九月十七日

 それから一ヶ月、マルガレータはシャイロックのもとを訪れなかった。

 そうすればただれた交友関係に口を出す者もおらず、シャイロックは晴れて自由の身である。女の子を連れ込み放題、遊び放題。

 けれど今までのように女の子をとっかえひっかえするのもなんとなく気が引けて、彼は結局この一ヶ月をほとんど一人で過ごしていたのだった。日銭を稼いだり、友人とバーで管をまいたりする以外は主に家でぼんやりする日々が続いている。

 今までは何もしなくてもマルガレータの方から何かしようと楽しいことを持ってきてくれることが多かったから、シャイロックは何もせずに済んでいたのだ。

 それが急にいなくなってしまったものだから、今のシャイロックには空白だけが取り残されていた。

「……僕、おかしくなっちゃったのかなあ?」

 寝ても覚めても思い出すのはくるくるとよく変わるマルガレータの表情と、最後に見た苦しそうな顔ばかり。いよいよ鬱屈としてきて、シャイロックは大きくため息を吐くとベッドから起き上がって軽く伸びをした。

 せっかくの休日だ。こういう時は何も考えないで街をぶらぶらするに限る。そうしてドアを開けば、シャイロックの心とは裏腹に雲一つない晴天が広がっていた。昨日は雨だったくせに、なんだか神様さえ僕に意地悪しているみたいだ。

 街に一歩繰り出せばあふれかえる人、人、人。その中にはいくらかかわいい子もいて声でもかけようかなと足を向けかけて、やっぱりやめる。どうしてもマルガレータの顔が頭から離れないのだ。こんな時にナンパなんてしたって失敗するに決まっている。今日はやめだ。

 気を取り直してジェラートでも食べようかと思ってカフェに向かうけれど、お気に入りの店はどこも彼女と行ったところばかり。たったワンカップのジェラートをおごってあげただけなのにひどく嬉しそうにお礼を言っていた彼女の姿を幻に見て、シャイロックはますます気が滅入るような心地がした。

 ダメだ、この町はもう彼女との思い出ばっかりだ。

 この数か月間ずっと彼女はシャイロックと一緒にいたのだ。そのせいで、もうすっかりシャイロックの街は彼女との思い出に塗り替えられてしまったのだった。

 どこもかしこも彼女の面影を感じられてしまって、苦しくてたまらない。

 それならもういっそ、彼女のいないところに行ってしまえばいい。

 そう考えたシャイロックは電車を乗り継いである場所へと向かう。電車に揺られている間にも彼女を思う気持ちは降り積もってやまなかった。

 こんなの、おかしい。だってこんなのまるで……

 思考を巡らせているうちに目的地へとたどり着く。

そこは数年前に彼が見つけた、人知れず天空を映す湖だった。よく落ち込んだときなどに訪れていたそこは、シャイロックの心をいやすにはうってつけの場所。

 だから今回もきっと自分の心を洗い流すにはおあつらえむきだと、そう思ったのだ。

 けれど向かった先でシャイロックが見たのはいつも通りの美しい、けれど味気なく見える湖の姿だけだった。

 雲一つない青空をそのまま湖面に映して、まるで空と湖とがひとつになったかのような美しさは今日も健在だ。けれど、シャイロックは思ってしまったのだ。

 もしマルガさんにこれを見せたらきっと喜ぶだろうな、と。

 そう思えばたまらなくって、シャイロックは携帯電話を取り出すとマルガレータの番号を選んでかける。そうすればしばらくの待機音のあと、いつもより緊張で上ずった声が携帯から聞こえてきた。

「……ロック?」

「マルガさん、来てほしいところがあるんだ」

 そう出し抜けに伝えれば、彼女がひどく戸惑っているのが沈黙を通して伝わる。それはそうだろう。来ないでくれと言ったり来てほしいと言ったり支離滅裂もいいところだ。気分屋だと呆れられて切られてしまってもおかしくない。

