第30話 酒場 1
三人並んで酒場に向かった。酒場の建物が見え始めてきたころだった。ミケが言った。
「捨てるんだったらもらわなければいいのに。蟹汁に罪はないんだからさ」
何やら言いだしたのはミケだった。状況がよくわかっていない俺が顔を見ると小走りに路肩に駆け寄りランタンをかざしてくれた。視線を追うと路肩に勇者教が配っていたぼちゃで作られた器がぽつねんと置かれている。
「え? 見えたのか?」
ミケに尋ねると教えてくれた。
「うん、どうやらあたしは猿族より夜目が利くみたいだね」
「へえ。俺なんかじゃ見逃しちゃうネ。そう言えば水鉄砲で飛んでる虫も撃ってたな」
「ふうん、やっぱりおじさまには難しいの?」
「俺には無理だな。出来る奴もいるかもしれないけど」
「ああ、あの人たちだね。黄色い服の男の子や帽子と髭の男の人。真似したなあ」
そんなことを話しながら器を見ていた。器は広がっている汚物の上にわざわざ置いたようだ。中には蟹の汁なのか何やら液体がランタンの明かりを受けて光を返している。
蟹の汁のお味がお気に召さなかったのか「こんなのウンコだぜ!」とかいう置いた奴の主張が伝わってきそうだ。
まあ、振舞ってるところに向かって突っ返すのも面倒だったのだろうが何も汚物の上にお供えすることもない気がする。しかしこの辺の感覚が俺と現地人では違うんだろうな。
俺は衛生観念が行き渡っている日本で生まれ育ったからかもしれないが、路肩にばら撒くよりはマシだが農村に運んで肥料にすることもなく川に垂れ流すのにも抵抗を感じていた。コスト的に農村に運ぶのは割に合わないらしい。
だが内政ものの小説みたいに環境汚染を防ぐために上下水道を整備していくなんて気の遠くなるようなことをするには意思も能力も全く足りない。進んだ文明の世界から来たからってなにか革新的なことを異世界にもたらせるわけじゃないという現実はあらゆる場面で突きつけられる。
俺がいるこの異世界は「小説家気分を味わおう」という小説投稿サイトで言われる中世ワーロッパ風の世界だ。剣と魔法、石造りの街という世界。夜になったからって街灯が連なる日本の都市のように松明がそこかしこに掲げられるわけではない。ましてや路肩なんて陰になっていて俺にはそこに何があるかなんて判別できない。
ちなみに今はサトミやミケと話しやすいように使っていないが俺が竹を使って高下駄を作ったのは汚物を踏んづけてしまわないための予防策だった。それにはこちらに来たばかりの大失敗が関係している。
ちょっと下の話なので遠回しに説明するがこんな感じ。
異世界で新生活スタートだなんて大学入学のために上京したころのように高揚していた俺は、浮かれ気分でロック アンド ロール。言ってみれば、おじさん オン ザ ブラウンウォーター。
俺はまるでチョコレート工場の窯あるいは有機廃棄物のドラム缶に落ちてしまった悲しいモンスターのように全身刺激臭を放つ液体にコーティングされた。
せっかく「小説家気分を味わおう」のエッセイジャンルで中世ヨーロッパは汚物が路肩に撒かれてたんです、だからコートやハイヒールが生まれたんです、というありがたい教えの言葉を頂戴していたのに教えを活かすことはできなかった。
つまり俺の異世界での新生活は汚物の上でロォーリィングスタァート。
今では笑い話だが、顔から火が出るほど恥ずかしくってその場から必死で、おじさん オン ザ ラン。
そのまま川にダイブで沐浴。なんとなく、人生観が変わった、なんてバックパック一つで自分探しにインドまで一人旅するような奴らが言いそうなことを思いながらの新生活の始まりだった。
まあ、わざわざ探しに行くほど大した俺など存在しないと思っていた俺が異世界に飛び込んでみるといろいろ気づかされることは日々発見する。
