君という季節

折原ひつじ

四月一日

「あなたに愛という呪いをかけてあげる」

 記憶に残っているのは、美しくうねる亜麻色の髪。白い肌に映える赤い唇を歪ませて、彼女は囁くのだ。その光景を、きっと自分は死ぬまで忘れることはないだろう。

 それは、自分の運命を大きく変えた日のこと。

「あなたを愛した者はみな、不幸になるわ。だって……」

 そこでいつも意識が途切れる。いつからかシャイロックはその言葉の続きを忘れてしまっていた。ああ、またかと思いながら彼は重い瞼を持ち上げる。誕生日だっていうのに相変わらず嫌な夢を見るものだ。

 ぼんやりする焦点を合わせれば、そこはいつもの天井とは違っている。あれ、なんでだっけ。ぽりぽりと頭をかけば少し長めの金髪がさらさらと音を立てた。

昨日はたしか、バーで飲んで意気投合した女の子とそのまま……そこまで考えたところで、彼の隣で裸のままシーツにくるまれていた彼女が身じろぎをする。どうやら目を覚ましたらしい。昨日の余韻で少し声が掠れているのが色っぽかった。

「おはよう、シャイロック」

 ブロンドの短く切り揃えられた髪を揺らしながら挨拶をする彼女は可愛らしい見目をしている。今すぐにだって抱きしめたいくらいだ。けれどそれには一つ問題があった。

「……君、名前なんだっけ?」

 当の本人であるシャイロックが彼女のことを全く覚えてないということだ。手当たり次第に脳内に残っている女の名前をあげつらって正解を探してみるが、それはおそらく逆効果だろう。

「ローザだっけ。メアリー?」

 指折り数えて女の名前を口ずさむ彼の様子に彼女はしばらくの間あっけにとられていたけれど、事態を理解するとすぐさま眉を吊り上げて手元にあった枕を彼の顔に投げつけた。

「エリザよ!」

 なよっとした見た目の通り、頼りない体つきのシャイロックはそれだけでベッドに沈まされてしまう。痛みにうめいている間に彼女はさっさと着替えると怒りの勢いのままにシャイロックを外へと放り出した。

「早く出てって、最低男ッ!」

 そうして着の身着のままで外へ放置されたシャイロックはと言えば、特に怒るでも嘆くでもなくのろのろと着替えて髪を結わえるとその場を立ち去ったのだった。

「そんなに怒らなくてもいいのになあ」

 あえて言うなら朝食をくいっぱぐれたことだけが心残りだろうか。あっという間に彼女との楽しい昨晩の記憶を頭から追いやって、シャイロックは歩き出す。

 彼の姿が曲がり角に消えたタイミングで、シャイロックを追い出した彼女の隣室のドアが控えめに開かれる。そこで彼女はようやく自分が朝であるにもかかわらずあまりに騒がしくしたことに思い至ったのだった。顔を覗かせた隣人に向けて慌てて謝罪の言葉を述べる。

「ごめんね、マルガレータさん。うるさかったでしょ?」

 それに対してマルガレータ、と呼ばれた黒髪の少女はといえばへらりと気さくな笑みを浮かべるとひらひらと手を振ったのだった。

「構わないで。お姉さん、大変だったみたいだし」

 歳の頃は十七くらいだろうか。制服に身を包んだ彼女は通学の関係から親元から離れて生活している学生であり、お隣さんである彼女とはよく言葉を交わしていたのだった。

 だから今回のことも笑って済ませて終わる、はずだった。

「そう。昨日バーで出会ったヤツ、顔はいいけど最低な男だったの。マルガレータさんもああいう男には気をつけてね!」

「うん、ありがとう」

 そのままお互いドアを閉めて自分の部屋へと戻っていく。お隣のお姉さんの忠告を耳に入れながらも、マルガレータは心の中でわくわくしたものを感じずにはいられなかった。

 だってバーで出会う男女だなんて、なんだかロマンチックじゃないか。

 マルガレータだってお年頃だ。恋や愛に敏感な思春期なのだ。

 同時に将来の進路についての不安も抱いている複雑な時期。

 だからこっそりとある計画を思いつき、その小柄ながらも豊満な胸をときめかせながら朝の準備を再開させたのだった。

 その思いつきがまるっきり彼女の人生を変えてしまうなんて夢にも思わずに。




 よく磨かれた黒いパンプスが石畳とかち合ってスタッカートを奏でてゆく。上品なフリルのあしらわれたブラウスは猥雑な夜の街に似つかわしくなく、けれど彼女に動きに合わせて揺れるフレアスカートは夜を切り取ったかのような色合いをしていた。

