風紀委員はもう『我慢』できない。
僕は今、自宅のリビングで正座させられている。
実の妹である弓音に――見降ろされながら。
「弓音……あのさ……」
「弓音さんって呼んで」
「はい……。あの、弓音さん……」
「喋らないで」
「……」
随分、ご立腹の様子で。
まぁ、当然と言えば当然だ。
僕は……中学三年生の時、結構派手に失恋した経験がある。
それが原因で、今はこんなスーパー陰キャになってしまったとさえ言っていいだろう。
……いや、さすがに嘘だな。その前から陰キャでした。調子に乗ってごめんなさい。
で。
そうなんです。弓音はその時、僕にこう言いました。
『兄貴。恋愛のセンス無いから、二度と彼女なんて作らない方が良いよ』
『ていうか、次作ったらマジで肋骨砕くからね?』
『家に女連れ込んだら――足の指折るから』
はい。そういう話になっておりました。
「足の指は……勘弁してください」
「喋んなって言ってるのが、わからないワケ?」
「……」
「はぁ……。……ボコボコにしてやろうかと思ったけど。やめた。兄貴と長い時間を過ごすのが嫌だし。――見逃す代わりに、条件を提示するわ」
弓音は……。
人差し指と親指で、丸を作った。
「……観音様か?」
「そう見えるなら、もっと敬ったら?」
「弓音様……」
「キモい。名前で呼ばないで」
「待て。実の妹を名前以外何で呼べば良いんだ」
「稲葉って呼んで。苗字」
「いやいやいや。稲葉はこの家にいっぱいいるだろ」
「そもそも呼びかけないで。キモキモだから」
酷いよぉ……。
お兄ちゃん、もう、心がズタボロなんですけど。
「金だよ金。……兄貴、まだ持ってるでしょ?」
「あるけど……。でも、三万を失ったばかりで……」
「じゃあどうする? 小指からにする?」
「うわ待て待てっ! トンカチをしまえっ!」
さすがに身の危険を感じたので、僕は立ち上がり、弓音から距離を取った。
「……そもそもだな。お前の嫌いな兄貴が、今更彼女を作ろうが、勝手な話だとは思わないか?」
「家に連れ込んでるのがキモいんだって。セックスしてる時だったらどうすんの」
「しないっての。……だいたい、あの人も弓音と同じだ。僕を説教するタイプの女の子だぞ」
「タイプ被り……。殺さないと……」
「物騒だな!?」
「その子を殺されたくなかったら、有り金全部出して」
「話が変わってる……!」
弓音は頑固な女の子だ。
簡単には引いてくれないだろう……。
僕は、部屋に戻り……。
福沢先生一人と。
財布の中に入っている……小さな小さな硬貨たちを、テーブルの上に並べた。
まるで……貢物じゃないか。さすが観音様。
「はい。上出来。そんで用済み。部屋に戻って? 顔見せないで? ほら早く」
「酷すぎるだろうよ……」
弓音がトンカチを振りかざしてきたので……僕は慌てて、部屋に退散した。
……とてもじゃないが、頭を撫でる云々の話をできる状況ではない。
はぁ……どうしよう。来月のお小遣い支給日まで、一文無しかぁ。
バイトでも……しようかなぁ。
◇ ◇ ◇
こうして私は、お兄ちゃんの全財産を奪うことに成功した。
これによって、お兄ちゃんは……。
……あの女とデートすることができない。
もちろん、関係性は、まだどの程度かわからないから、予防線を張りすぎているっていう言い方もできるけど。
お母さんにも適当な理由を話して、完全に収入をゼロにしてやろう。
まるで、大昔の戦争みたいなやり方だけど……これは、ある意味で『恋愛戦争』みたいなものだから、徹底的にやらないといけないんだよね。
だけど私は、失念していた。
昔からそうだ。
一つのことに集中すると、他のことが見えなくなる。
――頭、撫でてもらってないじゃん!
忘れてた!
バカすぎるっ……! あぁっ……! タイムマシンがあったら、今すぐに乗って過去に跳びたいっ! ついでにまだ若いお兄ちゃんにキスもしたいね。ぐへへ……。
……どうしよう。
あくまで理性的に責めると決めた以上、ここで『やっぱり頭を撫でてくだしゃぁ~い♡』なんて言い出したら、不自然すぎる!
