ピンクオレンジ
和泉ハル
1
たとえばこんな空だった。地平線の向こう側、縹色と薄紅色が層になった夕焼けが燃えている。二つの色が重なり、また新たな色を生み出していた。
言葉で表すなら「ピンクオレンジ」という表現がぴったりだ。完全に再現することの出来ない色たちが瞳を包む。
今この瞬間に魅せられて、校舎の窓越しに見える景色が染まった。水彩画のように、滲む、滲む。
風の誘いを受けた桜の花びらが一枚。少しだけ開いた窓の隙間から、夕日に照らされ黄金色に染まる廊下に降りたった。私はその一部始終を、無意識のうちにじーっと見つめていた。ほんの些細な出来事のはずだった。
でも、このとき私は、花びらとともに、胸の中へ何かが吹き込まれたような感覚にとらわれた。まるで、今か今か、と春の訪れを待ちわび、極限まで蕾をふくらませる桜になった気分だ。
私は「ん?」と周りを見渡した。この辺りに桜は見当たらない。ここは二階の渡り廊下だ。一体どこからやってきたのだろう。そもそも、この花びらを運んだ風は、どこからやってくるのだろう。
潰さないように、優しく花びらを摘んだ。そして、頬を撫でる春風の吹く方へ、導かれるようにして歩き出した。
上履きを汚さないよう犬走りを歩いていると、生徒玄関から一番遠い、校舎の裏に辿り着いた。私は地面に踏み出した。まるで時が流れるように、目の前に構える大きな桜の木に引き寄せられていた。
首を目一杯、空へ持ち上げた。でも視界に映ったのは空ではなく、満開の桜だった。
ソメイヨシノだろうか。その花びらはピンクというよりも白に近く、純白よりも優美に感じられた。黒茶色の太い幹と花びらの集合体からは、圧倒的な存在感が漂っている。
まるでこの地球における自分の存在が、いかにちっぽけであるかを思い知らされるようだった。ずっと指で摘んでいた花びらを、桜の木にかざした。同じ色だ。
チラチラと雪のように降り続ける桜を、しばらくの間眺めていた。いや、眺めていたというより、目が離せなかった。
桜たちは冬の間、春を心待ちにしているのだろうか。開花期間は一ヶ月にも満たないのに、毎年必ず花を咲かせる。
全て散らし、新芽を出す。青々と茂った葉は色づき、やがて枯れ落ちる。そのサイクルに意味はあるのだろうか。
「散りゆく運命と知っていながら、どうしてあなたは咲くのですか?」
桜に声があったら、どんなに良かっただろう。答えなんてどうでもいい。ただ、桜に花を咲かせる理由があるのなら、私にも生きる理由が絶対あると思う。少しでも桜が頷いてくれたら、私は今から駆け出して、その理由を探しに行くのに。もしも理由が無かったら、今までの歳月が灰になってしまう。
私が生きていくためには、酸素や食べ物と言った動物的なものより、その理由が必要なのだ。
「散りゆく運命だからこそ咲くんじゃない?」
透き通ったテノールの声が耳を掠めた。一瞬、桜がしゃべったのかと錯覚した。
私のセミロングの髪が、柔らかな追い風に包まれる。振り向くと、長身の男子生徒が桜を見上げていた。
少し残念に思ってしまった。もしそこに誰も立っていなかったとしても、私は驚かない。桜の声を風が運んでくれたのだと納得しただろう。
彼の言葉を人間に置き換えると「私たちはいつか死んでしまうからこそ生きている」になる。
私は今、いつか必ず息絶えるという宿命の中、生きている。死んだら何が残ると言うのだろう。全て消えてしまう記憶なら、無意義ではないのだろうか。
「どうせ散りゆく運命なら、僕は短い命を精一杯燃やし続けたい。」
桜は散るから美しいのかもしれない。そんな考えが、胸にスッと入ってきた。
花びらを散らすこと。新芽をだすこと。落葉すること。枯れ、果てること。
それら全てが生きている証で、彼の言葉を借りて言えば「命を精一杯燃やす」ということなのだろう。
「何年もかけて成虫になるのに、たった一週間で終わるセミの一生を、僕はどうしても無意味だと思えないんだ。」
それは、どんなに短い命にも意味がある、という意味だろうか。もしかしたら、都合のいい解釈なのかもしれない。
だけど、それでもいいとまで思ってしまった。私が生きていることにも意味がある。どんな形であれ、この答えにたどり着くことができればそれでいいのだ。
私はこの時、初めて男子生徒の顔をしっかりと捉えた。ネクタイの色がネイビーということから、同級生だということが判明した。
風に撫でられ、さらさらと揺れる彼の髪は美しかった。
初対面にもかかわらず、彼に興味を持ってしまった。名前が知りたいとか何組なのかとか、そういったものではなく単に「彼の人間性」に触れてみたいと思った。
直感かと聞かれれば、そうなのかもしれない。私は素直に、彼に惹かれていた。彼の心を映し出す、その「世界観」に。
その一方で、彼の言葉に対して何も抗議できなかったことが悔しかった。
何より、彼の内面の素晴らしさが私をより汚い人間にしているような気がして
恥ずかしさと情けなさで、いたたまれない気持ちになったのだ。
残念ながら、私の世界に輝きはない。
私の視界に映るものは、どれも淀んでいて色のないものばかりだ。
だからこそ、ないものを持っている彼に、彼の心に惹かれたのだと思う。
「名前は?」
ずっと桜を見つめていた男子生徒が、視線を私へと移した。
突然のこととはいえ、一瞬返答に迷ってしまった。
私は瞬時に冷静な態度を装った。
「ナツキ。市川ナツキ。」
彼を見据え、ちゃんと言えた気がする。無表情の彼は、私が見せた一瞬の戸惑いを気に留めてはいないようだ。しかし、ホッとしている暇はなかった。
「なんて漢字?」
そこまで聞かれたのは初めてだった。
「夏の月って書いて、夏月。」
そう言いつつも、自分自身に言い聞かせているようにしか聞こえなかった。私は一体、誰と会話をしているのだろう。
「月・・・。」
うっかりしていたら聞き逃してしまうくらいの、か細い声だった。彼は少しの間、考え込むように、再び桜に目をやっていた。
それにしても、私のことを知って何のメリットがあるのだろう。家柄は至って平凡で、容姿だってお世辞にもいいとは言えない。勉強やスポーツに特別秀でているわけでもない。
総称して言ってしまえば、何の取り柄もない女子高生である。そして、人としての利用価値もないと思う。
それなら私は何者であれば良いのだろう。生きる理由を知る以前に、私が人間であることさえも分からなくなってきた。
「夏の満月と天の川か・・・。」
男子生徒の突然のつぶやきにポカン、とした。桜と全く関係がないので、何について言っているのか考えるのを放棄した。
彼はというと、難しい計算式を解いた子どものように、とても嬉しそうで、喜びがはっきりと伝わってきた。
「俺は天野ミチル。満月の『満』って書くんだ。」
私がキョトンとしていると、彼は春風のごとく、ふわりと微笑んだ。
たとえばこんな空だった。彼と出会ったあの日、私の世界が彩った。思えば彼に惹かれたのも、彼には色があったからかもしれない。私にはない、色が。
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