第41話 星と泥 2

 ミケはしばし間を置いて言った。


「おじさまの好きにしていいよ」


「でも、こんなときは普通は……」


 サトミ身の言葉をミケが制した。


「サトミの気持ちはうれしいけど男の人みんながみんながサトミのお父さんみたいに立派にゃわけじゃにゃくにゃい?」


 サトミとミケはしばらく見つめあった。


「それに喧嘩で土をつけられたの初めてじゃないよ。あたし」


「わかった」


 ミケの言葉にそう言うとサトミはカウンターのほうにいき、なにやら女給と話を始めた。聞いてみると酒場と話をつけてギルドまで馬車を出させてくれるらしい。しばらくすると御者なのか男がやってきた。


「帰ってくるんでしょ?」


 サトミは突然俺に尋ねた。虚を突かれた気がして答えるのに窮した。サトミはふっと顔から力を抜くと俺の返事を待つことなくミケと共に御者のところへ行ってしまった。


 俺は短く息を吐き出すと振りかえる。さて、これからが本番だ。敗けが確定してしまった。若造との勝負にどうやって持ち込むかなんて全く思い浮かばなかった。


 シンプルに若い男をぶっ飛ばすことに決めた。駆けだしたい衝動を押さえつけた。確実に狙いを定めてぶっ飛ばしてやるために呼吸を整えながら一歩一歩奴らの輪に向かって歩き始めた。


 ミケの顔が頭に浮かんだ。


 不思議なことに小学校、中学校、高校それぞれでいじめられていた女子の顔が浮かんだ。しっかりと覚えていることに驚いた。見て見ぬふりをしていたくせに。そのことに罪の意識を感じていたことなど今の今まで忘れていたくせに。


 なんとなく思春期のころ俺は潔癖症だったことを思い出した。いま突然その理由を理解した。


 思春期の頃に自分がなりたい自分になることはかなわないと思い知った。それなのに周りの影響で自分が自分の予想だにしない自分に変えられていくことに納得がいかなかった。怯えていた。現実の理不尽さに抗いたかった。


 他者からの影響が物だけではなく言葉や空気すらにも媒介して俺を変えていくイメージが頭から離れなかった。こんなことに意味はないと感じながらも必死で手を洗っていた。


 そうすることで純度百パーセントの俺を保てるかもしれないと祈った。


 今思えばただのプチ滝行。ずいぶんとコスパに優れた自分探しだ。


 そう考えると切なくもなる。夜の校舎で窓ガラスを割ってまわったり、人のバイクを盗んで乗り回したりするよりは人に迷惑をかけないだろうが人が聞いて憧れる武勇伝でもない。


 人を撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけだと聞いたことがあるが他人のバイクを盗んで自由を感じたやつも夜の校舎で窓ガラスを割って回ったやつも俺に中指を立てながら侮蔑の言葉を吐いた奴らも自分が同じことを他人にされる覚悟どころか想像すらできないんだろう?


 わからせてやる。


 想像できる脳みそに恵まれなかったのなら俺がわからせてやるよ。低能ども。お前らの行為は自らに危険を招き寄せる行為だったってな。


 自棄に周りが明るく感じられ、奴らの好きかってに発する声が明確な輪郭を持って頭の中に響くことに心地よさを感じながらやつらの顎をけり外してやる妄想に震えた。


 俺はきっと夫や父になる才能ではなく一兵士としての才能に恵まれてしまったんだろう、使い捨ての消耗品として。肉体を酷使させられ報われることのない男として。残念なのは肉体は戦う才能に恵まれなかったことだ。


 それでもぶっ飛ばす。ただそれだけだ。


「俺を見ろっ! 若造がっ!」


 若い男は人波をかき分け前に出てきた。指を三本頬に添えると周りの奴らと笑いあった。上等だ。俺は右の拳を振り上げて駆けだした。ぶっ飛ばしてやる。あと少しだ。目の前だ。力を込めて体重を乗せて……


