第5話 ステファニーはどこ?(1)
玄関のドアを開ける。久保田さんの部屋は久しぶりな気がした。二週間ぶりくらいか。うん、かわりない。駅から途中、水族館に部屋の鍵を借りに寄った。昨日のうちにメールして、鍵を貸してもらうことになっていたのだ。
キャリーケースは玄関に置いて部屋にあがる。クラゲの水槽に一匹のミズクラゲが浮いている。ホールのケーキを立てたような、丸い水槽だ。前面のアクリル板に軽くデコピンして挨拶する。またよろしくね。反応はない。
洗面所の流しで雑巾を濡らして、玄関に放置したキャリーケースの車輪を拭く。久しぶりなんていって感傷に浸っている暇はないのだった。荷物を解いて買い物に出かけなければならない。
買い物は何度もきている大型スーパーで済ます。大型商業施設の一階にはいっている。ケーキ屋が目にはいってしまう。店の前が通路になっているのだから仕方ない。ああ、プリンも捨てがたい。金曜日とはいっても、明日も久保田さんは仕事だ。休前日の華やかな夜をすごせるわけではない。アルコールも飲まないことが多い。以前沙莉が泊まっていたときは気を使っていたのか、毎日ではないけど一緒にビールを飲んでくれていた。あのときは、いろいろなことがあった。思い出してテレてしまう。
ケーキもプリンもガマン、食料の買い物をする。久保田さんのために料理するようになって沙莉は腕をあげた。いまは苦手意識を克服した。むづかしいレシピだってつくる自信があるし、オリジナルレシピだって考えてしまえる。今日のカレーは、昨日の研究成果にすこしアレンジを加える予定だ。
久保田さんの部屋のソファでクラゲをスケッチしていると、玄関のチャイムが鳴った。すぐに鍵をあける音がして、久保田さんが姿をあらわした。
「おかえりなさい」
「た、ただいま」
照れているのか、ぎこちない。
「夕飯はカレーですよ?すぐ食べますか?それともお風呂?それとも」
「カレーで」
「なんで最後までいわせないですか」
「なにかとメンドウなので」
バッグを肩にかけ、靴をはいたままの久保田さんを、腕ごと抱きしめる。
「相内さん、アウトです」
「あとツーアウトあります」
「ツー、スリー。カンカンカンカン。相内さんの負けです」
「わたしはいつも久保田さんに負けてます」
「とてもそんな実感はありませんよ」
「鈍感だからです」
「もう離してください。匂いかぐのもやめてください」
「いいじゃないですか、ケチ」
「変態チックですよ」
「女の子は匂いに敏感なんです」
「敏感ならそんなにくっつかなくても大丈夫じゃないですか」
「くっついているのは匂いのためじゃありません」
「どうでもいいから離してください。やっと家に帰ってきたのに玄関に立ちっぱなしはやるせないです」
「仕方ないですね」
久保田さんがわがままをいうから解放してあげる。
「なにしてたんですか?」
「肌を磨いてました」
バッグを所定の位置に置きながら振り返る。
「クラゲのスケッチですか」
ソファに放置したスケッチブックに気づいたらしい。久保田さんのえっち。
「で、もう風呂にはいったんですか?」
「一緒にはいりたかったですか?」
「ノーサンキュー」
「また背中お流ししましょうか?」
「ノーサンキュー」
「ひとり寂しくはいるんですか」
「そうです。相内さんは誰かとはいりたいんですか?」
「誰かじゃなくて久保田さんです」
「ところで、ほかのことに気をとられて気づかなかったんですけど」
「なんでしょう」
「見覚えのあるキャリーケースが置いてあるんですけど」
「はい、愛用のキャリーケースです」
「なにをもってきたんです?」
「生活用品です」
「えーと、泊まっていくつもりですか」
「はい」
「まえ泊まりにきたときは大きめのトートバッグくらいだったと思うんですけど」
「はい、キャーリーケースを見たのはどんなときだったでしょうね」
「二週間ちかくご滞在あそばしたときでしょうか」
