3話『悪夢』

その日、俺は、ベッドから起き上がることができなかった。


「ルリ君、ルーリ君っ! まだお眠なの? ママ、行ってくるからね。パパのこと、起こしてあげてね」


「うん」


 両親は共働き。

母さんは家から自転車で通えるスーパーで朝早くから働いていて、父さんは都内の銀行で働いている会社員。

 俺は小学校に上がったばっかりだった。


 お寝坊な父さんを起こすのはいつも俺の役目。

でも、俺だって、朝に強い訳ではない。

その日だって、母さんが「行ってきます」を言っていたのに、俺は、「うん」と、まぶたをつむったままうなずいただけだった。


 母さんは、その日、「ただいま」をしなかった。



 授業の途中だったのか、休憩時間だったのか、お昼休みだったのか、もう覚えてはいない。

ただ、俺の大嫌いな先生が、笑ってしまうくらいに真っ青な顔をして、教室に飛び込んできて、俺の名前を大声で呼んだんだ。

 クラスにいた誰もが、何かあったんだって、気がついた。


 先生から何かを言われたけど、俺はその言葉の文脈を思い出せない。

俺の耳の中で今でも反響し続けるのは、あの年配の先生が発した、単語だけ。


「おかあさん」「事故」「お父さん」「待ってて」


 俺は、父さんが職員室に来るまでの間、ひたすらに床を見つめていた気がする。


「おかあさん」「事故」「おかあさん」「事故」「おかあさん」「事故」

「お父さん」「待ってて」「お父さん」「待ってて」



 そこからまた、俺の記憶は飛ぶ。



 次に思い出す場面は、どこかの、お寺。

緑色の畳に置かれた、白い、長方形の箱。


 父さんは、母さんが綺麗になるまで、俺に会わせなかった。


 当時のエンバーミングの技術がどれほどだったのか俺は知らない。

だけど、窓から覗く母さんの寝顔は、不気味なくらい、美しかった。


 俺は父さんに、最後にもう一度、母さんに抱き着きたいと願ったが、父さんは俺の言葉に声を上げて泣きじゃくり、「それだけは、どうしても、できないんだよ」と、何度も、「ごめんね」と、謝った。




 母さんの死因は交通事故だった。


 通勤途中、後ろから走って来たトラックにぶつかられたのだと。

 母さんは乗っていた自転車ごとタイヤに巻き込まれた。

 母さんの体はほとんど残っていなかった。


 父さんは葬式に、母さんを殺した運転手の家族を呼んでいた。

やつれた顔をした五十歳くらいの女の人、その後ろには、高校生くらいの女の子、その後ろには、中学生くらいの男の子がいた。


 父さんと女の人とのやりとりを後ろから見ていて、父さんとこの人が、以前からもう何度も会っている関係なのだと分かった。


 俺に気がついた女の人は、俺の前にしゃがみ込むと、真実を、洗いざらい白状した。


「居眠り運転」「刑務所」「もう二度と」


 女の人と、その娘たちは、手をつき、頭を畳に擦りつけ、ボトボト涙を落としながら、何度も、何度も、何度も、「申し訳ありません」と言った。


「許して貰えるなんて思っていません。恨まれて当然のことをしてしまいました。もし叶うならば、私の命を差し出したいくらいです。本当に申し分かりませんでした。本当に、申し訳ありません、本当に──……」



 翌朝、骨壺に納まった母さんを見つけて、俺は初めて、泣いた。

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