第56話 覚醒

 サトミを先頭に馬群は蹄の音を轟かせて橋を駆けてくる。サトミの周りを固めているのはサトミと似たような恰好から犬族の仲間たちと見て取れた。その後ろから歩いてついてくる住人たち。


 まずはサトミと対話が必要だ。サファイアがどんな魔法を使ってくるかわからない上に奴らは銃を持っている。サトミたちが魔法を使うとは言えこのまま突っ込んでいったら被害は甚大だろう。


「止まれぇっ! 止まるんだぁっ!」


 俺は欄干から橋の上に飛び降りて両手を大きく振った。馬群は勢いを止めない。昔、何かで見たドラマの一場面が思い出された。


「僕は死にましぇん! あなたが好きだからっ」


 惚れた女に自分の気持ちを伝えるために、いきなり車道に飛び出し走ってくるトラックの前に立ちはだかったドラマの主人公。ぎりぎり目の前でトラックが停止し命を落とすことはなかった。


 これはドラマじゃない。このままここに突っ立っていたら馬に踏みつけられて頭を打ったり内臓が破裂して死ぬだろう。仮に生きていたとしてもあとからついてくる群衆に踏みつけられて死ぬ。ここは人の命が軽い異世界。


 知り合ってひと月も経たないサトミのためになぜこんな危険な真似をしている? サトミだって危険は承知で決断したのだろう?


 きれいごと抜きで素直になろう。


 もっと切羽詰まればきっと俺は馬から逃げ出す。どこかでサトミが止まってくれると甘い期待をしている。本当に命がけだとは思ってない。俺がそんな高尚な人間なら日本にいたとき女子社員がセクハラされている現場に居合わせたときにもっと早く動いたはずだ。


 未来予想図がさっきから俺の頭でスライドショーみたいに映し出されている。


 例えばここでサトミを説得してあとから「あのとき止めてくれてよかった」と笑顔で感謝される。


 ミケから「私の仇をとってくれてありがとう」と笑顔で言われる。


 マイに「おじさんホントに一回公開処刑でも見たら?」と笑顔で言われる。


 ミシェルに「言いたかったです。あなたは死なないわ、私が守るものと」と笑顔で言われる。


 イレーザに「やっぱりおじさま。百人乗っても大丈夫」と笑顔で言われる。


 そうだ。


 俺は知らず知らずのうちに他人に、それも女たちにこう望んでいたんだ。


「ガキの頃から足の速さでもドッジボールでも教師の体罰にもカラオケの得点でも。受験に就活に出世競争でも敗け続けてきたんだっ。だけど女子供は必死で守るからっ。わりと本気で死んでも守るって思ってるからっ。だから俺が生きてることを許してくれっ」


  自分の気持ちをわかってもらうのに必死なだけだった。道理であの女のやっていたことを見抜くこともできなかったはずだ。俺は結婚までしていながらあの女自身を見ようとしなかった。


 見つめあうのが恋人、同じ物を見るのが幸せな結婚。そう自分に言い聞かせて仕事と育児しかしてこなかった。娘を目に入れても痛くないほどかわいがっていたのは本当だ。だが、それもあの男の子種だったと知るまでだ。わが子と思うから可愛かっただけで娘自身を見ていたわけじゃない。


 自分で伝える工夫も、相手がわかってくれないことを受け入れる努力もせずに、相手の気持ちを尊重しているつもりが独りよがりに相手の気持ちを決めつけていた。


 その決めつけを前提に無理を重ねて、より無茶で無謀で注目を集めることのなかで相手が自ら俺のことをわかろうとすることを期待していただけだ。


 周りの人の気持ちを考えているようで自分の気持ちしか考えていない。そんなことにも今の今まで気が付かなかった。


 歩行者にいきなり目の前に飛び出されたトラック運転手の気持ちも憎からず思っている男に目の前でトラックの前に飛び出された女の気持ちを想像することのなかったドラマの主人公と変わらない。


 相手の気持ちを考えないことに限って言えば酒場で俺たちに中指を立てて侮辱してきたサファイアたちとも変わら……


 待てよ? 本当にあいつらから仕掛けてきたのか? あのとき俺はあいつらの侮辱に気が付かなかった。侮辱されたと挑発を始めたのはサトミとミケだ。それにサトミは一人だと言っていたのに仲間がいるみたいじゃないか。それとも酒場で知り合った犬族と意気投合した?


 俺は頭を振った。


 向き合え。感じて素直に受け入れろ。考えたところで俺の妄想の域を出ない。


 認めるしかないな。


 俺が見ていたのは現実世界ではなく自分の頭の中で都合よく作り上げた世界だったことを。それは日本でも異世界でも変わらない。


 俺は顔をあげた。


 もう、目の前にサトミは迫ってきている。この距離ならサトミの瓢箪銃は狙いを外さないだろう。


 嗚呼。


 俺はこんな時ですら考えてばかりで目の前のことが見えちゃいない。


 もう逃げても間に合わない。俺は両手を広げて大の字になってみせた。せめて狙いやすくするためのサトミへの誠意か、お前は俺を撃たないだろ? という信頼を形をした圧力か、ビビってないという虚勢なのか自分でもわからない。


 開いた股ぐらを風が吹き、肝が冷える。睾丸ががせりあがってくる。その圧力は強く内臓を圧迫された気がする。吐き気はするのに何も出そうにない。口の中があふれるほど唾液に満たされていく。


