七月二十日

 爽やかな夏の風がマルガレータの制服の裾をひるがえす。そんなことなどお構いなしに彼女は早歩きで石畳を踏みしめるともうすっかり覚えてしまったシャイロックの家までの道のりを急いだ。

 今日はいつもより早く学校が終わったのだ。だからいつもより長くシャイロックと一緒にいることができる。そのことが嬉しくってたまらなくって足取りもいつも以上に軽かった。

 何をしよう。一緒に映画でも借りてきて見ようか。ゆっくりお茶の時間を楽しむのも良いかもしれない。

 きっと何をしても、シャイロックと一緒なら絶対に楽しい。

 そうしてたどり着いたもうおなじみのシャイロックの家。ドアを開こうとすればいつもはかかっていないはずの鍵がかかっていた。いる時はいつも鍵は開いているし、いないのだろうか?

 けれどそれだけじゃマルガレータは諦めない。なぜならつい先日、シャイロック直々に合鍵をもらったからである。しかも「好きな時に来ていいよ」とのお墨付きだ。

だからマルガレータは誰に自慢するわけでもないのに誇らしげに合鍵を取り出すと、意気揚々と鍵を開けて部屋へと踏み込んだのだった。

「た、ただいま!」

 見栄を張ってまるで一緒に住んでいるかのような挨拶をしてみれば、涼やかな声で挨拶が返ってくる。

「あら、おかえりなさい」

 それは、シャイロックの声では無かった。

 恐る恐る声の方に視線を向ければ、そこにはショートブロンドの美女がまるで我が家であるかのようにソファでくつろいでいる。お行儀悪く靴まで脱いで、しかもほとんど下着同然の姿でだ。

 あ、このパターンか。マルガレータはシャイロックの家で何度も他の女性に遭遇したことがある。だからこういうことはもう珍しくも何とも無かった。

 けれど、ふとある一つのことに気がつく。

 鍵がかかっていたのにこの人は中にいた……つまり、シャイロックは彼女にも合鍵を渡しているということでは?

 そう気づいてしまえば鍵一つであんなにも喜んでいた自分が急にみじめに思えてきて、マルガレータははぁと大きなため息をつく。そんな彼女をじぃっと見つめていたマリンブルーの瞳が、不意におかしそうに細められた。

「へぇ、もしかしてあなたがマルガちゃん?」

「え?」

 急に名前を呼ばれてマルガレータが慌てて前を向けば、いつのまに距離を縮めていたのだろうか。長身の彼女が見下ろすように間近でこちらを見つめていた。

間近で見ても肌はなめらかで美しい。真ん中分けで晒された額にはくすみひとつなかった。左目の泣きボクロが色っぽい。

まごうことなき絶世の美女、だ。

「シャールからたまに話は聞いてるの」

 シャール!

 あまりにも親しげなその呼び方に目眩を覚えるマルガレータとは対照的にブロンド美女は余裕綽々だ。もしかすると、もしかすれば……嫌な想像に背中に汗を伝わせながらマルガレータは恐る恐る尋ねてみる。

「もしかして……ロックの彼女……?」

 考えたくもないことだけれど、ここまで来たらもう聞いてしまった方がスッキリするだろう。そう考えて踏み込んだ質問を投げ掛ければ、彼女はうーんと少し首をひねったあと、からかうような笑みを浮かべてこう言った。

「さぁ、どうでしょう?」

 彼女だ!

 ますます確信を得たマルガレータは思わず崩れ落ちそうになるけれどすんでのところで踏みとどまる。恋敵にみっともないところは見せられない。

 わずかなプライドを頼りに、今にも泣きそうなのをなんとか堪えているマルガレータに追い討ちをかけるように彼女が歌うように告げる。

「でも私は彼を昔から知っているし、一緒に住んでいたこともあるわ。彼に一番近い女性は私じゃないかしら」

 その言葉にようやくマルガレータは反論をしてみせる。

「む、昔はそうだったかもしれないけど、今は私が一番彼と一緒にいます」

 正しくはどこに行くにもマルガレータがついてくる、と言った形だがそれでもマルガレータには彼と一番一緒に過ごしているのは自分だという自負があった。それは誰にも覆せない。

「でも、一緒にいるからって好きだとは限らないじゃない。私は彼に愛されてるって自信を持って言えるわ。彼の一番は私よ」

 その言葉にマルガレータの胸がじくりと痛む。

 私は彼に愛されている自信はちっともない。いつも自分ばかり追いかけていて、振り向いてもらったことなんて一度もない。でも、だからなんだというんだ。

「シャイロックは私が好きじゃないかもしれないけど、私は大好きなんです」

 そうだ。一番愛されているのは私じゃないかもしれない。けど、これだけは自信を持って言える。

「彼を一番好きなのは、私だ!」

 想いだけなら誰にも負けない!

