第10話 クラゲ、魂の彫刻(1)
クラゲがいなくても、実はアイデアを練っている段階だから問題ない。朝、起きようかまだ寝ていようかなどとダラケているとき、カレーをつくったのを思い出していた。クラゲには月だよねといって、ホタテの貝柱を海中から見上げた月に見立てたのだった。あんな風に、乳白色の風船をあげて月に見立て、下にクラゲをつるしたらいいかもしれない。そうすると、夜の海だ。月とクラゲに照明を仕込めばきれいだろう。
クラゲはここまで。起きてからいくら考えてもいいアイデアは浮かばなかった。プリンを買いにぶらり出かける。ためしに遠回りして海沿いの道にでて、水族館の前から駅の方に向かうことにする。九月とはいえ、日差しを直接受けると汗ばむくらい暖かい。風が吹くと心地よい。
気分がよくなって、どこか出かけたくなってしまった。久保田さんも学生なら、このまま誘ってどこか行ってしまえるのに。金子さんに迷惑ばかりかけているから仕事をほっぽりだして遊びに行くわけにいかない。
年間パスがあるから水族館に寄ってみる。ペンギンのオブジェが完成して以来、水族館の展示を観ていなかった。うす暗い通路を進む。南極の展示室へはいる。はいり口のところにペンギンのオブジェが颯爽と飛んでいる。棚氷を模した高さ二メートルのアクリルのかたまりが、この先は南極だぞ感をかもしている。これは沙莉の作品。ここにおいてもらって大正解だ。
正面に水槽のアクリルパネルがあって、展示室いっぱいに広がっている。観覧スペースへは、オブジェをまわり込んで水槽の正面からアクセスする。階段状になった観覧スペースをあがり、アクリル製棚氷の上で子育てするエンペラーペンギンのオブジェに挨拶する。掃除してくれているのだろう、ほこりが積もっているということはない。
水槽内の陸地と同じくらいの高さの段に腰をおろす。アデリーペンギン、キングペンギン、エンペラーペンギンが展示されている。三種とも南極に生息するペンギンだ。エンペラーペンギンだけは一羽しかいなくて寂しそうだ。以前にスケッチにきたときから動いていないんじゃないかというくらい、定位置でじっとしている。久保田さんが日本の和歌山にある施設から卵をもらってきて育てた。そのために一年間研修を受けたといっていた。
久保田さんが水槽にはいってきた。バケツを持っているから給餌の時間だ。給餌というのはエサをやることらしい。すぐに小型のアデリーペンギンに囲まれる。キングペンギンもノソノソ近づく。エンペラーペンギンは立ち尽くしている。
愛し気にペンギンに接する久保田さんを見ていたら、なんだか憎らしくなってきた。態度がちがくない?女の子にもっとやさしく接するべきだ。この場合の女の子とは沙莉のことだ。
いまごろ気づいて、まわりにほかの客がいないからだろう、無邪気に手を振ってきた。憎々しい。プリンを買いに出てきたついでに寄ったと、合図した。きっと伝わらなかった。いまはエンペラーペンギンにエサを与えている。食欲旺盛ではないらしく、クチバシに押しつけるようにして給餌している。なにか話しているみたいだけど、これは水槽内の空調や水の循環する音なのか、南極に吹く風をあらわすためにスピーカーから出しているのか、ノイズがあふれていて、アクリルの壁の向こうでなんといって話しかけているのかはわからない。
南極の展示室をでて、ついでにひとまわりする。そうだ、クラゲの展示をよくみたらいいかもしれない。クラゲのコーナーには、とりどりのクラゲが各水槽に展示されている。ミズクラゲは、大きな水槽。上は天井につながっている。クラゲが水流であがってはパラパラと降ってくる。個体数が多いから洗濯でもしているように見える。ドラム式だ。
こんな風にいっぱいクラゲをつくったら面白いかもしれない。まだどうやってクラゲをつくったらいいかわからないけど。
「ああ、相内さん。クラゲを見にきたんですか」
「ちがいます」
「どうしたんですか」
「そんなに警戒しなくても大丈夫です。プリンを買いに出てきたんです。ちょっと遠回り」
「天気いいですからね。遠回り日和です」