「そこで今すぐ君に会いたい」

 それでもどうにか彼女に来てほしくって言葉を尽くせば、ハッと息を呑んだ後おずおずとマルガレータは彼に尋ねた。

「……どこに行けばいいの?」

 慌てて住所と駅名を伝えれば、彼女は一言「わかった」と言ったきり通話を切ってしまう。後に残されたのはぽつねんと一人立ち尽くすシャイロックだけだった。

 もしかしたら、もう僕を諦めてしまったのかもしれない。怒ってきてくれないかもしれない。

 それでも一縷の望みをかけてシャイロックは駅に向かう。ここから駅までは三十分くらいかかるだろう。その間にもし彼女がきてしまったら、そして駅に自分がいないとわかって帰ってしまったら……

 そう考えれば居ても立っても居られなくってシャイロックは病弱な体に鞭を打って走り出す。何が彼をそこまで駆り立てるのか、きっと彼自身もわかっていないのだろう。それでも衝動にかられて懸命に走っていったおかげだろうか、彼がたどり着いた頃にはまだ彼女の姿はなかった。

 駅の窓ガラスに映る自分は汗だくで髪の毛もぐちゃぐちゃでかっこわるい。けれどこういうのもたまには悪くないかもしれないと頬を緩めれば、ガラスに映った彼も嬉しそうに笑った。

「シャイロック?」

 そんな彼の後ろから聞き覚えのある声がかけられる。勢いよく振り向けばそこには白いワンピースに身を包んだマルガレータの姿があった。

よかった、ちゃんと来てくれた。

 安心した拍子に膝から力が抜けそうになって、シャイロックは慌てて足を踏ん張らせる。

「すごい汗だく。どうしたの?」

 今さっき電車から降りてきたのだろう。まだひんやりとした空気をまとったままの手のひらがハンカチ越しにそっとシャイロックの額に当てられる。そして汗を拭うようにぽんぽんと叩くマルガレータの細い手首をシャイロックの手が乱雑に掴んだ。

「来て欲しいんだ」

 そのまま彼女を引っ張ると駅前に止まっていたタクシーに押し込んで自分ものりこむ。そして行き先を告げればすぐさまタクシーは目的地に向かっていった。

「え、ちょっと。どこ行くの?」

「秘密」

 端的にそう告げるシャイロックにマルガレータは文句を言おうと口を開く。けれどもそれをふさぐようにキスをすれば、顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。

 そのまま目的地に着くまでの十分くらいだろうか。彼と彼女は無言のままずぅっと手を繋いでいた。

 そうして着いた先は、さきほどと同じ凪いで鏡面のようになった湖だった。そのあまりの美しさにマルガレータは大きく感嘆の息を呑む。

 すごい。こんな所が私たちの住む場所のすぐ近くにあっただなんて……!

 ありのままの自然の素晴らしさにはしゃぐマルガレータの姿を横目で見ながら、ようやくシャイロックは安堵の息を吐く。

 ああ、よかった。美しい景色は彼女と二人で見てようやく意味をなすのだ。

 それはきっと、これから見せることになるであろう様々な景色も、ずっと。

 さっきまでの味気なさはどこへやら。完成された湖の姿にシャイロックも喜びのため息を吐く。そうしてようやく気づくのだ。もうマルガレータがいなければ、日々が物足りなくなってしまっていることに。