 そう啖呵を切ったマルガレータに彼女はといえばしばらくキョトンとしていたものの、すぐにクスクスと笑い出す。そうしてマルガレータの後ろに向けて声を投げかけた。

「ですって。聞いてた?」

 その言葉に勢いよくマルガレータが後ろを振り向けば、そこにはニコニコとした笑みを浮かべたシャイロックの姿があった。

「そんなに好きになってくれてるなんて嬉しいなあ。ありがとうね、マルガさん」

 そう通りすがりに囁いて頭を撫でた後、シャイロックはブロンド美女に近づくと頬にそっと触れるだけのキスをして見せる。彼女も当たり前のようにキスを返していて、その光景はまるで一枚の絵画であるかのように美しく、自然だった。

 勝てない、という絶望感に苛まれるマルガレータに向き合うと、シャイロックはちょっと困ったように笑って告げる。

「マルガさん。彼女はシャルロッテ。僕の姉だよ」

「へ?」

 姉という単語に頭が一瞬フリーズする。姉。確かに一番近い女性だし、一時期一緒に過ごしていたのも頷けるし、昔から知っているのも当たり前だ。間違ったことは言っていない。でも。それでも……

「騙された……」

 ついにヘナヘナと倒れ込むマルガレータを見て、シャルロッテはと言えば満足げに笑っている。

「ごめんなさいね、可愛いからついからかっちゃったの」

 確かにたれめがちのスカイブルーの瞳や透き通るような柔らかなブロンド、気だるげな雰囲気など見れば見るほどシャイロックとよく似ている。それに気づけなかったのはマルガレータが色眼鏡で見ていたせいだろう。

「ロッテ、あんまりマルガさんで遊ばないでよね」

「あら、怒らないで?」

 くすくすと口を隠して笑う様は蠱惑的で色っぽい。改めてこの人がただの家族で恋敵じゃなくて良かった、とマルガレータはひとりごちた。ライバルだったら勝ち目がなさすぎる。

「それで、今日はどうしたの?」

「良い人がいないかなあって探しに来たついでに寄ってみただけよ」

 そしてやっぱりシャイロックとおなじくシャルロッテも恋多き女であるらしい。まるで合わせ鏡のようだな、と思いつつマルガレータは立ち上がると二人に告げた。

「それならまあ、私帰るよ。せっかく久しぶりに会えたんだしお姉さんとごゆっくり」

「え、マルガさんこそまだいてくれていいのに」

 目を丸くして引き留める素振りをして見せるシャイロックの姿に、マルガレータの口元は思わずにんまりと上がってしまう。まだいてほしいと思ってくれているならこんなに嬉しいことはない。

「ううん、邪魔しちゃ悪いし。じゃあまたね」

 それでも家族との時間は大事なものだ。部外者である自分が入り込んで良いものでもないだろう。そう結論づけてマルガレータは今日のところはお暇することにした。

 ひらひらと手を振るマルガレータを見送ったシャイロックに、不意にシャルロッテが言葉をかける。

「でも私びっくりしちゃった。今まで女の子に合鍵なんて渡したことなかったじゃない」

「そうだったっけ」

 とぼけて見せつつも、シャイロックは確かにそのことをよく分かっていた。自分が会いたい時以外は決して会おうとはしない。それが今までのシャイロックだった。

 けれどその今まで通りが少しずつ、少しずつマルガレータに崩されつつある。

「良いと思うわ。私ああいう子なら大歓迎。可愛いし、明るいし、それに……」

 確かめるように、信じようとするように紡がれた言葉は核心を突くものだった。

「不幸にならなさそう」

 その言葉にシャイロックは目を丸くすると隣の姉を見やる。自分を見つめるマリンブルーの瞳は、弟を心配する姉のやわらかな慈愛のこもったものだった。

「…………まさか。そんなんじゃないよ、彼女は。ただの遊び」

 そう言葉を絞り出すまでほんのちょっぴり時間がかかったことを、シャルロッテは見逃さない。

 けれどまだまだ認めるまでは時間がかかりそうなので、「仕方がないから今日のところは見逃してあげるわ」と囁いたのだった。




八月十七日

 また今日も夢を見る。

 魔女に呪われた時のお決まりの夢。

ああ、そんなに何度も言わなくたって分かっているよ。僕は誰にも愛されないし、愛したって返ってこない。本気になるだけ無駄なんだ。

 けれど心の中でそうつぶやきながら夢から覚めようとしたシャイロックの袖をつかむ人がいる。そちらの方に視線を向ければ、そこには涙を流すマルガレータの姿があった。

「マルガさん……?」

 彼女は何も言わずに、ただただ涙をその大きな目にいっぱいためてこちらを見据えている。それがまるで自分を責めているかのように思えて、胸がずきりと大きく痛んだ。

 そこで、目が覚めた。

 寝汗をびっしょりかいていて、張り付いた前髪が気持ち悪い。シャイロックは舌打ちと共に身に着けていたシャツを床に放り投げると大きな足音を立ててシャワールームへと向かっていった。

