第50話 王の戦士 1
小屋から出てみた。足の裏にもヌルヌルがついた。船は揺れる。転びかける。やむなく手をついて進む。一人ローション相撲状態だ。視界が低くなる。船の周囲の状況がわからない。
ただ周りは河だ。それも何十人もの漕ぎ手のいる船が航行できる深さと二百メートルほどの幅を持つ大河。船の位置が河の中央にあるとしたって百メートルも流れる河を横切るようには泳げない。すぐさま飛び込む気になれなかった。
躊躇っているとイレーザの悲痛な声が聞こえてきた。キンドラン語だ。ところどころわかる単語から推察するに何かを止めてと誰かに頼んでいるようだ。相手の声は聞こえない。不穏な空気を察知し物陰に隠れながら様子を窺う。
見えたのはイレーザともう一人。二人は俺から離れた位置で向き合っておりイレーザがすがりついて大声で何か話しかけているがそいつは取り合わずにやにやしながらあしらっている。
目を引いたのはそいつの姿だ。何やら変わったキルモンを身にまとっている、ということなのかもしれない。
全体的なシルエットは大蛇の様な長い尻尾と人間の頭と手足が生えた姿。その体に張りついているであろうウェットスーツのような布地は緑色を基調としてぬめぬめと光っている。
イレーザがすがりついたからかその胸元からは運動選手のゼッケンがめくられたかのように四角いハンカチほどの布地がひらひらと舞いちらちらと見えるドラゴンに稲妻が突き刺さっている紋章。キンドラン王国の紋章だ。となるとこいつは王家の兵士。一人でいるところを見ると隠密行動をとる役割なのかもしれない。
にやにや笑っているのに冷酷な目つきに身震いする。肩がすくんでいる。こわばりを解きたい。笑顔と冷酷な目に恐怖を感じるの理由に思い当れば多少気が軽くできるかもしれない。
思い当たる体験は小学生の頃の話だ。俺の家は土曜の夜八時だろうと仕事で家を開けがちの両親に邪魔されることなくテレビは見放題だった。
他の家ではテレビの前に家族全員集合しているんだろうなと思いながら一人家にいる孤独と恐怖を紛らわせるために歌と笑いの完成されたショウを見ていた。学校でも話題だった。
だがある日、歯を磨けとか挨拶したのにうるさいと言われるのにも反感を持った。好奇心も湧いた。土曜の夜八時、チャンネルのつまみを回してみた。そして見た。見てしまった。
ひょうきんな若者たちが好きなことを楽しんでいる。愛と性にまつわる会話が聞こえる。今思えばコントを見ているスタッフ達の笑い声も嘘くさいし、アドリブでその場その時の空気の中でしか共有できない一過性のものだったと思う。
だが大人たちが隠していたことが白日の下にさらされた気がした。世界に参加した気がした。自分は一人じゃないと感じた。そのことを伝えてもクラスメイト達には届かない。みんなと同じことをしない変わり者としてしばらくの間孤立した。
ヘビ男の目つきはそのときのクラスメイト達の目つきと一緒だ。所詮そんなもんだ。あのころ世界最強の生物と恐れた災いをもたらす者と名づけられたイタチと比べればヘビなんてニョロイもんだぜ。
むしろ、ヘビ男ににすがりついて大声で何かを訴えているイレーザの心理状態のほうがヤバい気がする。
ヘビ野郎の尻尾の先端から水が噴き出ていることに気が付いた。そしてその水は火の手に向けられている。消火活動だ。
イレーザが消火活動を邪魔している理由は推測するしかない。だが、さきほど目の前で短剣をのどに突き立てようとしているところを止めた。思わずやってしまった行動だと思うが死にたくなるほど苦しいのならばいっそ思い通りにさせてやったほうがいいのかもしれないとさえ思った。