 だからシャイロックは未だに横で目を輝かせているマルガレータに向き合うと、口を開く。

「マルガさん、その……」

 けれどもそれより先にマルガレータは背伸びして人差し指をちょんと彼の唇に突きつけると、甘い声でこう囁いたのだった。

「マルガって呼んで」

 全てを包み込むような、見透かしたような青葉の目がこちらを見つめている。

「そうしたら、許してあげる」

 その言葉に、シャイロックは今度こそ胸を熱く奮わせて彼女を抱きしめる。

 そうすれば耳元を彼女のはしゃいだ声がくすぐって、ひどく心地が良かった。

「うん。ありがとう、マルガ」

 この腕の中の小さなぬくもりを、今はずっと離さないでいたい。

 そんなことを口にする勇気はまだシャイロックにはなくって、けれども少しでも伝わるようにと強く強く抱きしめる。そうすればマルガレータも応えるように腕に力を込めた。

 そうして日が傾き始めるまで、ずっと二人は抱き合っていたのだった。




十月三日

 うららかな秋の日差しが窓ガラス越しにゆっくりとカフェテリアに降り注ぐ。絵に描いたような穏やかな午後、マルガレータはちらりと目の前に座る青年へと目を向けた。

「どうしたの?」

 そうすれば青空のような澄んだ瞳をシャイロックがこちらに視線を向ける。くすぐったくなるほど甘やかで、とろけそうなほどやさしいまなざし。

「う、ううん。なんでもない」

 慌てて取り繕いながらもマルガレータは一つの疑問に思考を巡らせる。

おかしい。

 最近シャイロックは嫌というほどマルガレータに甘かった。

 行きたいといえばどこへでも着いてきてくれるし、食べたいといえば後日用意しておいてくれていたなんてこともしばしば。

 それなのにデートは早めに切り上げて帰ってしまうし、家には入れてくれなくなった。

 何か隠していることは明白だ。

 浮気なら今まで通り隠す必要もないわけだし、私に飽きたなら彼のことだ、さっさと見切りをつけてしまうだろう。だからそれ以外のことできっとなにか私に言えないことがあるに違いない。

 けれどちっとも見当がつかずにマルガレータはうんうんと唸るだけの日々を送っているのだった。

「マルガ、体調でも悪いの?」

 気づかわし気に見つめてくるシャイロックの態度が嬉しくないわけではないのだ。好きな人に大事にされて喜ばない女なんていないだろう。マルガレータだって本当ならば優しくしてくれるのをただただひたすら純粋に喜びたい。

 それでもなお、疑りの心が出てきてしまうのは今までのシャイロックの行いがあまりにもよろしくないせいだった。

 やっぱり直接問いただしてしまおうか、とマルガレータが前を向いたタイミングで不意に後ろから声をかけられる。

「やっぱりシャイロックじゃねえか」

 シャイロックの名前を男が親し気に呼ぶなんて珍しい。大体の男性は恋人や妻に手を出されたと憎々し気に話すものだから、なおさらだ。

 その声につられるように後ろを向けば、そこには栗色の髪の青年がにまにまとした笑みを浮かべて立っていた。

「アドニス、君がカフェにいるなんて珍しいね」

「たまにはな」

 そう軽い挨拶を交わしながらもアドニスの視線はマルガレータから外されることはない。値踏みされるような、しかし好意的な目線が隅から隅まで向けられる。

 そうしてしばらくの観察の後、アドニスは得意げな笑みを浮かべてシャイロックへと手のひらを差し出した。

「どうやらこの前の賭けは俺の勝ちみたいだな。腑抜けやがって、良かったな」

「うん、僕の完敗」

 そう言って財布からいくらか紙幣を取り出してアドニスに手渡すシャイロックに、マルガレータは声を荒げる。

「ちょっと待って。ロック、脅されてるの?」

 慌てて彼をかばうように前に勇み寄る、けれど小柄なせいでちっとも庇えきれていないマルガレータの姿に男たちは顔を見合わせるとすぐに高らかな声を上げた。

「ハハ、悪かったな。別にアンタの彼氏をいじめてるんじゃあねえよ」

 彼の少し日に焼けた掌が乱雑にシャイロックの頭をかき撫でる。シャイロックも楽し気に笑っているのを見ると、どうやら二人は仲良しであるらしいとマルガレータは判断してほっと安堵の息を吐いた。

 アドニスはその様子をじっくりと眺めた後、先ほど受け取りかけたお金をシャイロックへと突き返した。

「彼女に免じてこの金は受け取らないでおいてやるよ。デート代にでもしろ」

「でも、」

 賭けは賭けだ、というシャイロックの手を乱暴にとると、アドニスはいくらか紙幣を握らせる。それは先ほど差し出した分よりも数枚多く見えた。

「いいもん見れたから、勘弁してやる」

 それだけ言って、アドニスは背中を向けて去ってゆく。後に残されたのは突然の祝福にぽかんと口を開けて戸惑う二人ばかり。

「……私で賭けしてたんだ?」

 ようやくそこに頭が追い付いたマルガレータの言葉に、シャイロックは図星を突かれて思わずさっと視線を逸らす。マルガレータはこれ幸いにとついでにずっとひっかかっていたことも追及することにした。