久保田さんがにっこり。憎い。
「はひふふんでふか」
「人の気も知らないで、無邪気だからですよ。普通ならキスしてやるところです。ほっぺつまんで許してやってるんだから、ありがたく思ってください」
「ありがたい」
解放されたほっぺをなでている。
「クラゲの調子はどうですか」
「悩み中です。これを見てたら、いっぱいクラゲつくったらいいかなと思いました」
「参考になってよかったです」
「やっぱり動きがほしいですよね。宙に浮くようにして扇風機で空気の流れをつくるとかかな」
「あれ?木を彫るっていってませんでした?」
「それはあのときのことです。どんどん変化するものですよ、人の考えなんて」
「フレキシボー。宙にはどうやって浮かすんですか」
「どうしたらいいですかね。小さい熱気球みたいのがすぐ思いつきますけど、いっぱいつくってごちゃってなったら燃えますね。却下だなー」
「ヘリウムガスですか?」
「風船ですね。クラゲっぽくない気もするけど」
「満タンにしなかったらいいんじゃないですか?なんとなく形になるくらいで」
「なんですかそりゃ。そんな解決法が?」
「ガワを軽く作らないとですけど。風船みたいにパンパンにしたくないってことですよね?」
「ほほう。わたしには思いつかなかったですよ。候補ですね」
「南極でバルーンをあげるんですよ。たぶん上層大気のオゾン濃度かなんかを測るために。すっごい高いところまで上げなくちゃいけなくて、気圧が下がって中の気体が膨張するから、破裂しないようにすこししか気体をいれないんですね。それをイメージしました」
「久保田さんならではのアイデアですね。惚れなおしました」
「いや、おかまいなく」
「なんですか、迷惑だってんですか」
「遠慮深いんです」
「遠慮には及びませんよ?わたしたちの仲じゃないですか」
「光栄至極にございます」
「よろしい」
久保田さんは、明日のエサ解かさなくちゃといって仕事にもどっていった。
プリンをふたつ買って、ぶらぶらと久保田さんの部屋にもどった。夜には仲良くプリンを食べることができた。久保田さんの希望をかなえてあげたのだ。
月に見立てた風船をあげる。クラゲは大量につくる。クラゲはプカプカ浮く。できたら光らせたい。ここまで決まったところで停滞している。昨日もなにも進まなかった。
いまは水曜日。久保田さんの休みの日だ。ステファニーの葬式の日でもある。ステファニーが溶け込んだ水槽の水をバケツに移して外に出ると、あいにくのくもり空だった。ぶらぶら久保田さんと並んで海まで歩く。堤防を突端までゆく。見下ろすと、テトラポットに海水がちゃぷちゃぷ波打っている。
「じゃあ、葬式ってことで、海にぶちまけますよ」
「はい、景気よくやっちゃってください」
久保田さんがバケツの口とお尻の部分に手をかけた状態で腰をひねって力を蓄える。沙莉はさがってすこし距離をとる。頭からぶっかけられてはかなわない。
ステファニーは、
さあっと膜のように広がって、
薄くもりの空に舞い上がり、
落ちた。
海面でぱしゃあっと音をたてた。
あっけないものだ。堤防の端まで行って、ステファニーのお墓である海面を見下ろす。見分けなんかつかない。ステファニーは海になった。
人間も同じ。
死んだら自然に帰る。
阿久津さんは火葬された。
ほとんどが煙になって
空気にまざった。
人間はかたいから、
白いカルシウムのカケラだけ
空気にまざれなかった。
久保田さんのとなり、手で腕に触れた。行きましょっかといって、手をとってエスコートしてくれる。
海の見えるシーフードレストランにはいった。前回きたときと同じ窓際の席だ。いまは窓が全開になっていて、ほとんどテラス席といっていい。実際にテラスはあるけど、席を設置していない。くもりだから、この席にすわって気分爽快というわけでもない。
「このあと遊園地に行くんですか?」
「帰ります」
「鯛でひどい目にあわされたんですけど」
「鯛おいしかったでしょ?」
「まあ」
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