「シャイロック?」

 足音で目が覚めたのだろう。一晩を共にしたブロンドの彼女が様子を窺いにシャワールームまで顔を出す。それすらもなんだかうっとおしくって、彼はびしょびしょに濡れたまま部屋に踏み入ると財布から適当にお札を何枚か取り出して床へと放り投げた。

「タクシー代。あげるからもう帰って」

 普段ならあまりにも失礼な態度に女性の方も怒りをあらわにするのだろう。しかし、シャイロックの今にも人を殺しそうなほどの機嫌の悪さに気が付いたのか、お札を拾うと彼女はそそくさと部屋を出て行った。

 そうして部屋に静寂が訪れる。

 シャイロックはおざなりに体をタオルで拭き上げたあと、もう一度ベッドへと体をゆだねた。思い出されるのは、今日の夢でのこと。

 今まで女の人を泣かせたことなんて数えきれないほどあったのに、マルガレータが泣いているのを見た瞬間胸が苦しいほど軋んだのが分かった。それは彼女がいつも自分に笑顔を向けているからだ、単に珍しかったのだ、と自身の心に言い訳を連ねる。

 けれど思えば、他の女性はシャイロックの態度に呆れるか怒るかしてすぐに去っていってしまったけれど彼女だけは違った。

 どんなに呆れても、怒っても、なんだかんだ傍にいて「好きだよ」といつも恋心を囁いてくれたのだ。

 それがまぎれもない愛だと気づいた瞬間、耳元に呪いの言葉が蘇る。

『あなたを愛した者はみな、不幸になるわ』

 マルガレータが、不幸になる。

 その事実だけがシャイロックの胸に重くのしかかって呼吸を乱れさせた。

 彼女を好きかどうかなんて僕には言えない。けれど、あの太陽なような笑顔が失われるのだけは嫌だと強く思った。

 枯れかけていたシャイロックの日々に彩りを与えてくれた彼女。そんな彼女にまだ何も返せていないのだ。

 だからシャイロックは大きく深呼吸をするとまっすぐに前を見据える。

 その目には、悲痛な色をした覚悟の炎がともっていた。


「帰ってくれないか」

 そうして告げた言葉はひどく簡素で、ぶっきらぼうなものだった。

「え……?」

 いつものように食材を両手いっぱいに買い込んだマルガレータは部屋を訪れるなりそんな冷たい言葉を突き付けられて戸惑ってしまう。

「な、なんで……なんか私気に障るようなことした?」

「いいから、もう来ないでほしいんだ」

 思い返しても彼の機嫌を損ねるような真似をしたような覚えはない。だからこそ不思議でたまらなくって、マルガレータは眉を吊り上げると彼へと詰め寄る。

「急に一体何なの。理由くらい教えてくれたっていいじゃん」

 エメラルドグリーンの瞳は急な痛みに傷ついて潤んでいる。それでもその目にともる強い輝きは消えなくって、それがますますシャイロックの焦りに拍車をかける。

 ああ、本当にこの子は僕のことが好きなんだ。

 だからこそ、気づけば残酷なセリフが口からこぼれ出ていた。

「本気で好きな人ができたんだ」

 そんなの真っ赤な嘘っぱちだ。けれど、彼女を引き離すにはそれくらい言わないといけないと思ったのだ。思った通り彼女の瞳が見る見るうちに絶望に染まっていく。

「そっか……やっぱり、私とは遊びだったんだ……」

 やっぱり、という言葉にシャイロックの胸がつきりと痛む。それがわかっていてもなお、彼女はずっとシャイロックに愛を注ぎ続けていたのだ。返ってこないとわかっていても、それでも。

 その愛が今、終わろうとしていた。

「……わかった。今日はもう、帰る」

 食材を足元に置くと、マルガレータはくるりと彼に背中を向ける。その小さな背中がひどく頼りなく見えて、シャイロックは抱きしめてしまいたい衝動に駆られた。

 けれど、ダメだ。これは彼女の為なんだ。これでよかったんだ。

 そう思えばこそ、震える手のひらをぐっとこらえてシャイロックは家から去るマルガレータの後ろ姿を見送った。

 ずっとずっと見送っていた。

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