俺が現在自殺を止めてもらって良かったと思っていることはたまたま得られた幸運だと思っている。心の中の地獄が続いていたことだってありえただろう。
そんな俺だから思ってしまう。確か勇者教は輪廻転生の存在を認めつつも自殺を禁じていたはずだ。その教えを破ってでも、衝動的とはいえ自殺しようとするほど苦しんでいるんだ。船とともに自らの命を断とうと考えたとしても不思議はない。
冷たいだろうがむしろ今度は巻き込まれないように逃げようと考えている。小屋から出て風が染みて気が付いたが、短剣を持ったイレーザともみ合った時の影響だろう。あちこち小さな切り傷ができている。身体も再び冷えてきた。破傷風の様な病気も怖いしこの異世界での風邪は命を落としかねない。
少しでも移動を楽にするために俺は鞭を探した。幸いなことにすぐに見つかった。慎重に手足を使って前進し拾い上げようとする。手が滑る。小屋の中で浴びたヌルヌルとした液体は油なのかもしれない。顔を覆ったそれをはぎとるために手で拭ったのが失敗だった。
甲板の床にこすりつけようとしても濡れているからか水と油がはじきあうのかうまいことこそげ落とせない。籠から取り出した道着でぬぐい取る。多少マシになったがぬめりはある。いっそ…… 俺は鞭の持ち手を股にはさんだ。鞭を伸ばして太ももに巻いて固定した。尻尾のようにふってみる。
「ああっ」
女の悲鳴。顔を向ける。イレーザだ。突っ伏し背中を丸めている。そこへ強烈な水流がぶつけられている。そのもとはヘビ野郎の尻尾だ。
「何してやがるっ!」
俺はヘビ野郎に向けて叫んだ。
鞭をつかってイレーザをこちらに引き寄せる。イレーザは顔は青白く、唇は紫色だ。体が冷え切って朦朧としている。あっためなきゃ。だが温めるものは無い。
くそったれ。俺は矛盾しまくだ。かっとなってついやった。だが後悔はない。激しい水流をぶつけるなんてただの暴力だ。美女の顔に水が滴るザ・ベストな瞬間をとらえた雑誌の表紙撮影とはわけが違う。
べトナム戦争帰りの一人で部隊一つ分の能力を持つ特殊部隊の隊員ですら高圧の水流を浴びせられ苦しめられるんだ。
だが逃げるとしてもイレーザを抱えて移動するのをヘビ野郎が黙って見ているはずが無い。
倒すしかないな。それも速攻で。場合によっては…… 殺す。できるか? 俺に。だが……
「ピューッ!」
奴の口笛だ。犬を呼ぶときの欧米人か? 見てみるとにやにやと笑っている。あ、俺が四つん這いだからそれを侮辱してるのか。だがそうしてるだけならありがたい。
俺は籠から柔道着を取り出した。魔法で思いっきり絞ってみる。滝のように水がこぼれた。生乾きだがイレーザの身体から熱が奪われるのを多少は防いでくれるだろう。俺は道着の上着をイレーザにかけると籠を背負い振り返った。
男は俺が振り向くのをなぜか待っていたのか気が付くと嗜虐的な笑みを浮かべた。ヘビ野郎は見せつけるようにその太くて長い尻尾をゆっくりと動かした。その先端を小屋ぬ向けて向けた。大量のスプラッシュ。小屋は木っ端みじんに吹き飛んだ。
たまげた。言葉を失った。尻もちをついていた。
奴は自分の股間を指さし、それから俺を指さすと何やら両手を伸ばして頭の上で手を合わせてにやにや笑った。意味がわかった。
こいつ俺の本体が分厚い皮鎧を身にまとっていることを嗤いやがった!
恐怖なんか吹き飛んだ!
憤怒に満たされた!
もし、俺は鞭の尻尾をおったてた。かつてドブネズミにあこがれたころの様に混じりっけのない怒りに満たされていた。他人のための義憤より己のための憤怒が俺を動かす。
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