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 学校の終わりは一日の終わり。そのくらい私の生活を占めているのが高校だ。定時に登校、帰宅、明日の予習復習そして宿題。これらを休むことなく繰り返してきた。まるで高校生にしてサラリーマンのよう。実際、高校生のモットーは「無遅刻無欠勤」これに限る。毎日通えば、勉強から離れることもない。そう私は思う。


 ところで、地元周辺で偏差値の高いと言われている公立高校がある。小学校からずっと一緒だった友達の多くはそこを受験した。私も第一志望にしていたのだが、桜は散ってしまった。そして、滑り止めにしていた私立高校に入学したのだ。しかし、誰一人として知り合いはいなかった。


 入学したての頃は、自分から輪の中に入ろうと努力していた。でも、私は気づいてしまった。みんな、私から誘わなくてもお弁当を一緒に食べるグループがいる。


そして、一人にならないために入れてもらおうとしたグループの人たちは、私には合わない。おまけに私のことを快く思っていないことがバレバレだ。その証拠に、昼休みのベルと共にそそくさと私には何も言わず購買へ向かうのだ。出会って一週間もしないうちの出来事だった。私はその意味が分からないほど馬鹿になれなかった。そして一人になった。


 改めて現状を整理すると、勉強が手につかないほどブルーになってしまった。でも今日、何かが起こった気がする。


 学習机の照明だけが灯った簡素な部屋は、なんだか今の私とよく似ている。数学の問題を解いている最中に、一度静止したシャープペンが再び動き出した。そのとき、桜の木が浮かび上がった。


「市川夏月、天野満・・・。」


数式の下に並んだ二つの名前。天野くんの横に並ぶのは恐れ多いと、消しゴムを持った。その瞬間に、彼のつぶやきが脳内をこだました。「夏の満月と、天の川。」


それって、もしかして・・・。


「私と、天野くん?」


それぞれの名前を並べ変えると、驚くくらい素敵な情景がひろがった。


「夏の満月。天の川。」


本来、満月の光は星の輝きを奪ってしまうのだが、そんなことはどうでもいい。人は想像において自由だ。論理がいくら否定しようとも、心に響けばそれでいいのだ。


 胸にジワリ、と熱いものが流れ込んだ。しかし、その熱はすぐに冷めきった。私は、あの時の天野くんの笑顔を裏切っている。途端に罪悪感に見舞われた。私は「ナツキ」なんかじゃない。


 「では、練習問題4ですね。えーと、次の四次方程式を解け。この問題は、ええっと初めに因数分解を・・・・・。」


カッカッカ。チョークが黒板を打つ。数学担当の教師は、新任だからか、説明はぎこちなく、まるで黒板や教科書に向かって話しているようだ。本来向き合うべき相手は生徒なのに。


 授業も残り十分になった。しかしその十分が長いのだ。そもそも数学ほど役に立たない授業はないと思う。人生に公式なんて当てはまらないのに。そんなこと言ったら、天野くんは全てを覆してくれるだろうか。彼はなんて答えるだろう。そんな疑問が胸の奥、渦巻いた。今はそんなこと考えたって仕方がない。それに、また会えるかも分からない。私は頬杖をつくのをやめ、再びシャープペンを走らせた。


 昨日の夕焼けには、もう二度と出会えない。教室から眺めている空には、ポツポツと雲が浮かんでいた。雲一つ取っても、白だったり、ピンクだったりと、様々な色にあふれていて面白い。見つめているうちに、水蒸気の塊である雲にも、影が存在することに気がついた。


 今日はもう少しだけ、空を眺めていたい。物思いにふけるのは好きだ。普段は決して考えることのない、心のつぶやきが漏れるからだ。


 また裏庭に行けば、天野くんに会える気がした。その途端にハッとした。すぐに首を横に振り回し、我に返った。必要以上に人と関われば、傷つくだけだ。それは今に始まったことじゃなく、中学時代もそうだった。だから天野くんのことは忘れよう。同じ過ちを繰り返さないためには、同じ「過ち」をしなければいいだけのことなのだから。


 そろそろ帰ったほうがいい。持ち上げたカバンが、いつもより重く感じられた。確か入学祝いに、お父さんに買ってもらったものだ。こんなはずじゃ、なかったのにな。


 廊下にだいだい色の淡い光が差し込む。うつむきながら進める足は嫌いだ。気になるものが、いっぱい。遠くの方から聞こえてくる、笑い声とか。通り過ぎてゆく、人の影とか・・・。その中で一つくらい、私を求めて駆けてきてくれてもいいはずなのに。


 ほら。そんなことを考えながら歩くから、また桜の花びらを見つけてしまう。今度は私の足元に落ちていた。拾ってあげようかな。いや、やめておこう。今思えば、昨日天野くんと私を引き合わせた犯人は、この花びらだ。事件に加担したのは春風と、夕焼けだ。渡り廊下で共犯者を睨みつける。ああ、今日も見とれてしまう。100%のオレンジジュースみたいな、まっすぐな単色。