と、いうわけで俺の思い出話が長くなってしまったが、ミケにはその影に隠れていた器が見えたという。これもネコ族の特性なのか。夜目がかなり利くようだ。
「なあ、サトミも見えたのか?」
尋ねてみた。
「ううん。私はミケほど夜目は利かないと思うよ。鼻も意識して嗅ごうとしないと特に気にならないしね。でも耳は猿族が聞こえない音も聞き分けられるよ」
「そうか。まあ、確かに常にこの臭いを感じていたらやってられないな」
俺ですら最初は路肩の汚物から漂う悪臭に辟易していた。だがやがて慣れてしまって気にしなくなってしまった。サトミの鼻の良さでこの臭いを常に感じるなんて拷問に近いだろう。
「でも好評だったのにな」
「お忍びで来た貴族かもしれないなね。私は好きだけど食堂で食べたような食事を普段からしているような貴族には物足りないかもな」
「うん、でも夏じゃなくて良かったね」
「ああ、夏は臭いがすごそうだな」
「それもあるけどボウフラが湧いたら蚊に刺されて大変。この街にはこうもりもあまりいなさそうだしし」
「こうもりがいないとまずいのか」
ミケに尋ねると教えてくれた。
「こうもりは蚊を食べるんだよ」
「へえ知らなかった。でも結構好きなんだよな俺、こうもりって。動物と鳥の両方の気持ちがわかるのにどちらにも仲間に入れてもらえないって感じが自分を見ているようで」
「あたしも嫌いじゃないよ。っていうか好きだよ。飛び方も面白いし、結構かわいい顔してる」
「そうか。おじさまもそんなこと思ってたんだな。まあ私も嫌いになれないんだ」
「へえ、俺がいた世界じゃ嫌われてたな。なんとなく裏切者とか人の血を吸うみたいに思われて。まあ人に移る病気を持ってることもあるらしいから関わらないに越したことはないがな」
「そうか、私もどこかの船乗りから獣や人の血を吸うこうもりの話を聞いたことがある」
サトミはそう言うと軽く咳払いをし、意を決したように言った。
「よし。いい機会だから言っておこう。おじさまもミケも知らないかもしれないからな」
「なんだ」
「私たち犬族に向かって両手の人指し指を牙に見立てて口の前に並べる奴らがいるんだ」
なんとなくピンと来るものがあった。
「侮辱する意味だから私に向かってやる奴がいたらそいつは私の敵だ」
「じゃあ俺の敵でもあるな。あ、そうだ。ミケにもそういうのあるか?」
「う~ん、あたしは猫族のなかで育ったからなぁ。ただこっちに来るときにあたしを見ながら指を三本ほっぺたにつけてニヤニヤ嗤っている人は何人かいたね。猿族だけじゃなかったけど」
「それは猫の髭を表してるんだ。私は猫族を良く思わない犬族がいることを否定はしない。ミケに何かしたら許さないがな」
「まあ、どこにでもいるよね。視野の狭い人は」
「わかった。兎に角そういうことする奴はミケの敵だな。まあ俺がいた世界でも似たようなもんだ。文明は後世に伝えられるいけどなぁ。転生があるかはどうか知らないがどっちにしろ記憶は引き継げてないもん。間違いを繰り返しちゃうよな」
なんとなくみんな口を閉じ沈黙が降りた。
「さっ。これから飲むんだ。明るくいこうぜ」
俺の呼びかけに二人はうなずき微笑んでくれた。これから楽しい宴が始まる期待に胸が膨らんだ。二人の笑顔に別のところも膨らみかけたのは内緒だ。これを保身と呼ぶか気づかいと呼ぶか意気地なしと呼ぶかは自分でも決められなかった。モテる奴はこういう時どうしてるんだろう?
いや、ほんと、こういった記憶を持って転生でもできなきゃさ。人生なんて一瞬みたいに早すぎて、俺なんかじゃ成長できないネ。
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