いつもよりちょっぴり大人びた装いに身を包んだマルガレータは、内心で緊張しているのをどうにか隠しながらきらびやかな店の間をすり抜けてゆく。今まで夜に出歩いた事のなかった彼女にとって全てが珍しくって楽しくって、目まぐるしく目を奪った。

「お姉さん、ウチに寄って行かないかい?」

「ありがとう。もう少し見てからにするよ」

 歩いていればすぐ客寄せに声をかけられそれにいちいちお断りを入れながら歩いているものだから、ものの数メートルでマルガレータはぐったりとしてしまった。

キラキラとした照明に目がチカチカしてしまって、少し休みたくなったタイミングである店が視界に入る。そこはギラギラと客を誘う他のお店に挟まれて、ぽつねんと建って客を待っているような佇まいだった。看板を見ればどうやらバーであるらしい。

今日の目的はバーに行く事だったのだ。おあつらえ向きだろうと思ってマルガレータは決心を固めるとそぅっと木製の扉に手をかける。

店に一歩踏み入れれば瞬間、やわらかなピアノの音がマルガレータの耳をくすぐった。何度か演奏会などに足を運んだ事があり、多少耳の肥えた彼女でも引き込まれるような軽快なリズムの、けれどしっとりとした情緒をも感じさせるようなピアノの演奏だった。

一体誰がこんな演奏を、と音の出所を探してみれば、店の奥まったところで照明に照らされて鍵盤を叩く青年の姿が視界に入る。

うなじまで伸ばされた金髪をリボンで結わえたその男は、最後の音を弾き終わると立ち上がって店の客に向けて丁寧にお辞儀をした。パラパラとまばらな拍手が彼を包み込み、足元に置かれた箱にいくらかチップが投げ込まれる。

そうして顔を上げたタイミングで、ぽぅっと見惚れていたマルガレータのエメラルドの目と目がかち合う。そうすれば青空のような瞳をやわらかく緩ませて、青年はマルガレータに微笑みかけた。

その笑みの優しくとろけそうなことと言ったら!

その瞬間、マルガレータは気づいてしまった。

ああ、きっと私はこの男に泣かされることになる、と。

両手から溢れるほどの悲しみと喜びを与えられるのだという、確信めいた予感が彼女を貫く。

それでもいいと思った。それでもいいから彼のそばに行ってみたい。

気づけばマルガレータは店の客をかき分けて彼の元へと足を進めていた。そうして店の奥へ引っ込もうとしていた彼の袖口を掴むと、精一杯の勇気を振り絞ってこう告げたのだった。

「あの、良ければ一緒に飲みませんか?」

 青年はといえばそのたれ目がちの目を丸くした後、すぐさま微笑んで「もちろん」と答えてみせる。そうしてマルガレータの手を取ると、バーのカウンターまでそっとエスコートした。

「マスター、この子にロングランド・アイスティーを。僕はマティーニで」

 席に着くなり青年はマルガレータの代わりにマスターに注文をしてくれた。お酒のことなんてちっともわからないマルガレータとしては、みっともないところを見せずにすんだので内心でそっと胸をなでおろす。

「ありがとう、えっと……」

「シャイロック、シャイロック・ホワイトさ。美しいお嬢さん、君は?」

 美しいだなんて家族以外から面と向かって言われたのは初めてであるマルガレータとしてはもうどぎまぎしてしまってたまらない。

 緊張で思わず震えそうな声をなんとか正して、彼女はそっと自分の名前を口にした。

「マルガレータ・サリバン、です」

「そう、マルガレータさんっていうんだ。可愛らしい名前だね」

 可愛いだなんて、そんな!

