか自然と集まれる場所になっていた。


 スカートの裾に気をつけて、幹の根元に座る。さっそく数学の宿題をしていると、いつかの疑問を思い出した。


「人生に公式ってあるのかな。」


「難しい質問だね。」


天野くんはタイミングよく姿を現した。無防備なつぶやきを聞かれ、少しだけ恥ずかしくなった。


「数学みたいに定義があれば、誰もが幸せになれるかもしれないのに。」


発した言葉たちが、一語ずつ空へ消えてゆくような気がした。数学の世界には絶対があって、イコールで結んでしまえばxの値も約束されたものになる。でも、実際は測ることのできないものばかり。どれくらい正しいとか、愛情の大きさとか。そんなもの、本当は測らなくてもいいのかもしれないけれど。


 天野くんは、音のしないように丁寧にカバンを下ろした。そしてその大きな背中を桜の木にあずけ、空を見上げた。


「二人一緒なら、悲しみは半分こ、ってのはよく分からないかな。もしも定義するのなら、二乗になると思う。」


「え、もっと悲しくなるってこと?」


「そうだよ。だって、共有したって事実は変わらない。むしろそれを伝えることによって、相手にも同じ思いを背負わせてしまうかもしれない。」


「それなら、笑顔も二乗になるといいなあ」


そうすれば、二人でいることの意味を宿せるのではないだろうか。私が笑って、天野くんも笑ってくれたら、とても嬉しい。想像して微笑んでしまった。ふと、彼と視線が絡む。とびきりの笑顔の天野くんがいた。


「二乗だね。」


無邪気に笑う彼に、思わずドキッとした私を今だけは許してほしい。火照った顔を隠すように、うつむいたと同時に髪のカーテンを降ろした。


 「でも、悲しみは増えちゃうのか。」


それにしてはあまりにも儚い。だってそれは、天野くんに抱えている悩みがあったとして、私には何もできないと証明しているような定義だから。


「でも、増えてもいいんじゃない?もしも相手がとても大切な人だったときの話だけどさ。その人と背負う悲しみなら、乗り越えていけると思うんだ。」


ああ、また私の世界に、色が生まれた。言ってみれば、彼の言葉は、極端なものばかりかもしれない。でも、いつだって先入観から抜け出した広大な丘へ連れて行ってくれる。黒いモヤも、白い霧に変わる。この、心にジワっと滲んでゆく感覚が快い。


 それにしても、天野くんはどうしてこんな風に考えられるのだろう。彼の言う「大切なひと」は誰だろう。家族、友達、あるいは・・・。


 答えが浮かんだとき、全てが一続きになっているように感じた。繋がっていない空の下、会いたいひととは。一緒に悲しみを背負えるひととは。これ以上考えれば、今までの色たちがグレーに染められるのは時間の問題だ。ここら辺でやめておこうか。いや、駆け出した思考は働き続ける。電流のように一ヶ月間を駆け巡る。


「市川さん?」


明らかに困惑している私。その様子を察してか、天野くんが声をかけてくれたが、さらに進む憶測に抗うことはできなかった。


 私は一体、いつから欲張りになったのだろう。天野くんと一緒にいることが日常に変わって、完全に依存してしまっていた。どうしてもっと早く、気づけなかったのだろう。手遅れになる前に、抜け出せたはずだった。今に酔っていた私のせいだ。


 天野くんには好きなひとがいる。たとえ、いなかったとしても、私には私の人生があり、彼には彼の人生がある。今後、私の望む未来と彼の望む未来は食い違って行くだろう。だって、友達じゃいられない。そもそもなんだ?この関係は、なんだ?そこまで考え、一旦冷静になった私は一番傷つかない方法を思いついた。


「永遠の証明って、できるのかな。」


「永遠?」


「さすがに天野くんもできないよね。」


鼻がツン、とする。涙腺がゆるんだのを悟られないよう、うつむきながら、便利なカーテンを引いた。


  散らかしたプリントを片付け、カバンを肩に提げた。


「じゃあ。」


天野くんに背を向けたまま、校門へ向かって歩き出す。彼が呼び止めてくれるのを期待していた。私は無事、裏庭を後にした。


 永遠の証明は、最後の議題としてふさわしかったと思う。永遠なんて、絶対にないのだから、答えなんて存在しない。幸せな時も、長くは続いてもいつかは終わる。


今日新しく芽吹いた命も、生を受けた瞬間から死へ向かう。生死を繰り返すことで、この地球は回っている。何事にも終わりがあって、ただそれが早いか遅いかの違いだ。私にとってその時が、今だったというだけ。それだけのことなんだ。


そして、頭のいい天野くんだから、きっと気づいてくれる。あの問いが意味することを。

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