「正解」
「まさか」
「まさかの長期滞在です」
「聞いてませんよ」
「言いませんでしたね」
「どんな奇想天外ないいわけでもって、長期滞在することになるわけですか」
「クラゲです」
「ああ、クラゲね。意味わかりません」
「得意のノリツッコミですね」
「クラゲって、この水槽に浮いてるステファニーのことですか」
「そうですよ」
「ステファニーはスルーですか」
「夕食は華麗です」
「では、その華麗なカレーを食わせてください。話はそのあとでじっくり煮込みましょう」
「残念ながら、今日のカレーはあまり煮込まないやつです」
「香り豊かなやつですね」
「スパイス・アンド・ハーブ」
「企業のまわし者っ」
久保田さんは手と顔を洗い、うがいをするために洗面所に姿を消した。
「なんじゃこりゃ、すごいですね。相内さんのオリジナリティが爆発ですか」
クラゲの頭を横から見たような形にごはんを整え、周囲をカレールウが満たす。白ワイン蒸しにしたイカで足を表現し、各種野菜で海底をあらわした。イカと一緒にワイン蒸しにしたホタテ貝柱で海中から見上げた月を表現したつもり。クラゲに月はツキもの。ふふふ。
「アスパラはあぶってあるんですね。手が込んでる」
カレーの皿をテーブルにのせたときの反応は上々。スプーンですくって一口。
「ああ、本当だ。こってりまろやかというより、さっぱりピリカラです。スパイシー」
「手作りカレー久しぶりじゃないですか?」
「そのとおりです。しかもこんなにうまいとは。料理の腕がすっごいあがってます」
「まえはひどかったっていうんですか」
「いや、そんなことはないけど。怪しいなと疑いをもってました。四十肩くらい」
「久保田さんのおかげですけどね」
大人用の大きいスプーンでカレーを食した。食後はアイス。久保田さんは冷凍室に常備している。
「でも、ちゃんとカレーの色しててよかったです。こだわりすぎてカレー青かったら食欲減退しちゃいますね」
「くっ。まだまだですね。修行して出直さないと」
「なにがです?」
「カレーに色をつけるなんてことに気がまわりませんでしたよ」
「そんなの気づかなくていいっていったんですけど」
「芸大生落第です」
「いやいや、女の子合格ですよ」
「本当ですか」
「すばらしい出来でした」
久保田さんが頭をなでてくれる。心地よい。
「頭ナデナデだけですか」
「なにか欲しいものでもあるんですか」
「キスとか」
「いくらで売ってるんですか」
「プライスレス」
「非売品ですね」
「店長と仲良くなると特別にもらえるんです」
「ナデナデだけで」
久保田さんのガードはかたい。沙莉は距離を縮めることができずにいる。昨日完成したほやほやのスプーンをケースごとテーブルに置く。
「完成ですね」
「はい、そのご報告ですからね」
スプーンの完成報告と夕食の支度という名目でアパートの鍵を借りたのだ。
「やっぱり途中で見たのとちがいますね。輝いてる。それにペンギンのヒナがグレードアップしてます」
「やるでしょ?」
「あ、すごい。足の指がスプーンの端にかかってる」
久保田さんは、美少女フィギュアのスカートの中をのぞくように、ケースに入れたままのスプーンを横からながめている。
「芸が細かいでしょ」
「芸術ですね」
「爆発です」
「これは宝ですね。大切にしてもらいたい」
「本当です」
「忘れかけてましたけど、長期滞在。理由を教えてください」
「あれ?ほめてくれないんですか」
「思いっきりほめてたじゃないですか」
「言葉だけじゃなくて態度で示してもらいたいものです。キスとか」
「ナデナデですね」
また頭をなでてくれる。やっぱり距離は縮まらない。
「それで、滞在理由は」
「つまりあれですよ。創作活動に協力してください」
こういわれると、久保田さんは断れないはずだという計算ができている。数学的事実だ。
「創作というと、ここでなにか作るってことですか」
