7 その名前

 夜更けが近づく。

 収穫は零であった。しかしこうも暗いと森の中での詮索は困難を極める。


 いよいよ景色が霞みだし、歩く方向すら朧気となってくる。


「今日は終いだ」

 何とはなしに呟いた。もうため息をつくのにも慣れた。

 

 終わりを切り出し、クインエスは撤退する。森林を抜けると、彼女を慰めるようにして、海岸からの潮風が胸いっぱいに広がる。


 クインエスはいつもの寝床にしているところへと歩みを進ませる。


 彼女が現在寝床としているのは、岩で作られた防波堤。

 適当に搔き集めて作ったのが見て分るほどの雑な代物で、統一性はない。

 

 そこにたどり着いた彼女は、ひょいと身を乗り上げる。

 その際、丈の短い衣服を身に纏うクインエスの露出した柔肌に岩肌が食い込む。

 それを煩わしく思いつつ、クインエスはいそいそと道具袋の中から寝袋を取り出した

 粗末な寝床で、潮風が当たるといくら寝袋に身を包ませても凍えるが、ここなら見渡しが良く、森林地帯と町の方にも目線が通る。


 寝袋に包まると、疲れがどっと押し寄せて、そのまま彼女は眠りについた。



 瓦礫で積み上げた道を昇って星空を目指している。

 それらが急に崩れ落ち、自由落下するその身に理解は出来ないが確かな言葉の声が何重にも打ち付けられる。

 それは決して心地の良い言の葉の羅列ではなかった。どうしようもないくらいの黒い叫びは聞き飽きて、もはや彼女にとって子守り歌になりつつあった。


――妙な夢だった。寝床が悪いからか、それとも疲弊した精神状態のせいなのか、最近はこういった悪夢ばかりを見る。

 微妙に覚醒しきってない体がまず覚えたのは、早朝の真冬を彷彿とさせる潮風の語らいであった。

 歯こそ震えないが、その感覚は嫌だった。だから彼女は出来うるならばまだこのまま眠っていたかった。


 そんな怠惰的な誘惑を振り払いつつ、クインエスは重過ぎる瞼を開かせて、陽の光を注がせて一気に覚醒を促そうとさせる。

 しかしはて。太陽はまだてっぺんに昇り切ってはいないものの、その恩恵を僅かにでも感じることが出来ない。


「おかしいな、まだ夜だったか?」

 粘りつく口内を湿らせて、クインエスは呟いた。

「わ、生きている」


 聞き慣れない声が陽の代わりにと注がれて、驚いたクインエスは飛び跳ねるようにして起き上がった。

「いたっ!」

「あうっ!」


 温度は感じるが、弾力の欠ける何か。ぶつかったのは人体のどこかの部位だった。

 もはや接吻寸前とも呼べる距離にまで詰め寄っていた何者かが居たのだが、寝起きのクインエスは当然それを把握できずに、結果として互いの額をごっつんこさせてしまったのだ。


「もー! 生きているのならそう言ってよー!」

 意味不明かつ理不尽かつ何とも不謹慎な罵声を浴びせられるも、クインエスは怒りを覚えるよりもまず、この状況の混乱と痛みを解くのに必死だった。


 終わったはずの星夜が視界の端で踊っているような気もするが、ひとまずクインエスは件の声の方へと顔を向ける。


――天使。大げさな表現でも何でもなく、そこにいたのは天使そのものだった。

 宝石を砕いて染色として鮮やかに散りばめたような光色の髪。それは肩の辺りまで伸ばされていて、せせらぎを味わって揺れ親しんでいる。

 体格は程よく華奢でいて、その顔立ちはまるで神が磨き上げて作ったよう。

 大きく開いた瞳の色は深く、確かな輝きはしかし確実な愛くるしさを持ってこちらへと注がれている。きっと笑った顔も怒った顔も泣いた顔も全て彼女の色として鮮やかに彩られることであろう。


 やはりまだ完全に目覚めていなくて視界がぼやけているからなのか、それとも現実としてそうなのか。やはり彼女の容姿を一言で表すのならば、絵画にでも描かれている天使以外の言葉が思い浮かばない。


 肌もきめ細やかで瑞々しく、恐らくは今年で十六となるクインエスとの見た目的な年齢差はさほどないと思われる。


 だが、いつまでも惚けてはいられない。今更ではあるが、先ほどの出来事に対して沸々と怒りが込みあがってきた。


「説明しろ。なぜこの僕が起きて早々に訳も分からぬ痛みを味わい、そして罵倒されねばならないのかを」

 