 見え透いた口説き文句にも関わらず、マルガレータはすっかり舞い上がってしまってしまう。熱くなった頬を冷ましたくって、彼女は運ばれてきたグラスを掴むとその中身を一気に飲み干した。

 そうすれば、紅茶に似た芳醇な香りとほのかなコーラの甘みがすぐさまのどを潤してくれる。飲みやすくって美味しいし、アイスティーというぐらいだから度数もそんなに高くないんだろう。

 そう考える脳とは裏腹に、一気に腹の内が熱くなってゆく。

「あれ?」

 思わず漏らした声もなんだかふにゃふにゃとしていて、とろけていてしまりがない。自分はこんな声をだすような人間だったっけ。

 戸惑うマルガレータの肩にそっとシャイロックの手が回される。

「大丈夫?」

 ちょっと酔っちゃったかな、と心配する声は優しくって、そのままゆだった身を預けてしまいたくなるほど甘かった。素直にその欲求に従えば、彼の骨ばった白い手がマルガレータのウェーブがかった黒髪を撫でる。

 そうしていかにも気づかわしげに、シャイロックはマルガレータに囁きかけたのだった。

「ちょっと、僕の家で休もうか」




ふらふらとおぼつかない足取りのマルガレータの腰を支えながら、シャイロックは導くようにして道を行く。

 酔っ払ってふわふわとした頭の片隅に「知らない男の人の家に上がっていいんだっけ」という考えがよぎるけれど、アルコールの靄に邪魔されてうまくまとまらなかった。そうして歩いてゆくうちにシャイロックが足を止める。見上げればそこにはさびれたアパートメントが建ち並んでいた。

「ついたよ」

 そう耳元で囁く甘いテノールにますます体の力が抜けてしまう。そんなマルガレータを抱きかかえるようにして、シャイロックは部屋に連れ込むとそのままベッドに彼女を押し倒した。

 そうすればやわらかいシーツの感触が肌に気持ちいい。そのままうとうとと眠りに誘われるマルガレータの上に乗り上げると彼が額をこつんと合わせた。

「まだ寝ちゃだめだよ、マルガレータさん」

 どうして、だってこんなに眠いのに……

 だだをこねるようにいやいやとかぶりを振るマルガレータをあやすように、シャイロックはそっと頭をなでると頬に手を這わせる。

 あ、キスされる。

 そう思ってマルガレータはぎゅうっと目をつむって来るであろう感触へ備える。

 けれど、そのままシャイロックはゆっくりと前へ倒れこんで枕に顔をうずめた。

「へ?」

 声をかけるより前に、シャイロックの喉からげほ、とせき込むような音が漏れ出づる。そうして次の瞬間、ごぽりと彼の口から真っ黒な液体が溢れだしてシーツを黒く濡らした。

 酸化した血よりもさらにどす黒い、すべてを飲み込むような真っ黒な血が辺り一面を黒く染めてゆく。

 ひどくせき込みながらも、シャイロックはどこか冷静な頭でぼんやりと考えた。

 ああ、せっかくうまくいきそうだったのになあ。せめて気持ち悪いって怖がらせなければいいけど……

 そんなことを思いながら瞼を閉じようとした瞬間、ふわりと清潔なすみれの香りがシャイロックの鼻をくすぐる。そして次の瞬間、彼の頭を抱えるようにしてマルガレータが彼を抱きしめた。

 そうすれば口から流れる真っ黒な血が彼女の真っ白いブラウスをじわじわと汚してゆく。けれどそんなことお構いなしに彼女は彼を抱きしめながら、落ち着かせるように背中をゆっくりと撫でた。

 やわらかい胸の奥からとくとくと心臓の鼓動が聞こえてきて、少しずつ少しずつシャイロックの呼吸が整ってゆく。

 そうして完全に平静を取り戻した後、シャイロックはのろのろと口を開いた。

「その、ごめん……君のブラウス、弁償するよ」

 その言葉にマルガレータはへらりとした笑みを浮かべるとひらひらと手を振って否定した。

「大丈夫。それよりその……血の方が心配だよ」

 言外にその血の黒々とした異様さを指しているのだということを察して、シャイロックは小さく苦笑を漏らす。こうなっては仕方ない。少し長くなるけれど彼女に全てを明かすことにしよう。

 シャイロックはベッドの端に腰掛けると。ぽつぽつと自身の身の上を語り始める。

始まりは、随分幼い頃だった。ちょうどシャイロックが十歳になった日の事。

 見たこともないくらい美しい人が、シャイロックをこっそりと誕生日パーティーから連れ出したのだった。まだ幼かった彼はすっかり心を奪われて彼女に誘われるがままにしたがってしまう。そして……

