第36話 サトミvs少年 1
人が並んで作った大きな輪、その中央で対峙するサトミと少年。人の輪から観客が中に入らないように酒場のスタッフか客かわからないが何人かの男たちが縄を手に持ち人の鎖を作って柵を作った。押し寄せてくる観客たちを押し返しながらその輪を広げていく。まさに即席のリング。広さは中学や高校の体育の時間に使った柔道場ひとつ分くらいはありそうだ。
俺たちはその輪の内側でサトミの後ろから見ている格好だ。少年は線は細く迫力は感じないが背はサトミより高く腕の長さもありそうだ。詳しくはないが動き回られて距離を置きつつその長い手足で攻撃を繰り出されたら厄介そうだ。先ほどからパフォーマンスなのか挑発なのかパンチを繰り出して見せている。
対するサトミは背中しか見えていないが腰や膝もリラックスした様子で浮き足だった様子はない。だが少年を見上げている。サトミは女にしては背が高く手足も長く肉付きもいいが少年より背は低いし筋力だってムキムキなわけじゃない。それに男と女だ。
サトミは俺をあっというまに恥ずかし固めにするほどの腕はあるが、それくらいならその少年でもできるのではないかと思えてしまう。少年の動きはスムーズに思えた。
俺は日本にいたころゲーム機で健康のためと孤独を紛らわせるためにボクシングを題材にしたフィットネス用のソフトを使っていた。パンチ数が50万回を超えるくらいにはハマった。その画面で見慣れたインストラクター役のキャラクターのように少年の動きは身軽で素早かった。
不安がよぎり始める。
そこへ大きく甲高い鐘の音が一発鳴った。
ゴングだ。
少年は素早く左腕でパンチを繰り出しながら自分の左に左にと足を運んでいく。サトミはパンチを見切っているのか自然体の姿で少年がまわるに合わせてパンチが当たらない距離を保ちながら回っていく。まるで手を触れ合わない優雅なダンスのように思えた。
時折少年がサトミのほうに足を踏み込ませパンチを繰り出すがサトミはリズミカルにステップを踏んでうまいこと距離を保ちながら闘牛を躱す闘牛士かの如く華麗にいなしている。
勇者教側でアラサー女がヒステリックになにやら喚いている。爺さんが訳しているのか女が喚くとすぐさま爺さんが現地の言葉でなにやらいった。若い男歯若い男で現地の言葉で何やら叫んでいる。
「あいつらなんて言ってるんだ?」
ミケに尋ねる。
「にゃあに、ただのサトミへの悪口だよ。内容まで聞く?」
「いや、いい」
「でも、あの男が言ってるほうがひどいよ」
「なんて言ってるんだ?」
「メス犬の鼻をつぶせとか顔に消えない傷をつけてやれとか…… 言うかな? 普通」
「まあそういうやつらなのさ。俺もちょっと言えねぇな」
「それに見てる人たちもひどいこと言ってる。裸にしろとかそういうこと言ってるんだよ」
確かにそう言われてみると観客たちが期待しているのは崇高な戦士たちの戦いではなく、美しく誇り高い女がひざまずき心折れてはらりはらりと涙を流すことのように思えてくる。身に覚えがあるからわかってしまう。
俺も正直あちらさんのアラサー女に対してそういう目にあわせてやりたいという気持ちが少なからずある。声に出すのは憚れるが。まあ五十歩百歩とも思うが実際に大切な仲間に暴言を吐いた相手に対する思いとたまたま居合わせた酒場で思いがけず面白い見世物に立ち会っただけの奴らと一緒ではないとも思った。
それに自分の胸に秘めているのと行動に移すのでは天と地ほどの開きがある、なんつって自分のことは棚に上げて言った。
「ホント。ホント。あの人たちって超サイテー!」
「でしょ? あたしもなんか言い返したいな。ねえおじさま。にゃんて言えばいいかな?」
俺は考えた。あの少年が英語がわかるなら英語がいいだろう。いくつか有名な英語のスラングは知っているがそんなことをミケに教えるのもどうかと思った。
戦いの様子は相変わらず少年が攻めサトミが躱すということが繰り返されている。やられていないとも言えるがなにかのきっかけで素手のパンチがサトミに当たったらと思うと気が気ではない。
ボクサーがグローブをつけるのは少しでも怪我の程度を軽くするためだ。当然、グローブが無い分軽く小さくなった拳は素早く動き、小さな隙間からでも当てられやすくなるだろう。
俺たちの言葉がサトミの力になればいいが格闘のアドバイスなんて俺にもミケにも無理だ。だとしたら少年の戦意を削ぐような悪口を言ってやりたいがどうしたものか。俺が中学生くらいのころ言われたらやる気をなくすような言葉なんてあっただろうか。しかもミケにも言ってほしいから卑猥な言葉ではなくさらに英語で……
……はっちゃけ…… もとい、閃いた。
「よし、ちょっと試してみるか。俺が叫んだら続けて言ってくれ。意味は丸いものを蹴とばす遊びだ」
「わかった。足も出してみろってことだね。慣れてないことさせて隙を作らせるんだね」
「さすが、ミケ。話が早い」
俺は叫んだ。観客どもの歓声やため息やブーイングなんかよりも大声で叫んだ。
「へイ ボーイ。レッツ プレイ サッカー」
意味は、おーい、少年。サッカーやろうぜ、だ。ずっとパンチを繰り出しているボクシングの心得があるであろう少年に足で攻撃してみろ、という挑発だ。挑発に乗ってバランスでも崩してくれればもうけものだ。
何かにつけて海の生き物の名前一家の長男を毎週日曜日に自宅まで現れて野球を誘ってくる狂気の野球好き少年顔が俺の頭に浮かぶ。
「ヘイ、ボーイ。レッツ プレイ サッカー」
ミケが続いた。効きなれない言葉を面白がったのかサトミの応援をしたいのかわからないが同調する観客もわずかながらいた。同じように叫んだ。
「ヘイ、ボーイ。レッツ プレイ サッカー」
数人の合唱が響き始める。それが数回繰り返された後だった。サトミと少年が対峙しながら回転しているうちに少年が割と俺たちのほうの近くまで回ってきた。少年はちらっと俺のほうを見て叫んだ。
「Say hootball!」
意味がわからなかった。ただ、Sayと言われて思い浮かんだ言葉を言い返した。
「Say Yes! YA YA YA!」
俺は両手を拳に換えてを突き出しながら言ってやった。十分隙を作れた。少年は怒りを露わにしたが顔を戻した。その目の前にはサトミがいた。妖艶な笑顔だった。勝負がつく。予感がした。少年がふらついた。鈍く低く太い音が聞こえてきた。
少年は姿勢を維持しようとしているのは見て取れるが足が思うように動かないようだ。何度か足を前に運んだあとヘッドスライディングでもするかのごとく倒れていった。
オペラもどきおじさんの声が響き始めた。俺でも意味がわかった。カウントしている。十数えるまで少年が立ち上がらなければ勝ちだ。サトミは笑顔で俺と一緒に叫んでいた観客たちに手を振っていた。俺たちも勝利を確信していた。その少年が立ち上がってもふらついていた。
しかし、カウントが残りわずか、と言ったところでなんとか少年は立ち上がった。だが足元はおぼつかない。ふらついている。だがまだ心は折れていない。少年はサトミに向かって中指を立てた。
少年の根性がすごいのか差別心が根深いのか俺にはなんとも判断できなかった。
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