仕方ない……少し状況の変化を待つことにしよう。
大丈夫……。私には、お兄ちゃんと同棲してるっていう、最強の地理的なアドバンテージがある!
どんな女が来たって、負けるはずがないんだから!
◇ ◇ ◇
お金がないと、ジュースも買えない。
そんな当たり前のことに気が付いたのは、学校に着いてからだ。
自販機の前で、空っぽの小銭ポケットを漁る僕は、さぞ滑稽だっただろうな。
友達がいたら――笑ってくれたかもな!
仕方なく、水道水で喉を潤し。
そのなんとも言えない味で、中学三年生の時の、陸上部での経験を想い出しつつ。
ようやく……束の間の休息。昼休みへと到達した。
母さんの作ってくれた、美味しい弁当を食べよう――。
そう思って、弁当箱を開こうとしたところ……。
「来なさい」
……出た。長浜さん。
周りの注目を気にすることもなく、僕の手を握って、グイグイ引っ張ってくる。
「いや、ご飯……」
「風紀委員室で一緒に食べるわよ」
「僕はここが――」
「友達が一人もいないのに、教室でご飯を食べて楽しいの?」
「うっ」
正論だけど、それ、僕以外のぼっちに絶対言うなよ?
と、心の中で釘を刺しつつ。
僕は、長浜さんと一緒に風紀委員室へ向かった。
「……食べないの?」
「えぇ。もう済ませておいたわ」
「トイレも?」
「えぇ」
「えぇっ……」
普段なら、顔を真っ赤にして、な~に言ってんのよぉっ! このセクハラ男っ! とか、返してくれるのに……。
やけに……凛とした目をしている。凛子だけに。
警戒しながら、弁当を食べ進めていると……。
「稲葉くん……。あの日のことを、覚えているかしら」
「あの日?」
「雨が降った日のことよ」
「……あぁ」
僕の手に……何かしらの力が宿った日のことだ。
「私……あの日から、ずっとおかしいの。……具体的には――あなたに頭を撫でられてから、ずっとね」
……長浜さんはもう、気が付いている。
誤魔化すのは難しいだろう。
「ごめん……。実を言うとさ、僕は……自分が手に入れた能力について、まだ何もわかっていなくて……」
「私は完全に理解したわ」
「え」
「教えてほしい?」
「う、うん……」
「……条件があるわ」
「……なんでしょう」
「……ごほんっ」
そんなわざとらしく咳払いする人、今の時代にもまだいたんだ……。
長浜さんは、立ち上がり……。
僕を見降ろして――言った。
「私のことを――好きにならないでちょうだい」
「……はい?」
いや――。
聞き間違いかと思った。
え。何を言ってるの? この人……。
「今、私のことを好きにならないでって……言いました?」
「言ったわ」
「その、えっと……」
「確かに私は可愛い。風紀委員として活動する、才色兼備な美少女。胸もそれなりに張っていて、健康的な体系をしているわ。だからって――好きになってはいけない。そう言っているのよ」
すごい自信だ……。
奥ゆかしさの欠片も無い。
逆に清々しくなってくる。
とはいえ……その条件なら、容易に飲むことが出来そうだ。
「わかった……。好きにならないから……教えてくれよ」
「本当ね? 本当に好きにならないわね?」
「ならない」
「むしろ、ちょっと嫌いなくらいの方が良いのよ? できる?」
「……多分」
「多分じゃダメ。今ここで――私のことを、嫌いって言いなさい」
「なにそれ……ドMなの?」
「良いから」
「やだよ……」
「じゃあ、教えないわ」
「えぇ……」
色々と、条件が多いし……理屈もハッキリしないなぁ。
けど……この手に宿った能力のことは知りたいから、素直に従おう。
僕は――長浜さんの目を、まっすぐに見ながら……。
「……嫌い」
はっきりと、言ってみせた。
すると、長浜さんの体がピクンっと跳ねて……。
「……っ」
辛そうに、唇まで噛みしめ始めてしまった。
しかも、拳を握りつつ、プルプルと震えている。
