第54話 挺身
俺たちは橋に降りてしまった。回るプロペラの音も止まってしまった。イレーザの黒マントの中で男女が何やらテンブリ語で大声で言い合っているのを聞いていた。
後頭部を支点に倒立している。倒れないようにイレーザは俺の両足首を掴んでくれている。俺はイレーザの足首を掴んでいる。つまり顔と両手だけイレーザの黒マントの暗闇の中だ。
少しでも状況を把握するために耳をそばだてなければならい。しかし手を伸ばせば届くところにイレーザの本体があるという事実に胸を高ぶる。いつしか男女の言い合う声も遠くなり聞こえてくるのは俺の鼻息の音だ。
ふと、他人の体臭、イレーザの乾いた汗の、自分以外の生命の匂いに虚を突かれた。直後その生命が俺の鼻孔を通り肺を満たし、血となって全身に駆け巡りだす。温もりに満たされていく感覚。
しかしこのままではいられない。近い将来俺の本体が巨人化あるいは硬直化する。だが自分からこの亜空空間から出て行く気にもなれない。このまま闇の中に光が射されることを祈った。ミケなら見えるのかもしれないが俺がいくら目を凝らしても見えない。
「話がつきましたわ。手を放してもよろしいかしら」
現実に目を向ける。
「あっ…… 嗚呼、もう、そんな時間か…… 」
あわてて麻の鞭で結び付けていた個所を魔法でほどく。
そして両手は放された。俺は声を掛けられたにも関わらず無防備だった。背中を打ち付けられる衝撃。思わず暗闇から手を伸ばす。結果、衣を引き裂く音とともに宇宙に差し込む光がもたらす新世界。
「うわっ」
「きゃっ」
光射すほうへ、その向日葵は、あるいは命の息吹を燃やしたか汗のせいなのか、金糸を束ね花びらとしたかのようイレーザの本体。目を奪われ俺の本体以外のすべてが硬直した。本体は突然の光に驚き暗闇のなかへ戻って縮こまってしまった。欲望と理性、俺の本体とオマケは両雄並び立たず。あるいはビッグ・ワン。
「いやっ、おじさま、なにをなさるの?」
「あっ! いやっ! 違う! ごめん、ほんとに悪気はないんだ。ただ向日葵が揺れていて……」
反射的に飛び起きてからのジャンピング土下座。
「これでも女ですのよ」
「うん。ごめん、ホントに。なんでもするよ……」
「ええ、ではお願いしますわ。助けてください」
「うん、僕は何をしたら君を助けられるの?」
「率直に申し上げます。フリップ卿と決闘してください」
「え? マジで?」
「大丈夫です。魔法なしで相手を倒したら勝ちというというものです。命がけではありません」
「いや、それはいいんだが話がまったく見えない」
「かいつまんでお話しますね」
「頼む」
「フリップ卿が押しとどめてくださってるのは南側の住人です。彼らは町にティラドゥが現れて暴れているのにキンドラン軍や自警団が助けに来てくれないことから日頃の不満を爆発させたのです」
「ああ、わかった、でキルモンのあいつらは?」
「南の住人が北になだれ込むのを抑えるためと聞いていました」
「なるほど。質問いいか?」
「ええ」
「ティラドゥを放った奴らは何者だ?」
ティラドゥは本来テンブリにはいない生き物だと聞いた。わざわざ遠くから金と人手と時間をかけてこんな騒乱を仕掛けたやつがいる。きっと高みの見物をキメてやがるはずだ。
「わかりません」
信じた。連帯勇者教が何か陰謀を持っていたとして魔力供給用の十数名の楽団の現場責任者に過ぎないであろうイレーザのところまで情報がおりてきていないことに不思議はなかった。
「わかった。どうやって住人をそんな決闘で納得させた?」
「北から南にティラドゥが行かないようにして南の被害を抑えるために私たちが橋を封鎖したことにしました。キンドラン軍が北から数体のティラドゥを河に投げ込んでいるのは彼らも気が付いていたので、それに……」