「他にも何か隠してることあるよね。悪いこと?」

「違うよ。確かに隠してるけれど決して悪いことじゃないから信じてほしいな?」

 そう言って首を傾けるシャイロックにますますマルガレータは疑いのまなざしを向ける。そのタイミングでマルガレータの携帯がメールの着信を知らせた。

「あっほら……何か来たみたいだよ。見なくて大丈夫?」

「誤魔化そうとしても無駄だから!」

 そう言いつつも携帯を手に取るマルガレータにシャイロックはふぅ、となんとか窮地を乗り越えた安堵の息を吐く。

 だから気づかなかったのだ。

 携帯を見つめるマルガレータの表情が凍り付いていたことに。




十一月八日

 少しずつ陽が落ちるのが早くなり、寒々しさが近づいてくる今日この頃、シャイロックはある文具店にいた。仰々しく並べられた万年筆や色とりどりのインクに囲まれたシャイロックはどうやら何十冊もあるノートの中からマルガレータへの誕生日プレゼントを選んでいるようで、その表情は真剣そのもの。

 そして十分悩みぬいた末に選んだのは、表紙にマーガレットの描かれた小ぶりのノートだった。紙がうっすら薄紫色に染まっていて彼女にぴったりだとシャイロックは独り言ちる。

 これに詩をうんと書きつけよう。幸いこの一か月で彼女に捧げる詩はたくさん書けたのだ。彼女に隠し通した甲斐があった。きっと喜ぶぞ。

マルガレータが喜ぶ顔を想像するだけで、寒いはずなのにシャイロックの薄い胸がぽかぽかし始める。シャイロックの十九年余りの人生で、こんなにも未来が待ち遠しいことがあっただろうか。彼はいつもすぐ隣にある死に怯え、刹那的な喜びにばかり身を浸して生きていた。

それが今、未来への希望を胸に生きている。

それほどまでに彼は浮かれ、胸をときめかせ、そうして来る未来が明るいものであると信じて疑っていなかったのだ。

 ああ、早く彼女の誕生日がこないかな。紫色のリボンに包まれた包みにほおずりしながら彼は家へと急いだのだった。

 この後に何が起こるかなんて、ちっとも考えやしないで。




十一月二十二日

 そうして迎えたマルガレータの誕生日は、気持ちのいいくらい突き抜けた青空が眩しい日だった。

 はつらつとした彼女によく似合う、絶好のデート日和だ。シャイロックもいつも以上に身なりに気を使って、とっておきの時にしか着ないトレンチコートに身を包む。

 今日はまるきりサプライズだ。彼女の行きたいところに行って見たいものを見よう。おまかせでというのなら彼女の気に入りそうなところに連れて行こう。

 そう意気込むシャイロックだったが、待ち合わせ場所に現れたマルガレータのリクエストは、想像とはまるっきり違ったものだった。

「ロックの行きたいところに行きたい」

 上品なラベンダーカラーのワンピースに身を包んで、いつもよりちょっぴりおしゃれをしたマルガレータはそう答えたのだ。せっかくおめかししてくれたのにそれでは味気ないだろう。シャイロックは慌てて何個か彼女の気に入りそうなところをあげつらってみる。

「せっかくなんだから映画とか……遊園地でもいいよ。思い出に残ることとかしなくていいの?」

 いつもの彼女なら飛び上がって喜びそうなデートコースだけれど、それでもマルガレータは首を縦に振らなかった。

「それもいいけど、やっぱりロックが好きなとこに行きたいな」

 そうしてとどめといわんばかりに上目遣いでおねだりをしてみせる。

「大好きな人の大好きなもの、見てみたい」

 そこまで言われてしまっては仕方ない。予定変更をして、今日は二人でのんびり街をぶらつくことにした。

 シャイロックの腕に細い腕を絡めたマルガレータは歩いているだけなのにひどく楽しそうで、時折こちらを見てふふふと笑うものだから彼にはもう可愛くってたまらない。

 いますぐ抱きしめてしまいたいのをこらえて、シャイロックはまず行きつけの本屋に足を運んだ。ここは古い本の品ぞろえが充実していて、古典文学なんかを読みたい時にはぴったりの場所である。ここでよくシェイクスピアなんかを買ってベッドの上で読むのがシャイロックのお気に入りだった。

 今以上に体が弱かった幼少期にはずっと本だけが彼の友として寄り添い、孤独を慰めて来たのだ。

 だからこの場所はシャイロックの思い出の場所であり、そしてこれからも愛し続けたいと思っている場所の一つだった。

 そして、その場所を他でもないマルガレータと共有したい。それがシャイロックが彼女を連れてきた理由であった。

 一方のマルガレータとしては流行りものはいくらか読んだことはあるが、古典文学に関してはちんぷんかんぷんである。それでも所狭しと並べられた本の数々に圧倒されて、わくわくした気持ちが胸の内から湧いて出た。