 そういえば一度、結局入ることのできなかったグループの子たちを、一度試したことがある。出会って3日目の時に、下の名前を再度聞かれたとき「ナツキ」と答えてみせた。すると、誰一人として疑うことなく、その場の「ノリ」で「可愛い名前だね」なんて。彼女たちが覚えているわけないことは知っていた。出会って間もないし、私のことなんて初めから興味なさそうだったし。入学して2週間弱。私は今日も、ナツキちゃん。


 しまった、と思った。また夕焼けに足を取られていた。我に返ったときには、目の前に天野くんがいた。私のように、夕焼けを見つめている。一体いつからそうしていたのだろう。


 忘れようと今日誓った人が、すぐ隣りにいる。でも、今なら何もなかったことにできる。平穏でいられるし、何より傷つかない。私は瞬時に冷静さを取り戻した。


 軽く会釈をし、男子生徒の横を通り過ぎようと足を踏み出した。


「綺麗だね。」


人気のない廊下に、昨日と変わらない柔らかなテノールの声が響く。主語も、目的も、何もない。私はこの場を去ってもいいはずだ。それなのに、天野くんは私を留めさせる。


「でも、昨日のは格別だった。」


昨日の夕焼けがフラッシュバックした。もう二度と戻らない、二層が作り出したあの色は・・・。


「ピンクオレンジ。」


私は無意識のうちに、そう呟いていた。


「ピンクオレンジ・・・?ほんとだ。しっくりくるね。」


もう、この場から逃れることしか考えられなくなった。天野くんというひとが、昨日と今日で分かってしまった。彼は本当に、純粋なひと。疑心暗鬼になり、名前を偽っている私と比べものにならない。よって、私たちは並んではいけない。彼のイメージが悪くなる。何より私自身、いたたまれない。


「晴れない空って、ないと思うんだ。」


まるで、私の心を覗いたかのよう。なんでも知っているような言い草に、反論したくなった。


「どうかな。何度だって雲は流れ込むよ。」


「じゃあ何度だって、晴らせばいい。」


嘘だ。誰もそこまで付き合いきれない。


「大雨には勝てないよ。」


「傘をさせば?」


天野くんのまっすぐな瞳は、さっきの夕焼けのよう。淀みのない純真さをまとっている。それなのに、私は・・・。


「確かに最近の傘は進歩したみたいだけど、酸性雨は防げないよ。」


「塩基性の雨雲を作って、中和させればいい。」


たった今、完全敗北を味わった。もう何も言い返す気になれなかった。勉強までできるなんて。きゅっと唇をむすんだ。


 天野くんが話し続ける限り、私はこの場を去ることができなくなった。敗者に権利は無いからだ。そんなトンチンカンな口実で、まだ一緒にいたいだけなのかもしれないけれど。


「僕さ、空って繋がってないと思うんだ。」


あからさまに首をかしげてみせた。だって、天野くんが悲観的なことを言うはずがない。短期間で決めつけるのは大いにどうかと思うけど。


「空の青さって、場所によって違うらしいよ。それなのに繋がってる、って考えが定着してるのはどうだろう。」


色で判断するのであれば、彼の言葉は頷けるかもしれない。考えてみれば、青空だけでなく夕焼けだって、同じ色を共有できるのはこの場所しかない。そして「僕らは同じ空の下」という言葉は、そうであってほしいという願いのもと親しまれているのかもしれない。


「でも僕は、繋がってなくてもいいと思うんだ。」


「どういうこと?」


得意げな顔を見せることなく、彼は淡々と答えてみせた。


「同じ空の下にいたら、僕は遠く離れたひとに会いたいと思えない。違う空の下にいるからこそ、会えることが特別なんだ。」


彼の穏やかな声色は、心まで浸透していった。なんて素敵なんだろう。目の前にいるこのひとは、別世界から来たひとみたいだ。昨日舞い降りた花びらと共に、やって来たのだろうか。


 「僕と市川さんは、類似的であり、対称的な色でもあるね。」


「矛盾してない?」


そんな色、あるだろうか。頭を回転させて、必死に考えをめぐらせても浮かばない。そもそも類似の対義語は対称なのだから、いくら探しても見つかるはずがない。


「こんな世界だけど、愛し方はあるんじゃないかな。こうやって、自分だけの答えを見出せばいい。」


ああ、天野くんも、一緒なのか。恐れ多くも、根本的な面で一致しているのだ。そして違いといえば、私はあらゆることに対して消極的になっているだけ、ということだ。


彼は、誰もが一度は考えるような、世界の闇・無情さを認め、受け入れ、前に進んでいる。そしてこの言葉によって、彼の「本当」に初めて触れられた気がした。


 私も、彼のようになれるだろうか。今差し込んだ光を逃してしまえば、私はずっと、意味のない憎しみを抱え生きて行くことになるかもしれない。私の「本当」は希望を欲していたのだ。

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