「それに?」
「サファイア様がそのお力をお見せしたようですわ」
イレーザの目線を追うとあの少女がキルモンの操縦席にいた。表情はうかがえないが退屈そうにガムを膨らませながらスマホの画面を見ているのだろう。
「殺したのか? でも魔力の供給はできてなかったんだろ?」
「あの方の魔力は別格ですから。あと殺してはいないそうです」
「わかった。確かに殺してたら暴動もんだな。で。どうすればいい?」
「ええ、その前にわたしがやらなくてはならいことがありますの。それが済んだら」
「え、何を」
「勇者の血を引く方々にもここを退いていただく必要があるんです」
「だから、何を」
「いいから、しばらくあちらを見ていて下さいね。なぜだか、私、おじさまにだけは恥ずかしくて見られたくないんですもの」
「わ、わ、わかった。ホントにさっきは悪かった」
よくわからないがイレーザの指さす連帯勇者教のキルモンが並ぶ方に体を向けた。
そして後方から聞こえるどよめきと大歓声。気になって振り向きたくなったがイレーザの頼みの手前耐えた。
イレーザが俺の両肩に手をかけた。背中の籠を降ろそうとしているようだ。俺は身を任せた。すると肩の荷が降ろされる。足元に籠が差し出されるように置かれた。ナオミの顔が頭に浮かんだ。もう動かないとはいえここまで俺を助けてくれた籠だ。なんとなく抱き寄せる。
すると丸めた背中に熱いと言えるほどの温もり。耳元で言葉を、息吹を発せられた。
「しばらく預かっておいていただけまして?」
黒いマントが、俺の背中にファサリとかけられた。察した。フリップ卿がソフィアを屈服させようとしたときのことが頭に浮かんだ。振り向かないために強烈に意思が必要だった。
「おい、大丈夫か?」
「これでも踊りも鍛錬してるんですよ。へっちゃらですわ。これくらい」
「こんな人前で裸になってへっちゃらなわけないだろう?」
「……」
「なあ、何をするつもりだ?」
「舞いを少々」
「なんでまたそんなことを……」
「勇者様たちは待ちくたびれて嫌気がさしてるそうですわ。その気になったらこの場の全員が…… あなただって簡単に……」
「だからって……」
「大丈夫ですわ。私に何かあれば勇者様がみなさんを攻撃する大義名分ができることはフリップ卿も住人の皆様もわかってます。私は彼らを信じます。乱暴されたりしませんわ」
「そうかもしれいけど…… なあ。お前はそれでいいのか?」
「私一人の心ととここにいるみなさんの命では比べようもありませんわ」
「なあ、俺がなんとかするから逃げてくれないか。 裸で踊るんなら任せとけ。俺みたいな笑われるしか能のないおっさんとお前は違うんだ。他人のために自分を犠牲にするなんてやめろって」
イレーザのため息が俺の耳朶を吹き抜ける。そして聞こえた。
「おじさま。通り過ぎるだけの女に優しくするのは罪ですよ。もし私のためを思うならフリップ卿に声をかけられるまで、こちらを見ずに耳を塞いでそこで待っていてくださいね」
「できるかよ、そんなこと…… 勘弁してくれよ……」
「ほんとうに、優しくって悪い人。貴方こそご自愛ください。心があるのはお互い様でしょ? 」
そしてイレーザの温もりは離れていく。熱が冷えていく。やけに冷たく感じる箇所が背中に二か所あるのはそこだけ濡れているからか。
イレーザの叫び声、現地の言葉。それにこたえるフリップの叫び声。直後背後から聞こえる割れんばかりの大歓声と手拍子。俺は立ち上がりたい衝動をイレーザの言葉を繰り返してねじ伏せた。気が付くと懐に抱いた籠はつぶれていた。
耳だけは塞がない。そう決めてさらに強く籠を握りしめた。
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