「ね、なんかロックのおすすめの本教えて」

 不意にマルガレータが本日二つ目のわがままを口にする。それくらいならお安い御用さ。初心者にも読みやすくって、分かりやすいものがいい。できれば楽しい内容のものを……

 そう考え抜いた末にシャイロックが手に取ったのは、一冊の詩集であった。買うときに店員にリボンをかけてもらうのも忘れずに。

「ハイネ詩集?」

「うん。僕のお気に入りの一つだし、何より読みやすくって面白いんだ。歌になっているものも多いから知っているものもあるんじゃないかな」

 情熱的な恋の詩を歌いあげてきたハイネはきっとマルガにぴったりだろう。そう思って手渡した文庫本を、マルガレータは両手で恭しく受け取るとまるで宝物を扱うかのように両手で抱きしめる。

 そして花が開くみたいに笑った。

「ありがとう。大事にする」

 その言葉だけでシャイロックの胸に甘やかなしびれが広がってゆく。

 ああ、幸せってこういうことなんだ。

 時よ止まれと、そう願わずにはいられないひそやかな時間。そんな時間が降り積もって、この先何年も何十年も続いていけばいい。

「ねぇ、他にはどんなところがあるの?」

 眩しい笑顔を浮かべたマルガレータがシャイロックに向けて問いかけた。若葉の目は期待にかがやき、愛らしいかんばせは微笑みをたたえている。そんな彼女の手をそっと取ると、シャイロックはエスコートするべく歩き出した。

「そろそろお昼にしようか」

 気づけばもう一時を回ったころである。その言葉に返事するようにマルガレータのお腹がくぅ、と切なげな音を立てた。恥ずかし気にお腹を押さえるマルガレータの様子に笑みをこぼしながらシャイロックが向かったのは移動販売のワゴンだった。

「ここのサンドが美味しいんだ。僕は野菜サンドにしようかな。マルガは?」

 その言葉にひょこりと背伸びしてお品書きを覗けば、そこには色とりどりの写真が所狭しと並べられている。うんと悩んだ末にマルガレータが選んだのはチキンサンドだった。

 早くできないかなあ、ロックはよくここに来てるんだね、なんて会話に花を咲かしている内に料理が出来上がる。マルガレータが手渡されたそれはこんがりとよく焼かれていて、添えられたマスタードが食欲をそそった。チキンなんかパンズからはみだしていていかにも美味しそうだ。

シャイロックが受け取った野菜サンドは名前の通りふんだんに野菜が盛り付けられている。オリーブやピクルスが良いアクセントになっていて、野菜だけと言っても飽きが来なさそうな一品だ。

「美味しそう!」

「じゃあ、いただこうか」

 そうして二人で同じタイミングでかぶりつく。口いっぱいにほおばるマルガレータの姿がまるでハムスターのようで愛おしく、シャイロックはくすくすと笑いながら彼女の口元についたソースをぬぐってやる。美味しいね、なんて語り合いながら味わっていればあっという間にサンドを平らげてしまった。

「美味しかった、ありがとう!」

 お礼を言うマルガレータの手を取って、シャイロックはまたお腹ごなしにゆっくりと歩き出す。

 そうして二人で向かったカエデ並木は、ちょうど見頃を迎えていた。真っ赤に色づいたカエデが青空に映えて見事なコントラストを作り出している。まるで一枚の絵画のようだった。

風に吹かれて舞い降りる葉に戯れるマルガレータを眺める時間はくすぐったいほど穏やかで、シャイロックの頬は自然と緩んでしまう。

 気づけば一時間は遊んでいただろうか、マルガレータがはじけるような笑顔でこちらに駆け寄ってくる。

「キャッチできたカエデ、ロックにあげる。持っていると幸せになれるんだって」

 そんなおまじないを口にしながらカエデを手渡す彼女の手は小さく頼りなくて、それなのにたくさんの幸せを運んできてくれる暖かな手だとシャイロックは良く知っていた。

「それじゃあ、僕は代わりにこれをあげようかな」

 ちょうどいいタイミングだろう。シャイロックはカバンからプレゼントのノートを取り出すとマルガレータに向けて差し出した。

「ハイネには敵わないけれど、君を思って詩を書いたんだ。受け取ってくれるかい?」

 そう甘く囁くテノールの言葉に、マルガレータが大きな瞳をますます見開いて喜びを露わにする。そうしていそいそとページをめくれば、そこには美しい流れるような字で詩が書きつけられていた。マルガレータは茜色の空の元最初の詩を読み始める。