「彼女は父に横恋慕していた魔女だった。母を憎んでまだ幼かった僕に呪いをかけたんだ」

心が手に入らないなら、せめて壊してしまえという狂愛の所業であったらしい。

 彼のスカイブルーの瞳に郷愁とあきらめの色が浮かぶ。何度も何度も夢に出て、刻み付けられてきた呪いの言葉。

「僕を愛する者に不幸が訪れるっていう呪いをね」

 それが九年前の今日のお話。その時からシャイロックの血は呪いで黒く染まってしまったのだった。そのせいでシャイロックは幼いころから母から疎まれ、隔絶されて育てられてきたのだ。母の面影を求めて女性をとっかえひっかえする悪癖が生まれたのも、無理もないことだろう。

 ここまで話して、シャイロックは内心で小さなため息をつく。

 魔女というのは、古来よりこの国にはびこる呪いそのものといった存在だ。大人が子どもを窘めるためだけの存在じゃない。見たことのある人間は少ないが、確かに存在しているものとして今でも魔女は人々に恐れられている生き物だ。

魔女と関わったと知られるだけで疎ましがられるような世の中だ。他でもないその魔女に呪われてるなんて気持ち悪いと思っただろう。

 そうして顔を上げたシャイロックの目に映ったのは、ぼろぼろと涙をこぼすマルガレータの姿だった。

「え……?」

 突然のことに言葉を失うシャイロックとは対照的に、マルガレータはしゃくりあげながらも一生懸命セリフを紡ぐ。

「そんなの、そんなの辛すぎる。私だったら絶対に耐えられない……」

「ね、マルガレータさん泣かないで。大丈夫だよ、君に呪いが移ったりするわけじゃないから……」

 ようやく我に返ったシャイロックが慰めの言葉をかけるけれど、彼女はぶんぶんと頭を振ってその言葉を否定した。そしてマルガレータがシャイロックの骨ばった手を取ってぎゅうっと握れば彼女のぬくもりが彼の冷え切った体を温めてゆく。

「代われるなら代わってあげたいよ。だって私、」

 涙に濡れたエメラルドグリーンの瞳がまっすぐにシャイロックの目を射抜く。そして桃色の唇がそっと真心の告白をした。

「あなたのことが好きなんだ」

 たった数時間前に出会った人だけれど、それでもマルガレータには分かっていた。これは一目ぼれだ。この人が私の運命の人だ。

 私、シャイロックが好きだ。

 だからその恋が伝わるように一生懸命言葉を紡ぐ。その言葉を受けてシャイロックはと言えば、やわらかい笑みを浮かべるとそっとマルガレータを抱きしめた。やわらかな金の髪がさらさらとうなじをくすぐる感触はこそばゆくって、そしてたまらなく愛おしいものだった。

「ありがとう、マルガレータさん」

 耳元でささやかれる声は優しくって、けれども穏やかでちっとも心を動かされていないことが分かってマルガレータは内心で小さく歯噛みする。

「けど僕を好きになったら不幸になってしまうから、ダメだよ。だから僕は誰のモノにもならないし、誰にも本気にならないんだ」

 そうして差し出された言葉は優しくも残酷な言葉だった。真綿にくるまれた拒絶に一瞬息が止まるほどの痛みがマルガレータを襲う。生まれて初めての失恋。このまま走り去りたいほど恥ずかしくって惨めだった。

 けれどなんとか踏みとどまって、歯を食いしばって、マルガレータは告げる。その目にはまだ希望の光がともっていた。

「それなら一年間、時間をちょうだい」

 その気迫に、あきらめないという強い心に、シャイロックは知らず知らずのうちに感嘆の息を漏らす。

「一年かけて、私は不幸にならないって証明してみせる。シャイロックを好きにさせてみせる」

 それは、恋の宣戦布告だった。

 シャイロックは一瞬呆気に取られていたものの、次の瞬間高らかに笑い声をあげた。だって今まで自分に寄ってくる女の子は誰も彼もシャイロックの見目の良さに惹かれて、そうして一晩を共にするだけの軽い関係だったのだ。

