第57話

「ただ俺はここにいる」


 確かに俺はキメ顔でそう言った。


 勢いを付けてブランコから飛び降りた子供のころの感覚を思い出していた。滑り台を逆走で駆けあがるような、上り坂をゆっくりと上るジェットーコースターを置き去りにするような高揚とともに頂点に達した。


 プライベートジェットに乗ってるような自称青年実業家たちはこんな気分をいつも味わっているんだろうか。


 いや、どうでもいい。


「ここは俺だけのプライベートスカイだ。来れるもんなら来てみろよ」


 青空にくるまれてあえて口に出した。


 だがそのあとは。


 落ちるだけ。


 ねずみと仲良く喧嘩する猫のように。


 ここに居続けることは俺の意思ではかなわない。


 飛び出したときのエネルギーを位置エネルギーに変換して使い果たした。俺の身体は頂点で一瞬の静止。そして加速をつけて落ちていく。


  さっきから麻の鞭を伸ばそうとはしている。重力と加速の力になす術がない。せめて俺を蹴りで沈めた若造のキルモンにぶち当たれればちっとは悔いなく死ねるだろう。だがそれもかなわない。鞭が伸ばせなければ方向転換もかなわない。


 動こうとはしているが空気の抵抗か重力か加速か知らないが完全に力負けしている。それに風圧で目がまともに開けられない。寒いだか暑いんだかもわからない。


 俺の魔法はそれほど都合よくはないらしい。魔法が使えるようになってから真剣に困ったことなどなかった。それを当たり前のことと感じ、自分の魔力がどれくらい持つか試すことさえしなかったのは俺の怠慢だ。いや、魔法に限らず限界まで苦労したことなんてなかったのかもしれない。


 この異世界に来ても、粗末だが食事や寝床も、言葉が通じない異世界にあって話し相手さえあっさりと手に入れた。日本にいたころに比べれば遥かに幸せだ。


 だがそのことが日本での暮らし以上に自分自身について深く考えることを妨げた。不幸を感じていればいろいろ考えただろう。だが今思えばここで幸せだったのだ。ありがたみを知ることなくただそれを享受してきた。


 いや、もう考えることに限界が来ていた。しかもそれは自分では考えているつもりで古傷と不安を反芻してきただけにすぎない。変化は起こせない。


 今ならわかる。どこかで俺は自分の実態を知ることを恐れていた。ただ俺は本気を出せば何かすごい力が発揮されて、一発逆転、大器晩成を成し遂げられるという夢を見続けてきた。実態を知った上での選択なら求めた結果を出せなくても納得はできただろう。さっきまでの解放感はどこへやら俺は恐怖にかられ両手を股間に伸ばし胎児のように丸まっている。


 俺の本体も事の重大さに気がついたらしく縮こまっていた。痛みを感じる暇もなく死ぬであろうことだけが救いだ。ああ、せめて俺によくしてくれた全ての人に感謝を伝えたかった……


 確か落ちれば落ちるほど加速していくはずだ。ますます手の施しようがない。ああ。くそったれ、何が自由落下だ。どこにも自由なんかねえじゃねえか。


 走馬燈が始まった。むかしむかしあるところに俺がいたってわけか。そういえばそんなタイトルのハリウッド映画を気に入り繰り返し観たな。ワンス アポナ イン なんとかって奴だった。いつも思い出せない。


 だめだ。心踊らせた映画の記憶よりもわずかに苦い記憶が立ち上がる。


 高校時代の物理の実験の授業が思い出された。雨が降っているのに蒸し暑くて汗だくだった。梅雨の時期だったと思う。時代のせいか予算の都合か教室にエアコンなんて設置されていない。そんななか二人一組で一緒に実験した女子のことが思い出される。


 やせぎすで黒髪を三つ編みにして眼鏡をかけた文芸部に所属していた学級委員長だ。口元に産毛が見て取れる。まとめられた緑の黒髪。一本一本が太く堅そうだった。言ってしまえば垢抜けない地味な少女だ。クラスで地味な男子として存在していたくせに俺は一緒に実験をする相手として不満を抱いていた。


 地元じゃ真面目とされる学校にもギャルや派手に遊んでる奴らはいる。同じ女子の髪でも染められ明るく柔らかく見えるギャルたちの髪とは異質なものに見えた。制服の着こなしも当然違った。俺は奴らがワイワイと騒ぎながら実験しているのを横目に粛々と実験を繰り返した。


