16話『おかあさん』

 誰もいない家の中に向かって「ただいま」と声を掛け、靴を脱いで揃える。履き慣れた革靴を見て、今週末にでも、父親のと一緒に磨こうと決める。


 まだ陽があるから、台所の電気は点けない。制服を脱いで、部屋着に着替える。窓辺に椅子を持っていって、本のページを捲る。


 『母に贈る100の言葉』


 内容は、息子や娘から母親に当たられた手紙の数々だった。ひとことに息子や娘と言っても、関係は色々で、義理の娘もいれば、血は繋がれども、親子の縁を切ったという人たちのものもあった。


 天国の母親に、宛てた手紙も、あった。

 まだ6歳の、女の子のものだった。


「ママへ。げん気ですか? 天ごく ってどういうところですか? すうちゃんは げん気です。パパも げん気です。一生けんめい がんばります。ママがいないから パパが ごはんをつくります。パパは目玉やきが かたいです。すうちゃんはママの目玉やきがいいけど ママは もういないから すうちゃんがママの目玉やきつくれるようになります。ママ ずーっと 大スキ! ながの すみれ より」


 この子は、どんな表情で、手紙を書き上げたのだろうか。

 泣いてただろうか。泣けなかっただろうか。

 俺はどうだっただろうか。


 この手紙には、”さびしい”とか”悲しい”という単語は綴られていない。


 心が閉じた音がした。


「くそ、ザイツめ。どんな気持ちでこれを勧めて来たんだよ」


 カサブタを引っ剥がされた気がして、無性にイライラしてきて、それでも指は、目は、次のページを見つめようとしていた。


 と、ページの間から、パラリと何かが床に落下した。


「あ」


 栞だった。

 拾い上げて、挟んであったページに戻そうとして、そのページにだけ、蛍光ペンで線が引かれているのに気がついた。


『母さんだった人へ。俺は貴女を尊敬しません。貴女は俺たち家族を捨てました。自分の欲望のまま、いなくなった貴女を、どう尊敬しろというのでしょう。学校から帰ってきたら、家に貴女はいませんでした。出て行くという手紙だけ。貴女は、洋服も、靴も、化粧道具も、一切を置いて行きました。その行為が、どれだけ俺らを空っぽにしたか、貴女には分からないと思います。健二は一晩中泣いていました。姉さんは中学2年生だったのにも関わらず、部活も友達も捨てて、貴女の代わりに、俺たちに尽くさなければならなくなりました。父さんは貴女を思って気を病んで、今でも薬を飲み続けています。貴女のせいで、俺たちは滅茶苦茶です。でも、それでも、一番憎いのは、、俺自身です。俺は貴女が世界で一番嫌いです。でも、愛しています。お母さん、どうか、俺らを忘れないでください。K・Nより』


 『そんな貴女でさえ、未だに愛してしまっている』


 ザイツは、どうしてこの一文に印をつけたのだろうか。

 俺と同じく、母親がいないと言っていたが。


 俺は栞を挟み、そっとページを閉じた。

 最後の手紙は、若くして余命宣告を受けた青年が書いたものだった。親より早く旅立ってしまうことへの懺悔が綴られていた。俺は、どうして彼が謝らなければならないのか、分からなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る