 だからここまで重い真心を込めた愛の告白をしてくる女の子はひどく物珍しく、魅力的に彼の目に映った。ちょっとした暇つぶしくらいにはなるかもしれない。

「いいよ」

 だから、シャイロックは気づけば肯定の言葉を口にしていた。

 その言葉を受けて、マルガレータの若葉の目に喜びの色がともる。そうして手を力強く握ると満面の笑みで彼女は笑いかける。

「よろしく、ロック!」

「うん。よろしく、マルガさん」

 交わされた誓いのキスは、ほんのちょっぴり血の味がした。

 こうして、始まりの物語が幕を開けたのだった。




五月二十日

 それから一ヶ月一緒に過ごしてみて、シャイロックについていくつか分かったことがある。

 まず、ものすごく女の人にだらしがないということ。

マルガレータが学校を終えて彼の家に遊びに行けば他の女の人がいた、なんてことは日常茶飯事だし、生活費を稼ぐためにバーやカフェでピアノを弾いていれば女の人に囲まれてちやほやされるのがシャイロックのお決まりだった。

 マルガレータも始めの頃はヤキモチを妬いたり彼をなじったりしたものだけれど、反省の色も見られず改善の余地もないことからいつからかそういうものだ、と割り切ることにした。そういう病気なのだ、彼は。のちのち自分に惚れてちゃんと一途になってくれればそれでいい。

 それから、とても体が弱いということ。

 生まれつきなのか魔女の呪いでなのかはわからないけれど、彼は風邪をひいてこじらせたり、むせて血反吐を吐くということがよくあった。

 シャイロックのかかりつけ医もこれにはお手上げで、せめて日常生活に支障がないようにと痛み止めを処方してくれているようだけれどそれじゃあ根本的な解決にはならない。なにかいい方法はないものかとマルガレータは最近足りない頭でよく考えるようになった。

 最後に、ろくな食生活を送っていないということ。

 冷蔵庫の中身はいつも空っぽで、味気ない少量のパンや簡単な味付けをされたスープと共に大量の薬を流し込む、というのが日常的な彼の食事らしい。そんな食生活じゃ治るものも治らないじゃないか。そう考えたマルガレータは最近シャイロックの家で料理の腕を振るうようになったのだが……

「なんかうまくいかないなあ」

 マルガレータは料理の方はからっきしであった。食べられなくはないけれど、さほど美味しくもない。今まで自分で食べる分には構わなかったのだがなんせ相手は好きな人だ。少しでも美味しいものを食べてほしいと思うのが乙女心。だからいまいち不格好なアラビアータを目の前にして、マルガレータはもう一度ため息を吐いたのだった。

「わぁ、アラビアータだ。僕これ大好き」

 知ってる。だから作ったのだ。

 横からキッチンを覗き込むシャイロックの頬は未だ赤く腫れている。女の人をひっかけたはいいものの何かへまをして怒らせてしまったクチだろう。マルガレータはテーブルの上に出しっぱなしになっている絆創膏を手に取ると、彼の頬を叩くようにして絆創膏を張り付けた。

「もう、今日も傷つくっちゃって……」

「ごめんごめん。ほら、冷めないうちに食べようよ」

 怒りのオーラを察したのだろう。シャイロックは慌てて謝罪したあと逃げるようにして皿に盛られたアラビアータをテーブルへと運んで行く。

 そうして今日も二人っきりの夕食が始まるのだ。

「うん、美味しいよ」

 しばらく味わった後、シャイロックが優しい笑みでマルガレータに告げる。

「ほんと?」

 彼が食べるのをじっと見つめていたマルガレータもようやくペンネを口に入れる。そうすれば及第点の味が舌の上へと広がっていった。まあ、悪くはないかな。

 それでも美味しいといってくれるのが嬉しくってにこにこと頬を緩ませるマルガレータの口元に、不意にシャイロックが指を這わせる。

「ふふ、ついてたよ」

 そのままソースをペロリと舐める口元が色っぽくって、マルガレータは食べるのも止めてぽぅっと見惚れてしまったのだった。

 彼が女性を連れ込むのは休日の昼か平日の深夜なので夕方から夜は二人で過ごせることが多い。だからマルガレータはこの夕食の時間が大好きだった。

 大好きな人が自分の料理を食べてくれて、ゆっくりとおしゃべりをするこの時間。何にも代えがたくって、愛おしくてたまらない至福の時間。

 だから作るのも、片付けるのも全部全部へっちゃらだ。

「マルガさん、今日もご飯作ってくれてありがとうね。僕嬉しいよ」

 夕食を終えた後、彼が彼女を抱きかかえるようにしてソファに座りながらテレビを見ていれば不意にシャイロックがそう囁いてマルガレータの頬にキスをする。こめかみに、耳に、また頬に。そして唇にそそがれるキスの雨がくすぐったくて気持ちいい。