 自由落下させる実験器具から手を離すのは委員長の役割だった。成長を見込んだのか、やせぎすの小さな身体にぶかぶかの制服を着ていた。夏服で半袖で高校一年生だった。その細い腕に青い血管がみてとれた。そこに汗の粒が複数浮いていた。あっけなくハンカチで拭われた。なにか幼いころにシャボン玉がはじけた時のことを思い出した。


 彼女が小さいとはいえ実験器具を持たせることに躊躇いを感じた。俺がやると伝えたが実験器具をキャッチする自信がないとのことだった。そして、実験を繰り返す中で偶然見えた制服の袖の奥。彼女の脇の下。


 雨に濡れ匂いたつ新緑と若芽の繁みとおぼしき生命力がそこにはあった。


 知識はあっても現実だとは思えなかった。初めて見た。心惹かれた。芸術だと思った。画家の名前が頭に浮かんだ。何か話さなきゃと思ったことは覚えてる。


「あれ? モジャ? ミシャ? モジャリアーニ?」


「え? 何かの法則?」


「あ、ごめん、ごめん。画家の名前が気になってどっちだったかなって」


 さすがに慌ててとりなした。


「どうして急に……」


「いいから、いいから。何でもないから。ほんとに。ほんとに」


 俺は自分のことしか考えていなかった。どうしようもなく俺の本体は反応していた。何かで刺激を受けたら暴発しかねなかった。気づかれたくなかった。


「え、なに? なになに? 委員長ちゃんのどこがモジャモジャだってー?」


 いつの間にか傍にいたギャルの声が理科室に響いた。視線が集まった。


 委員長は耳まで真っ赤にしてうつむき震えた。その太く長いまつ毛の間に小さく透明な玉が見えた。何も言えなかった。実験どころじゃなかった。ただ委員長とギャルを交互に見た。委員長は俺に実験器具を投げつけた。担当教諭が何かを言った。彼女は駆け出した。教室から飛び出した。その背中をただ見ていた。


 教諭はトイレは休憩時間に済ませておくように言った。教室には笑いが起こった。授業は続けられた。曖昧な笑いを浮かべて周囲の奴らを見た。居心地悪くて実験器具を拾いあげた。彼女のまつ毛に絡んだ滴を思い出した。金魚鉢に沈められたビー玉を思い出した。鎮まるどころか荒ぶった。


 自分に罰を与えたかった。翌日委員長は何事もなかったかのように登校してきた。いじめに発展したりは

 しなかった。ただ委員長は休憩時間は文庫本を読み、昼休みはどこかに消えるようになり、俺は俺で昼休みになると屋上に忍び込み食事を済ませると煙草を吸うようになった。


 喫煙は勃起能力を低下させると何かで知った。教師に見とがめられても構わなかった。


 思い返せば俺が発言に慎重になったのはそのころからだったかもしれない。


 もちろん委員長は今頃はそんなことも俺のことも忘れてどこかで誰かと結婚して子供を産み育てて立派なおばさんになっているのだろう。


 俺も思い出したからって当時のように自己嫌悪に陥ることはなかった。俺はそういう生き物だったなと自然と受け入れた。死ぬ前に気が付けてよかった。


 それではみなさん。お元気で。さようなら。













 覚悟を決めた時だった。


「おじさまぁっ! 起きろぉっ!」


 サトミの声だった。死ぬところは見せるべきじゃなかいよなと今更ながら思う。


「気付けをあげたでしょぉ! 起きてぇー!」


 ああ、あのニンニク臭いの。それだったのか。なんだ、優しいな、サトミ。そういやサトミも脇の下には自然に生えているものがあったな。他の女の脇はみたことないから不明だ。だが日本とは風習が違うんだろう。日本出身のマイを除いて、この世界の女はきっとみんながモジャあるいはモジャリアーニ…… ということか。


 ふと小学生のころに観た教育番組でみた種子の発芽の記録映像が頭に浮かんだ。俺の芽吹きだ。


 委員長の新緑の若芽の息吹をうっかり見た時のように。俺の老木は若芽のように。


 念のため俺の本体の空冷式のエンジンに手を伸ばす。 うん、伸びきってる。寒くもないし恐れもない。


 言わずもがなでビンビンなバッテリー。


 なるほど。ここに来て俺の火が点きやがったってこったな。


 いつだって俺の心に火をつけるのはモジャだ!


