第40話 星と泥 1
「もう……大丈夫だよ……… 歩ける」
頭の上からかぶったマントの中から聞こえてくるミケの声音は低かった。俺たちはあれから逃げるように人を避け壁際にまで後退して座り込んでいた。
「撤退ね。帰って寝ちゃお」
サトミの言葉に俺は耳を疑った。
「いや、サトミ。俺がまだ戦っていない」
俺なりにプランはある。アラサー女がやったように食卓を置く。それもたくさんだ。
教室とかのように碁盤の目状に細い通路を作る。あの若い男が現地出身の男なら日本人がイメージする教室の様に机が並んでいる状況には慣れていないにちがいない。
そこで動き回ったり食卓の上に乗ったりなど行動範囲に幅を持たせることができれば何かが起きる可能性は高まるだろう。
なんとなくの予感でしかないが子供のころプレイしたゲームを思い出していた。新入社員が上司の目を盗んでデートのために会社を抜け出すという内容だ。
主人公キャラの新入社員はゲームの中で邪魔する上司たちをデスクが並べられたオフィスの通路でヘッドバッドやヒップアタックで撃退していた。
俺にそんな器用な真似ができるとは思っていないがあのがタイのいい若い男の動きを少しでも制限できればもうけものだ。
酒場サイドの思惑を考えてみる。奴らがオッズメーカーを兼ねるのなら勝負は拮抗していたほうがいいはずだ。片方が圧勝なら駆けにならない。きっと乗ってくる。いや、乗せてやる。シンプルな心技体の能力で勝てないないなら状況を複雑にすればいい。
「おじさま」
「大丈夫だよ。勝算はあるんだ。この場に混沌(カオス)をもたらしてやる」
って、いい年齢(とし)こいてなにを言ってるんだ? 俺は。と突っ込む自分もいるがどうせここは異世界。他に日本の感覚を持ってるやつは周りにいない。どうせやるんなら目いっぱいヒーローっぽくキメてやるぜ。
「どういうこと? おじさま。何か策があるのか」
「日本語ではうまく言えないが食卓たちにスタンド アローン コンプレックスをもたらすつもりだ」
俺が思い描いていたのは多脚戦車ではなく家庭用ゲーム機のキャラクターだった。地下で金を採掘させられていたがある日、自我を持ち、爆弾で岩や妨害してくるかつての仲間のロボットをたちを粉砕しながら地上を目指したロボットだ。
残念ながら俺はクリアするまでできなかったがあのロボットは地上に出てこの異世界で見られるような星空を眺めることはできたのだろうか。
「なるほど。よくわからないがすごい自信だ」
サトミの声は言葉の意味とは裏腹に平熱だった。
「いや、ホントは必死なだけだ。ミケがやられてむかっ腹が立っている。俺なりに勝つ方法を考えただけだ」
「そう…… それなら向こうの様子を見て」
奴らは歓声を上げる観客たちに取り囲まれていた。何やら差し入れなのか器や食べ物がどんどん食卓の上に積まれていく。アラサー女は食卓の上でそれに笑顔で答えている。他のメンバーも愛想よくふるまっていた。メスガキだけ姿が見えなかった
様子を見ている俺の後ろからサトミが言う。
「敗けた私が言えないけど結果はでちゃったんだから。これ以上損害を出す理由はないでしょ? ね? 帰ろ?」
損害……だと? まるで将棋……いや軍人だな。って、そういやサトミは船乗りだというから目的を持って組織的に動くことに慣れているのだろう。
って、俺もサラリーマンだったわ、確か。
だがこれは感情の激突で始まった喧嘩だ。ただの喧嘩だからこそしっぽ巻いて逃げることが心に残すしこりは長いこと影響しかねない。
俺は日本では暴力沙汰を避けて生きてきた。シンプルに恐ろしい場合もあったが大抵は自分なりに合理的に判断をしたからだ。
暴力を振るったり振るわれたら損だ、と。そういう我慢を積み重ねてきたからこそ怪我をせずにさせずに無事に生きてこれたのかもしれないと思う。
腹が立っても野良犬に吠えられただけだ、そんな風に言い聞かせてきた。
しかし俺は我慢が爆発して上司をぶっ飛ばしてしまった。社会から追放された。つまりは俺はそういう男なのだ。
言ってしまえば憤怒の感情をいつまでも持ち続けて、それを繰り返し自ら苦い想いを牛のように反芻している。
もちろん若い女であるミケが俺のようにいつまでも怒りを反芻することは考えにくい。だが恐怖はどうだ?
ミケの長く残っている人生でふとした弾みでこの記憶がよみがえり苦い想いを繰り返すようになってしまっては可哀そうだと思う。
若いミケの今後の人生に対して望むことが俺のようになるな、ということだとはいささか悲しくもあるがミケの役に立てば俺が苦しんできた甲斐があるってもんだ。
「理屈ではわかるがミケの仇は?」
「取ってほしい? ミケ」
サトミの問いにミケはしばらく間を置いた。
「正直…… わからない…… 」
サトミが言った。
「私が見た事実だけ言うよ? 悪いけど今決められる?」
「うん」
「お腹を殴られて首根っこを掴まれて服を破かれた。見えたのは首の下あたりまで。その皮の鎧のおかげで胸までは見えていないよ」
「そっか。ありがとう。それくらいなんだね。あたし途中から早く終わってとしか思ってなかったから…」
「人には向き不向きがあるから。やってみてそれがわかった。それで十分。もう終わったし。帰ろ?」
「うん。こんなことで怪我してもばっかみたいだもんね!」
ミケの声は震えていた。悔しさなのか。悲しみなのか。恐怖なのか。きっと本人にもわからないだろう。
ただ感情が肉体の制御を失わせていることだけはわかった。マントに覆われた震える肩が驚くほど小さいことに気が付いた。
突然ミケの肩が大きく跳ねた。子供がしゃくりあげるようだった。
「お母さんがつくろってくれたのに…… もう着れない」
その言葉が俺の耳を打った瞬間、別れた子供のことを思い出した。
「できることを与えればいいからね。ミケのお母さんもそうしてくれたんでしょ」
「うん」
「でもミケのお母さんがそうできるようになったのはきっと自分じゃできないことは受け取ってきたからだとも思うんだ。違うんかな?」
「違わない……ね。きっと」
「今度はミケの番。ミケは自分にできないことを知っただけ。できるようになるために頑張ってもいいし自分の得意なことを磨いてもいい。ただ今日はゆっくり休もう」
サトミはミケの肩をそっと抱いた。今この場で言うことじゃないとは思った。でも抑えられなかった。
「なあ、ミケ。俺も一緒に帰ったほうがいいか」
サトミが目を見開いて言った。
「当然。ミケ風に言えば、もちのろん。ってね。おじさまはそう思わないの?」
明るく言っているが微妙に怒気が混じっていると感じたサトミの声。
目を逸らして明るくさらっと「そりゃそうだよな。悪かった。俺なんかじゃ役に立てないとか思っちまったから……」なんて言いながら帰り支度をすればいい、そう考えた。だが俺は。
言葉を発することもなくサトミの瞳に映る俺の顔を見た。
もし格子窓から空を見上げて星を美しいと感じたとしても。きっと俺なら星にふさわしい自分になろうとしてしまう。
足についた泥を落とすことに気をとられているうちに、いつしか星を美しいと感じたことも忘れていくんだろうな……
ミケの返事を待つ間そんなことを思っていた。
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