 マルガレータはシャイロック以外の人とキスをしたことがないからわからないけれど、彼のキスはとても上手で甘く心地のいいものだった。思わずとろけてしまって、そのまま体をすべてゆだねたくなってしまう魔法のキス。

 彼のテクニックに応えるようにマルガレータも懸命にキスを捧げていれば、不意に彼がフフ、と小さく笑いを漏らす。

「マルガさんはいつも一生懸命でかわいいね」

 そう囁くアクアマリンの瞳は穏やかで凪いでいて、情熱の色は見受けられない。マルガレータの心の内で小さく舌打ちをする。

 ああ、私ばっかり好きなんだな。早くあなたも私だけを見てくれるようになったら良い。私のことばかり考えるようになればいい。

 そんな願いを込めながら、マルガレータは覆いかぶさる彼にまた一つささやかなキスを贈った。



六月十三日

 ピアニシモなれど少し動きを、そしてとても優美に。指の先にまで神経を行き届かせて鍵盤をたたけば、軽やかなピアノの音がさびれたバーに彩りを与えてゆく。

 そうして最後の音を鳴らせば、決して狭くはない一室にいくつもの拍手の音がこだました。足元に置かれた帽子に投げ込まれる小銭の音がからまって、独特のメロディーを奏でる。

 今日の売り上げもなかなか好調だ。これなら数日の間生活には困らないだろう。

 受け取ったチップを回収しながらそう算段を付けるシャイロックの背中に声を投げかける人物が現れる。それはシャイロックの数少ない友人、アドニスだった。

「よぉ、女たらし」

「やぁ、大酒のみ君」

 互いに憎まれ口をたたきながら二人は肩を寄せ合うとそのままバーのテーブルについて久々の歓談に花を咲かせる。

 この前出会った女のことや出先で飲んだエールが美味かったことなど、ただただ楽しいだけの何の生産性もない会話が次々に交わされてゆく。

 そうすれば不意にアドニスがにたにたと下卑た笑いを浮かべながらシャイロックへと問いかけた。長めの前髪に隠された目が好奇心に爛々と輝いている。

「そういえばシャイロックお前、最近噂になってるぜ。いつからそんな一途になったんだよ」

「えぇ、何の話かな。僕はいつだって女の子には真剣だよ?」

 全く身に覚えのない内容に首をひねればサラサラとした金髪が音を立てて揺れる。アドニスは肘で彼を小突くと、手元にあったエールを一気に飲み干した後に告げた。

「黒髪の女を最近よく連れて歩いてるって街の奴らが言ってる。ついにお前も年貢の納め時か?」

 黒髪の女……マルガレータのことだろうか。シャイロックはと言えば特段慌てた様子もなく自分もエールを仰いだ後、少しアルコールで頬を紅くしながら答えて見せる。

「うーん。他の子とも遊んでるけどね。でも確かに最近一緒によくいるなあ」

「なんだ。ついに一人に定めた訳じゃないのか」

 けろりと白状すればアドニスはつまらなそうにため息を吐く。もしそうならからかってやろうとしたクチだろう。そうやって酒のつまみにされるのはシャイロックとしても避けたい事態だった。

 とにもかくにも、別に彼女が特別だというわけではないと告げれば、酔っ払ったアドニスが冗談交じりの交渉を持ち掛ける。

「それなら俺にも貸してくれよ。随分上玉だって聞いてるぜ」

 その言葉に、なぜかちくりとシャイロックの胸が痛んだ。

 今までだってこういうことはよくあった。気に入った女を紹介するなんてことは彼との間ではザラだ。それでも……

「そんなことしたら、マルガさんが泣いちゃいそうだからやめておくよ」

 シャイロックの頭にほんの少しの罪悪感が芽生えて、彼女を差し出すことははばかられたのだった。

「やっぱりお気に入りなんじゃあねえの。よし決めた、今年中にソイツに惚れたら飲み代全部負担してもらうからな」

「言ってなよ」

 軽口を交わしながら、彼らは残りの料理をたいらげるとさっさとバーの外へと出る。そうすれば初夏の爽やかな風がアルコールで火照った体をさましてくれるようだった。

「さてと、誰かイイ女いねえかな」

 そのまま夜の街の暗がりへと足を進めるアドニスに着いていくようにして、シャイロックも物色を始める。また一晩の夢を見るために。

 ちらりとマルガレータの顔が浮かんだのは、きっと気のせいだと見過ごして。





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