「君を秋の日と比べてみようか。君の方がはるかに寒くて、短いだろう……?」

 君がいない日はあまりに寒くって、そのくせ一緒にいる時間はあまりにも短く感じられるから僕は凍えてしまう。

 そんな思いを込めてシャイロックが書いた詩だが、お世辞にも上手とは言えない出来だった。

「なにそれ、褒めてるの?」

 マルガレータはと言えば、シャイロックの詩を聞いてくすくすと笑い始める。

 本当はここは泣いて感動するところなんだけれど、笑ってくれるならまあいいや。つられてシャイロックも笑えば二人の笑い声が絡み合って楽し気なメロディを奏でる。

ああ、これからも隣でずっと彼女を見ていよう。彼女をたくさん笑わせてあげよう。

シャイロックがそんな誓いをこっそり立てていれば、不意にマルガレータがぽつりと声を漏らした。

「……もうこんな時間かぁ」

 空はもう夕暮れに色づいていて、風も冷たくなってきた。あまり体を冷やしてもよくないだろう。シャイロックは彼女を抱き寄せると頭を優しくなでる。

「そろそろ帰ろうか」

「…………うん」

 残念そうに頷くマルガレータの姿にシャイロックの胸が甘く締め付けられる。そんなにさみしがらなくてもまたすぐ会えるから大丈夫だよ。

 せめて少しでもさみしくなくなるようにと手を繋げば、いつもより少し強い力で握り返される。そしてマルガレータの家の前に着いた頃、彼女は少しの逡巡の後手をそっと離した。

 そして、彼女は振り返るとぽつぽつと心の内を語り始める。

「今日ロックの行きたいところに行ったのはさ、ロックの笑顔をいっぱい見ていたかったからなんだ」

 彼女の秘められた想いに、シャイロックの胸がじんと熱くなる。そんなのこれからいくらでも見せてあげるのに、なんて可愛いことを言うのだろう。ますます彼女への愛おしさが胸の内を占めていって抱きしめようと一歩を踏み出したところで彼女が口を開く。

「一生の思い出になった。ありがとう」

 そうしていつも通りの明るい笑顔のまま、マルガレータは軽やかに言い放ったのだ。

「だからもう、私ロックの事諦めるよ」

 残酷な別れの言葉を。

「………………え?」

 突然のことにシャイロックは事態をうまく飲み込むことができずに惚けてしまう。そしてようやく彼女の言葉の意味を理解すれば、ひとりでに大量の冷や汗が額に浮き出て皮膚をつたっていった。

「なに、それ。なんの冗談?」

 だって君は僕のことが大好きで、僕もそんな君のことが……

「現実を受け入れろ。メグはもうお前を諦めたんだ」

 想いを口走りそうになった瞬間、地を這うような低い声が二人の間に割り込んでくる。声の方に目をやれば、マルガレータの家の前には赤毛の青年が立っていた。褐色の肌が夕焼けに照らされて色濃く浮かび上がる。

「アーティ……」

 不意にマルガレータが彼の名前を呼ぶ。ひどく親しげなその呼び名に、シャイロックの胸の内が黒くわだかまった。

 アーティと呼ばれた彼は階段を降りるとマルガレータの肩を抱きそっと自分の方へと抱き寄せる。彼女もそれに抵抗をせずされるがままに身を寄せた。

「……さよなら、ロック」

 そうして彼女の小さな唇が震える声で別れを告げる。

 立ち尽くすシャイロックに背を向け、二人は寄り添うようにして家の扉へと歩いて行った。ドアが閉まる瞬間、マルガレータがこちらをちらりと振り返る。

「マルガ、」

 彼女のエメラルドの瞳には涙がたまっていた。けれど声をかけることすらかなわず無情にも扉は閉められてしまう。

 シャイロックはただただ、その扉の向こうにいるマルガレータを想って立ち尽くすことしかできなかった。

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