 音は消えた。


 直後、風を感じた。


 目を閉じていたらしい。やけにまぶしくみえる光景のさきに馬群は見えない。力強い足取りでこちらに向かう群衆。


 振り返ると馬群の後ろ姿。馬はサトミを除いて二人乗りをしている。弓矢を背負った背中が見えることから騎手と射手、あるいは魔法使いとの二人一組体勢なのかもしれない。こうしてみると多数の馬を想像していたがせいぜい七から八頭程度。競馬の中継のほうがよっぽど迫力がある。


「ははは、だよな」


 考えてみたら俺に時間をかけてもしょうがない。避けていけばいいだけだ。銃を向けたのは脅しか。


 イレーザに約束しちまったが俺にはどうにもできない。俺は何かを断ち切るように頭を振って群衆がわの様子を見ようと首を回した。


 群衆がまだまだ俺とは距離があるところで止まっていた。声をなくし前方を観ている。目線は俺の遥か先のようだ。


「なんだ、あれ?」


 振り返ってみると電柱ほどの高さの灰色の柱が数本生えていた。そのなかに赤く染まっているものがある。見上げると上方で串刺しにされた馬の足がむなしく空を切っている。


 放り出されたのかその柱の付近では血を流し倒れながらも何やら顔の前で両手を合わせて何やら祈っているいるらしき人影とその傍で両膝をつき同じように顔の前で両手を合わせている者。


 さらに先では炎の柱が何本もあがっている。馬群はその合間を縫うように駆けていっている。


「毎度毎度さらわれる姫を亀の化け物の城まで取返しに来たんじゃねえんだからよ……」


 目の前の光景が現実とは思えなかった。異世界とは言えこんなの初めて見る。


 そこへ囂々と大きな音がとどろいてきた。音のした方、欄干の向こう側を見やる。波だ。浮世絵の風景画とか、サーフィン映画で見るような高く大きな波がこちらに向かってきている。いや、止まった。波はあちこちで浮き沈みしているがこちたに近づいては来ていない。


 何が起きたのかあたりを見渡すと群衆たちのほとんどは膝をついて祈っている。だがパラパラとその中から後方へ駆けだす奴らも見える。


 どうやら橋の上を波で洗い流そうとする魔法とそれを止めている魔法の力が拮抗しているようだ。


 乾いた軽い破裂音が連続して聞こえてきた。強い雨が傘を撃つような音。ニュース映像で似た音を聞いたことがある。おそらく銃器が連射されている音だ。


「考えろ考えろ考えろ」


 降りの中の熊みたいにうろうろとあるき始めてしまった。顔をぬぐう。掌に何かついているのが見えた。


 塗料なのか掌が銀色に染まった。それに何やらニンニク臭い。おそらくサトミに撃たれたものだとは思う。だが意図がわからない。毒の可能性も頭に浮かんだが身体は動く。


「V8の神様が犬族の神だったりして」


 かつて見た映画を思い出された。だめだ。サトミに撃たれた事から目を逸らしちまう。


「目の前のことを見ろって!」


 己を鼓舞した。使えそうなものがないか顔をめぐらす。柱が目に入った。柱はジグザグにそれなりの距離をもって生えてきたようだ。その先には同じくらいの高さの炎の柱がいくつか燃え盛っている。まるで巨大な吹き出す花火だ。恐ろさより美しさを感じてしまう自分にうんざりする。


 ダメもとでサトミたちより先にサファイアのところまでたどり着く方法を考える。


 鉄の柱の頂上に麻の鞭を結び付けて振り子の要領で移動する。柱をいくつか伝って勢いを増やしていって、炎の柱の上空を超えて最終的にはサファイアのキルモンのところまで跳んじまう。距離としてはできそうだが着地に失敗したら死ぬだろう……


 女の悲鳴が聞こえた。サトミの声かはわからない。


 ブンッという音が何か耳の後ろ側で聞こえた気がした。血が湧いた。頭が火照る。こんなことでサトミが死ぬなんて事実は俺は絶対に受け入れねえ。


 考えるのは、やめた。


 本当かどうか俺には確かめようもないが、目や鼻や耳や舌や皮膚から受けた刺激を脳が感知するまで0.5秒の遅延が起きていると聞いたことがある。だからこそ運動選手は身体が勝手に動くようになるまで反復練習を繰り返す、と。


 考えてたいら間に合わない現実はある。


 手近な柱に麻縄の鞭を伸ばしててっぺんの方で結びつけると縄を縮めた。思いのほかすごい勢いで動き出す俺の身体。


「Ah~A、AHー」


 こんな時なのにちょっとターザン気分が混じったことに照れながらどえらい高さのブランコを笑顔でこぐアルプスあたりの少女の笑顔が頭に浮かぶ。


 だが、おかげで身体から余計な力が抜けた。


 強烈な風にさらされ目を細め、呼吸を整えながら慣性の法則に身を任せた。風を切る感覚、とどまることなく移り変わる光の明暗、風の音を越えて聞こえてくる蹄の音や叫び声に銃声、そしてニンニクの匂いと味を……


 感じる。俺、今、感じてる!


 って、ついさっき誰かが似たようなことを言ってたような気もするがどうでもいい。


 古傷や不安に塗れてそこに自分らしさを見出すのではなく、経験は知識として、未来への不安は道しるべとして、現在(いま)に活かせばいいだけなんだ。


 俺の麻の鞭でつくるブランコは柱をいくつか経由した。そして跳んだ。青空がまぶしい。


 新しい朝が来た、そんな気分だ。


 ありったけのの現在(いま)を感じる。女も組織も社会も世界も関係なくただ俺は、いまここにいる。



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