「え……大丈夫?」
「優しくしないでっ!」
「えぇ……何それ……」
「嫌いって言いなさい! 早く!」
「嫌い……」
「もっと!」
「嫌い……」
「まだまだぁ!」
「嫌い……!」
「うぁっ……」
長浜さんは……大粒の涙を流しながら……それでも僕から目を逸らそうとしない。
「ま、まだやるの? これ……。SMクラブじゃないんだからさ……」
「ぐすっ……。もう、結構よ……。これ以上は、私、水になっちゃうから……」
「そうですか……。……えっと、教えてもらっていいかな。僕の手に宿った能力……」
「……撫でた人の心を奪う――簡単に言えば、相手をメロメロにしちゃう。そういう能力よ」
「え――」
それは――。
全くの、予想外だった。
え、じゃ、じゃあ……長浜さんは――。
「稲葉くんっ……♡」
長浜さんが……僕の手を握ってきた。
涙を拭ったから、びしょ濡れだ。
しかも……震えている。
「頭……ナデナデして?♡」
「え、い、いや……。だって……」
「お願いよぉ! もう、これを『キメ』ないと私、ダメな体になっちゃったのっ!」
「一旦落ち着いて……。深呼吸深呼吸」
「ふぅうう~~~!!!」
「いや死ぬって。吸ってよちゃんと」
完全に気が動転してる……。
なんか……もしかして。僕が思っている以上に、事態が深刻になってない? これ。
「あなたに撫でられて、メロメロになる……。その時、脳みそから、じゅわわわぁっ……って、ヤバイのが溢れてくるのよ……。あなたが好きすぎて、どうしようもなくて……。……でも、それは偽物の感情。その手が生み出した幻覚。こんな好意を持ち続けるのは、意味の無いことよ。だから、嫌いって言ってほしかったの。本当に――関係が進展しないようにね」
なるほど……。
だから『私のことを好きにならないで』なんて、言ったのか。
僕さえ……長浜さんを好きにならなければ、何も起きない。
「え、でも。だったらさ……。そもそも撫でなければ……」
「言ったじゃないっ! もう中毒なのよっ! あなたのナデナデがないと、禁断症状が――」
「あ、ごめんごめんそれ以上言わないで。なんかヤバそうだから」
長浜さんは、さっきから……僕の手を引きちぎるくらいの勢いで、グイグイ引っ張り続けている。
仕方ない――撫でるしかないだろう。
「じゃあ……撫でるよ……?」
「……♡」
髪の隙間から……。
頭皮に、馴染ませるように……。
すぅ……。
「んぉっ゛♡」
びくびくっと、長浜さんが痙攣した。
口から――泡を吹いている。
「んっ、おっ、おほっ♡ おぉ……♡」
「おほって……。何それ……」
「もっとゴシゴシってしてっ♡ 乱暴なのが良いのぉっ!♡」
いや……。
これもう……エロ漫画じゃん……。
「んィ゛♡ ひぃい……♡ これやばぁ♡ 頭ぱっぱらぱーになっちゃうぅ♡」
「え……。あのさ。今、長浜さん……僕にメロメロになってるの?」
「なってるっ♡ キしゅ♡ きしゅしたいっ♡ ベロを、え~~ってしながら、んじゅるるるぅ♡ ちゅぱぁ~♡ ってしたいのぉ♡」
「う、うわっ!」
舌をべろべろと空中で動かしながら、長浜さんが迫ってくる。
さすがにこれ以上はマズいので、手を離し、距離を取った。
「はぁ……♡ はぁ……♡ んっ、ふぅ……♡ ……みたいな感じよ」
「みたいな感じよ。じゃあないよ。怖いって」
「なにを被害者面してるのっ!?♡ 困っているのは私の方よっ! 人の好意を操るなんてサイテー! 風紀委員として、絶対に許さないわっ♡ んっ♡ だからもっと撫でて♡ お願いしましゅっ♡」
「ひぃい……」
僕は――慌てて、風紀委員室から逃げ出した。
これから先――僕の学校生活……大丈夫なのか……!?
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