「そう、ここでクラゲの彫刻をつくるってことです」
「クラゲ、水族館にいますけど」
やっぱり。そうくることはお見通しだ。
「水族館でお店ひろげてコンカンコンカンやっていいんですか。鬼気迫る表情でノミにカナヅチ振るっていいんですか。子供にトラウマを植えつけることになるかもしれませんけど」
「そんなことをおれの部屋でやるっていうんですか」
「そうですよ」
「それは大学の課題」
「ちがいます。創作活動です。生きることは作ることなんですよ。つねに作りつづけるんです」
「本当ですか?前回の長期滞在のとき、二週間くらい創作活動してなかったんじゃないですか?」
「まあ、たしかに?つねにっていうのはいいすぎかもしれませんけど、今は創作意欲が湧きたっているんですよ」
「はあ。それはどのくらいの期間ですか」
「九月中に終わらせるつもりです」
「長いです。スプーン三日くらいでつくってたんじゃ」
「あれは短かったですね。長くかかるときもあれば、短くすむときもあるんです」
「はあ、どうしてもここじゃなくちゃダメですか」
あとひと押しで落ちる。
「当然です」
「クラゲを貸し出すというのでは?」
「は?」
「水を抜けば水槽は運べる重さです。相内さんの家で人工海水を作っていれることにして、クラゲも袋に入れて運べば大丈夫だし」
「久保田さんがうちに泊まるってことですか」
「なぜそうなるんですか」
「クラゲがうちにくるからですよ」
「クラゲの世話のことですか」
「そうです」
「毎日一回餌をパラパラっとまくくらいできます」
「食べますよ」
「食べても水っぽいだけです」
「久保田さん食べたことあるんですか」
「ないけど、九十パーセント以上水ですよ」
「もう、うるさい。しばらく泊めてください。ツベコベ言ってると脱ぎますよ」
「脱ぐのは勘弁してください」
「むっ、なんですか。目が腐るんですか」
「いえ、心臓がとまります」
「エーイーディー用意しとけばいいじゃないですか」
「ツベコベいうのも命がけですね」
「わたしだって命がけです」
久保田さんが珍しく目をのぞきこんでくる。恐る恐るといった感じで。思ったより守りがかたかった。すんなり妥協してくれるものと思っていたのに。
「ひとつ条件があります」
「守れない条件は却下ですよ」
「誘惑しないでください」
「なにが誘惑になるかの基準を示してください。一項目づつ議論しようじゃないですか」
「コンセンサスを得るのがむづかしかったっけ、誘惑って」
「そうですよ。ウィンクは誘惑になるのかとか、あーんて食べさせあうのは誘惑になるのかとか、あげてったらキリがないほどの項目について合意しなくちゃいけないんです」
「じゃあ、断る」
「そんな権利はありません」
「ありますよ、おれんちなんだから」
「いいえ、乙女憲法で宿主の権利が制限されます」
「なんですかそれ、クリエイティブ」
「クリエイティブに免じて無条件で長期滞在させてください」
「おれが出ていきましょうか」
「ダメです」
「乙女憲法違反ですか」
「当り前です」
「でも、相内さんが誘惑してきたときは、こっちもそれなりの強硬手段に訴えざるを得ないことを覚悟しておいてください」
「押し倒されちゃいますか」
「どうでしょう、縛って転がしておくかもしれません」
「放置プレイ」
「プレイじゃありません」
「それじゃ、はい」
「はいってなんですか」
「さっき返した合鍵、あずかります」
鍵は一旦返しておいた。
「うーん、嫌だな」
「いまさらなにいってんですか」
「しぶしぶ」
久保田さんはソファを立ち、鍵をとってもどってきた。沙莉の手のひらに部屋の鍵がのっている。この満足感のために鍵をわざわざ返したのだ。うん、いい感触。でも、思いのほかの苦戦だった。往生際の悪い久保田さんだ。結果はいつでも見えているというのに。
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