「うっ……」


 何がおきたからわからない。きっと俺は土下座するように床にはいつくばっているはずだ。右側の肋骨の下が灼けるように痛い。呼吸ができているのか不安になる。息苦しい。両脇を抱えられた。無理やり立ち上がらさせる。やばい殴られる。その身を丸めたいのに腕をわき腹から離せない。顔がさらされている。


 爆笑が見えた。そして聞こえた。


 身体が反応した。だが押さえつけられる。結局俺は身ぐるみはがされ、頼りの認識票まで奪われ、まるで幼児が親に抱えられて小用を足すときの様な格好で股間をさらし者にされた。突然放り出された。


 見上げると見知らぬ天井。なにやら音を吸収する様な壁を連想させた。よくよく見たら食卓の足が無数に並んでいる。いや、無数の食卓が宙に浮いているっ!?


 俺は面食らってアホ面さげて見上げていた。やがて何人かの男たちに担ぎ上げられ俺は酒場の外に運び出され放り投げられた。


 排泄物の匂いが鼻を突く。


ご丁寧にも排泄物が巻き散らかされている場所に投げ込まれていた。


 跳ねてついたであろう排泄物の飛沫の一つの輪郭を明確にささくれのように自棄に鋭く俺の唇は感じ取っていた。動かせるか試して伸ばしてみた腕が何かに触れた。勇者教のかぼちゃの器だ。むかついた。衝動的に弾き飛ばした。


 身体が動くことに安堵した。うつ伏せで胸が苦しくなってきた。仰向けになる。誇張抜きに無数の星々が煌いていた。かつて食べてみたくってしょうがなかったカップアイスを思い出した。


 あ、もうちょっちでナミダちょちょぎれる。


 そう思った直後。


「もしもーし。生きてますかぁ?」


 聞き覚えのない女の日本語が聞こえた。


「返事してくださいよぉ。引っ込み思案なのは本体だけにして…… ってプークスクス」


 な、何を言ってるんだこの女。お、思わず言ってしまった。


「な、な、何がおかしい」


「ご、ごめんなさぁい。わたし、小さいことでもおかしくて我慢できない年頃でェ……」


「何を言ってるんだ。お前は? どうせ小さいことでも笑うなんて俺の本体の小ささとダブルミーニングで嗤ってるんだろ?」


「えー、本体ってなんですぅ?」


「なにさ。ウィットだかエスプリだかフランス小話だか知りませんけどね、あたしゃ、今、あんたなんか相手にしてる暇はないんだっての」


「いいじゃないですかぁ。裸で星を見てるだけじゃないですかぁ」


「はい、はい、そーです。そーですついでにうんこまみれですけどね。皮一枚下は土どころかうんこ地獄ですからね。星を見て現実を忘れてそのまま消えていったっていいでしょうが」


「わたしの顔も現実を忘れさせてあげられますよぉ。ちょっとくらいこっち見てくださいよぉ」


「わかったよ。しつけえな。起きて顔見りゃいいんだろう?」


 彼女の顔を見た。わざわざランタンを顔の前に掲げていた。言葉が出なかった。


「あ、やっぱりサイハーテ家の人なんだぁ。わたしの顔見てそうなる人はみぃんなサイハーテの人だったもぉん」


  あどけなさが隠しきれていないその顔の側面。エルフのように長いものであったろう耳は真ん中あたりでパツンと垂直に切り落とされていた。


「はい、それではおじさま。質問です」


 俺の返答を待たずに娘は続けた。


「そろそろ星を見るのをやめてこの世界を救う英雄になってみませんか?」


 マジで何を言ってるんだこの娘は。


「ねえ、なにかリアクションしてくださいよぉ。じゃあ行きますよ? 三、二ぃ、一、キュー」


「わ、わあーい。び、びっくりの宝石箱やぁ」


 宝石箱か玉手箱かなんてこのさいどうでもよくなっていた……

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