 問われた少女は未だに痛むのであろう額に指先を添えつつ、答える。


「こんなところに誰かいるなーって思って近づいてみたらあなたが眠っていたから。迷惑かなーとはいちおー思ったんだよ?」

「思ったのに、か?」

「思ったんだよ? でも、あなた寝返りも打たないし、いびきもかかないから、もしかしたら凍死しちゃってるのかも! って思ってそれで――」

「――それで、あんな恋人の距離寸前まで顔を近づかせて観察していたって訳か?」

「うん! だってもし生きていて、眠っている最中に『もしもしー!』ってやられて起こされたらウザいでしょ?」

「……まあ、確かに。ウザいな」

「だから、ちょっとした動きも見逃さないぞーって思ってたら、つい」


 優しさと間の抜けた素敵な感性をハイブリットさせたとても個性的で素敵な少女であった。

 てへ☆ ってな感じで舌を覗かせる彼女に何とも言えない感情を覚えつつ、クインエスはおもむろにある方へと指を差した。

 指差した場所は町の広がる方。


「なんにせよ、ここに人が長居することは余り好ましくない。特に君みたいな女の子はね。いま僕が指差している方に進めば、人の住む町へとたどり着く」

「? 私みたいな女の子がここにいるのが危険ならなんであなたはいるの? ――そんな可愛い顔をして男の子なの?」

「おいおい、おもむろに視線を胸元に下げてそれで性別を判断しようとするな。――なんでなのかは、そこに言って誰かにでも聞けばすぐに分かるはずさ。僕の名前は『クインエス・カナ・ユークラック』。クインエスでもカナでもユークラックでも好きな呼び名を第一に発見した人間にでも言えば通してくれるし、君が知りたがっていることも教えてくれるはず。その際警戒心を解くという意味も込めて一応君の名も伝えておくといい」


 人と話すのは久しぶりであったが、何ともまあ綺麗かつ丁寧な説明と案内であったであろうと、クインエスは密かに自負していた。

 しかし、当の本人は何やら反応が鈍い様子。


「……名前」

 はて、なぜ彼女はありふれた日常の中で多く口にするであろうそれに疑問符を呟かせているのであろうか。

「そうだ! ねえ、ユー! 私にも名前付けてよ」

 クインエス・カナ・ユークラック。だから『ユー』。そういったところであろう。

 初対面の人との接し方が大分お上手にお見受けできるが、別段愛称で呼ばれることに馴れ馴れしさを感じた訳ではない。

「……リズベリー」

 そう、その『ユー』という愛称は亡き友人『リズベリー』が口にしていたものだったのだ。


「リズベリー? めっちゃセンスあってエモい名前~♪ 甘くてでもちょっぴり酸っぱい感じで良い響きだね!」

――久しぶりにそう呼ばれたため、恐らく亡き友のことを思い出してしまい、無意識に呟いていたのであろう。

 クインエスは慌てて訂正を試みる。


「いや、待て。それは無し」


 しかし当の本人は不服をぶーっと頬に含ませて拒否する。

「ええー? やだ! リズ、この名前気に入った!」

 リズって……。すっかりと気に入られている様子に、今更強く出ることも出来ない。


 しかし、ここに来てクインエスは今更ながらに妙な事に気づいた。


「なあ、君」

「君じゃない! りーず!」

「……リズ、名前を付けてくれっていったい?」


 彼女改めリズベリーは、儚くも思わせる笑みをたたえた。

 愚問であった。先ほどはあらゆる表情も彼女の彩りとして咲くと称したが、しかし今のこの表情は何とも彼女に似つかわしくない。

 

「ごめん、やっぱ聞かない」

「ううん、別に気にしなくていいよ。リズが生まれたところではみんな名前を付けなかったの。付けなくても不便を感じなかったからね。ただそれだけだよ」


 突然こんな所で出会い、あまつさえ名前すら無い。

 全てが不思議で、そして異様ではあった。


「そうか、聞かせてくれてありがとう」


 しかし、クインエスはそれ以上の疑問を彼女に投げかけることはしなかった。

 どこかで恐がっているのかもしれない。新たに関係を築くことに。そしてそれが親密となってかけがえのないものに昇華することに。


 出会ったばかりで、次会うかも分からない。そんなリズベリーに対して些か警戒し過ぎではあるとは思うが、それでもクインエスは心に重厚な壁を作ってしまっていた。


「僕はもうここを離れる。君もさっさとさっき示した方向に向かえ」

 クインエスは踵を返す。そして、最後に一つだけ言い残した。

「その名前、大切にしろよ」

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