 あ、違う違う。


 仲間だ!


 ……


 いや、女です……


 まあ…… それが俺って男ってこと。


 思い返せばひらがなを読めるようになったころから看板に書かれたおこと教室をおとこ教室と読み違えてここでおとこを学ぶ女の人たちを妄想して一人でヒヤヒヤドキドキしてたもんだ。生来の女ずきなのだ。

 それが罪なわけじゃない。もうつまらないことは考えずにサトミの期待に応えたかった。


「おじさまぁっ! 早く! 固く! あれを伸ばしてぇ!」


「応ともよ!」


 とにかく伸ばした。鞭の柄の竹を。びっくりするくらい伸びた。重みにたわんで先がしなる。バランスが崩れた。その先端が何かものすごい力で押し流された。竹を必死でつかむ。直後冷や水がぶっかけられた。気が付くと西部劇で馬に引きずられる男のような格好だった。


  そしてウォータースライダみたいに水の上を橋を横切るように滑っていく。すぐそばを通っていくものがあった。跳んできた方向を見る。濃い霧が覆っていてよく見えない。だが炸裂する火花が見えた。きっときっと銃器だ。


「クソったれっ!」


 俺は悪態をつくと腕の鞭を振るった。銃器に届いたかどうか確認する間もなく俺は滑っていく。だが奴のにやけ面に鞭を巻きつけるイメージだけは続ける。首を振ってサトミを探した。だがサトミどころか馬も見当たらない。


 やられちまったか?


「って、途切れてんのかよっ」


 橋を横切ったあたりでうをーたースライダーは滝のように直角に落ちていた。そのことに落ちながら気が付く。鞭を欄干に伸ばそうにも何かに引っかかって動かせない。状況がわからない。


 ドゴーン。


 俺がさっきまでいたあたりから大きな音が轟いた。振り子のように俺の身体が大きく振れ始める。橋の下にくぐるような恰好で身体が降られていく。このままだとどこかで揺り返しがくる。大きな音が気になる。むしろ鞭を伸ばせるだけ伸ばして反対側から橋の上に戻ったほうがいい。


 目測しながら鞭の長さを伸ばしていく。思った通り橋の反対側で鞭があたりそこを支点に俺の身体は上がっていく。空中で漂う大波と欄干の間を通って橋の上に来た。


 霧は晴れていた。サファイアを見つけた。大柄な女が俺に気がついた。キルモンが滑るように俺のほうに向かってくる。俺は女の操縦席に向けて竹を伸ばした。棒高跳びの要領で女の頭上高く越えた。


 言ってやった。


「ギャザリングのつもりぃ?」


 その言葉を女に残し、俺の身体は見事サファイアの操縦席に到達していた。何を言おうと思ったが戸惑った。目測を誤った、というよりは直接ぶつかってサファイアを怪我させてしまうことを恐れた。目指していたのは壁ドンだった。


 だが、俺の目の前には操縦席の風防にあたるであろう場所。ガラスが使われているのか俺に見えるのはうっすら反射する俺の顔。そしてサファイアが、いやサファイアのおでこは俺の本体とフルコンタクト。


 つまり、俺の本体はつぶれた蛙のようにサファイアのおでこに押し付けられている。


 擬音でいえば、そう。めめたぁ〜。


「チェックメイト」


 とりあえず気取って言ってみた。


 反応がない。これくらい平気なのか。やむ負えない。昨日の態度にムカついてもいる。だが敵対的な態度で刺激しないほうがいい。紳士的に嫌味の一つも言ってやる。


「あまり人を馬鹿にしてらっしゃると、あなたの天の岩戸みたいなおチャクラこじ開けて、脳みその中で私の一億総おたまじゃくしたちにブラウン運動させますわよ?」


 英語が聞こえた。俺の後ろからだ。振り返ると馬に乗ったサトミがいた。目が合った。うなずき合った。そしてサトミは言った。


「さすがだ、おじさま。これでこいつらも降伏するだろう」


「ああ。ところでなんて言ったんだ。そろそろ俺もこの子から離れないといけないし……」


 サトミはキメ顔でこういった。


「おじさまの言ったことをこいつらの言葉に訳した。ほらその小娘震えてる」


「え?」


 俺は慌てて腰を引いた。サファイアは両手で顔を覆い震えている。


 煙草を吸いたい、久しぶりにそう思った。

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